第1話 ウラフリータ



 濁流にのまれた。


 わたしが想像していた死ぬ間際の美しさはそこにはなく、一瞬の濁りと苦しみがわたしを襲った。


 走馬灯もない。

 脳は反応しない。

 身体が沸騰するような感覚があって、やがてすぐに楽になる。


 楽になったことで安心したけど、自分が死んだことも悟った。

 謎の満足感があった。

 満足感を排除すると、あとは、身体がどこかへ溶けだすような感覚だけがあった。


 そうして溶けだした身体は、やがて鯨を形取る。真っ白な鯨だ。優雅に泳ぐ。白鯨になったわたしが泳いでいるということは、ここは海だろう。とはいえ、水らしきものはない。何もない空間を、プカプカ浮かんでいるような感覚だった。


 意味が分からない。

 人は死んだら、鯨になるのだろうか。



 ドンッ! ドンッ! ドンッ! ドンッ! とわたしの鯨の身体は、一定のリズムで強い刺激を受ける。まるで心臓マッサージを受けているみたいだ。ちょうど、わたしは小説のなかで、白鯨を海の心臓に例えたことがあった。

 

 外界から、何もない空間に、何かが送り込まれてくる。心臓マッサージの次は、人工呼吸だろうか。しかし、何もない空間に送り込まれてくるのは、ドロドロとしている気もするし、サラサラのような気もする、空気ではない何かだ。


 心臓マッサージと、人工呼吸のような何かが繰り返され、やがて白鯨であるわたしは、頭頂部にある鼻孔から潮を吹いた。同時に、わたしの白鯨としての自覚は失われていき、記憶にあるような人間の身体の感覚を取り戻していく。


 どこかに寝そべっているのだろう。フカフカな感覚を背中に感じるので、ベッドの上だと思う。蘇生されたのだろうか。奇妙なことに、身体が縮んでいる感覚がある。それからお腹の辺りが、不思議な熱を帯びている。


 わたしはそっと目を開ける。久しぶりの光が眩しくて、すぐに目を細める。わたしのまぶたが動いたのを見てなのか、ざわざわとした声が上がる。それから、すぐにドタバタと慌ただしくなる。わたしは広い部屋の、大きなベッドの上に寝ていた。

 

 ベッドのそばには灰色の髪を伸ばした女性がいた。華奢な身体に、シンプルな作りだが豪華な刺繍の入った服を着ていて、およそ現代の医者とは思えない格好だった。わたしの意識が戻ったのを見て、ホッとしたように表情を緩める。



「……目覚めたか」



 女性は呟いた。予想はしていたが、日本語ではなかった。日本語ではないのに、なぜか意味は理解できた。わたしの意識が戻ったことを噛みしめるように言及していた。わたしはどれほど寝ていたのだろうか。

 

 わたしは自分の意識をつむじから、つま先まで均等に広げる。手はあるし、足もある。けれど、やっぱりわたしの身体は小さくなっている。元々の身体の感覚から、半分くらいのサイズだ。右手を顔の前に持ってくる。子供の手。少なくとも、来年にはお酒が飲めるような年齢の手には思えない。


 ヨモギが縮んだのか、小さな子供に生まれ変わったのか。

 まあ、後者だろう。

 きっと、転生ってやつだ。



「はあ……」


 

 思わずため息を吐く。

 ベッドには豪華な天幕が垂れている。部屋は学校の教室ほどの大きさだろうか。部屋の様子を見ても、ここがどこか断定できない。生まれ変わったのは確かだろうけど、ヨモギが死んだ時代から、未来なのか、過去なのか。日本なのか海外なのか。分からないことだらけだ。



「船から落ちて、海で溺れたのだ。どうして落ちたのか思い出せるか?」



 灰色の髪の女性が、わたしに質問をする。

 そういう言い方をするってことは、誰かに突き落とされた可能性があるのだろう。

 しかし、わたしが覚えているのは、津波にのみこまれたことだ。船から落ちたわけではない。大きな地震があったのだ。



「アルナシーム様、ウラフリータ様はまだ目覚めたばかりでおられますので、そのような質問をするのはおやめください。ウラフリータ様が気を病まれたら、いけません」



 わたしが質問に答えられずにいると、部屋の端っこに控えている女性が、灰色の髪の女性に注意をする。彼女の言う通り、海に溺れた原因を思い出そうとして、トラウマになる可能性もある。わたしは、灰色の髪の女性の質問について考えるのを止めて、現状の把握に努めることにする。



「ふむ。そうだな。私は精神病に詳しくない。ウラフリータの看病は任せよう」



 どうやら、わたしの名前はウラフリータというらしい。

 それから、ウラフリータ嬢の記憶はぼんやりとだけど、存在はしている。身体や内臓はウラフリータのもので、脳みそもそうなのだから、記憶を引き継ぐのも理解できる。てことは、わたしの記憶はどんどん失われていくのだろうか。それは、嫌だな。そうでないことを願う。



「生命を維持するために、かなりの魔力を使っている。数日は体調が安定しないはずだ。それから、体内に残った私の魔力に対する拒絶反応で、機能障害が起こるはずだ。心して看病にかかれ」



 魔力という単語が耳に残る。

 まさか、ここは異世界なのだろうか。

 ウラフリータの記憶を探ってみても、ここが異世界だと断言できる材料はない。


 ウラフリータの記憶がぼんやりとしているのは、機能障害のせいだろうか。


 アルナシームと呼ばれていた灰色の髪の女性は、わたしのおでこに手を当て、随分と原始的な方法で熱を計る。体温計とかは存在しないのだろうか。病的なまでに白い手は、ひんやりとしていて気持ちいい。



「今は熱がないようだが、発熱したときには先ほどの薬を処方しなさい。それから、何か分からないことがあれば、すぐに呼びなさい」


「かしこまりました」



 アルナシームは部屋から退出する。

 交代するように、部屋の隅っこにいた女性がベッドに横に置いてある椅子に座る。ウラフリータのぼんやりとした記憶によると、この女性はウラフリータの側仕えで、名前はモルシーナだ。


 モルシーナは、ウラフリータの乳母の娘だった。その伝手で側仕えとして働いているみたいだ。高貴な身分であるウラフリータを敬いつつも、ダメなことはダメだとハッキリ言うので、煩わしく感じている記憶が残っている。

 

 なんにせよ、ウラフリータの主観による断片的な記憶では、情報が足りなすぎる。



「モルシーナ、わたしはどのくらい寝ていましたか?」



 ウラフリータの記憶にある語彙だけで、モルシーナと会話を試みる。わたしの感覚的には初めて発音する単語だけど、口は覚えているようで、スラスラと話すことができた。それにしてもウラフリータはかわいい声をしている。



「10日ほどです」


「それは、心配をかけました」



 ウラフリータは海で溺れて死んだのだろうか。

 わたしがウラフリータとして目覚めるまでの10日間は、おそらくあの鯨としての感覚を持っていた期間だと思う。果たして、わたしはウラフリータなのかヨモギなのか。もしくはその両方か。



「寝ている間に、夢を見ていました。日本という島国で、鯨として生きていました。日本とはどこにある国なのでしょう?」


「そのような国は存じ上げません。申し訳ございません。調べさせましょうか?」


「……いえ、結構です。きっと夢のなかの架空の国ですから」



 わたしは異世界転生をしたのかもしれない。


 ウラフリータもヨモギも死んだのだ。

 海によって死んだ二人は、鯨の力によって一人として蘇生された。ヨモギの心と、ウラフリータの身体で、ようやく一人の生命体として生きることを認められた。海の哀れみか、鯨の導きかは知ったことではないけど、わたしはヨモギでもあり、ウラフリータでもあるのだろう。

 

 そして、この世界の多くの人にとって、わたしはヨモギではなくウラフリータであるのは間違いない。生き返った、死を克服した、転生できたと喜ぶべきかもしれないが、小説家を夢見る、日本の大学生としてのヨモギは死んだ。

 ああ、発狂しそうだ。


 お父さん、お母さんは無事だろうか。無事だとしてもきっと、被災しているはずだ。お兄ちゃんは心配していると思う。きっと、わたしのことをいつまでも探しているはずだ。せめて、家族が前を向けるように、ヨモギの遺体は見つかってほしい。



「喉が渇きました。何か飲み物を持ってきてちょうだい。温かい、淹れたてのものがいいわ」


「かしこまりました」



 一人になりたいことを遠回しに言うと、モルシーナに伝わったみたいだ。椅子から立ち上がり、一礼をして部屋から退出する。広い部屋に、ポツンと一人。どんよりとした静寂が、空間を満たしている。



「ウラフリータ……」



 ウラフリータとして生きていこうと決心ができない。

 このまま、ベッドの上で布団をかぶっていたい。

 中学生のとき、学校をズル休みしたことがあった。一度休んでしまったら、学校へ行くという決心がなかなかできなかった。そして、わたしは不登校になった。きっと、死も同じだ。一度死んでしまったら、また生きて行こうなんて決心はなかなかできない。

 

 それに、わたしがウラフリータとして生きていくのなら、ヨモギは本当の意味で死んでしまう。いや、死んだのか。わたしがそれを受け入れられないだけだ。一度死んで、生き返る。言葉にすると単純明快で、希望に満ちたことだが、転生とは当事者になると、こうも複雑で辛いことなのか。



「……小説を書こう」



 小説が書きたい。

 小説家になるのがヨモギの夢だった。

 この世界にも、小説はあるのだろうか。

 もし、なかったら、わたしが一人目の小説家だ。


 わたしが不登校だったときに、お兄ちゃんは「小説を書いてみなさい」と言った。何もすることがなかったわたしは、ペンを握って、紙の上に自分の思いを発散した。小説を書いたのがキッカケで、わたしはちょっとだけ社会復帰をした。わたしは不登校のまま、高卒認定試験を受けて、大学を受験し、合格して、外に出た。

 

 一歩を踏み出す方法は、この世界でも同じだ。

 わたしは、小説を書かないといけない。

 ヨモギとしての死を乗り越えるために。

 ウラフリータとして生きていくために。

 そうして、ようやくこの世界で一歩を踏み出すことができる。




◇◇◇




 どうやら本当に異世界みたいで、部屋の中から窓の外を見ると、ドラゴンが飛んでいた。距離感が掴めないから詳しくは分からないけど、およそヘリコプターくらいの大きさで、背中に鞍のようなものを着けて、人が乗っているのが見えるから、本当にヘリコプターのように使っているのだろう。



 ウラフリータは六歳だった。

 日本なら小学校一年生くらいの年齢だ。


 しかし、歳月の数え方が、元の世界とは違う可能性がある。一年が365日である確証がないため、わたしの思っている六歳とは少し違うかもしれない。それでも、身体のサイズから考えたら、生まれてそのくらいは経過しているだろうと予想はできる。

 とにかく、ウラフリータは六歳にして、海で溺れて亡くなったかわいそうな少女だった。



 部屋に置いてあった、机の上の丸い鏡で容姿を確認してみる。

 ネイビー混じりの黒髪に、パッチリとした大きな目。瞳の色は藍色で、肌はブルーベース。全体的に青色のオーラに包まれているような気がする。華奢な身体でも、幼いながらに美しさがあって、育ちの良さが伺える。

 朱色の頬に両手を添える。

 これが、ウラフリータ。

 これが、わたし。



 ダメだ。拒絶反応がある。

 わたしは、鏡をパタンと倒した。



 体調が万全になるまで、部屋から出てはいけないと言われた。精神的には安定しないが、身体は一度死んだとは思えないほど元気である。アルナシームさんが、魔力うんぬん言っていたけど、とくに問題はないようだ。


 部屋の中で安静にしているから、何か本を持ってきてほしいと頼んだら、断られた。わたしくらいの年齢の子供は本を読んではいけないらしい。モルシーナは、きちんとした教育を受けてからではないと、思想が歪むのでダメだという風なことを遠回しに教えてくれた。思えば、ウラフリータの記憶の中に、本を読んだ経験はなかった。


 十分な教育を受けていないのに、本を読んでしまうと、思想が本に染まってしまうのはたしかにそうだとは思う。しかし、そこは教育者が監査をした子供用の絵本などは作るべきだろう。幼いうちから、読書をする習慣は養った方が良いと思う。


 少なくとも本という概念はあるみたいだ。

 わたしが、一生懸命に紙に向かってペンを走らせても、不気味に思われることはない。


 元気な身体を活かして、わたしは広い部屋を探索した。

 棚にはお気に入りの雑貨が並んでいる。

 キラキラと輝く球体を抱えている、ウサギみたいな見た目の人形。

 瓶の中に入れられた帆船の模型。

 

 ウラフリータは船が好きなのだろう。

 船に関係する記憶はとても多い。

 溺れる前も、船に乗っていたわけだからね。

 

 机の引き出しには、お手紙が保管されていた。本はダメなのに、手紙はいいのか。ウラフリータの記憶を探ると、手紙は全て父親から送られてきたものだ。

 

 手紙の内容を確認してみるけど、書かれている文字が読めない。

 会話はできるのに、文字ができないってどういうことだと首を捻る。

 さては、ウラフリータは文字が読めないのではないだろうか。六歳ということを考えたら、その可能性もある。ならば父親から手紙を貰って、どうしていたのかといえば、どうやらモルシーナに読んでもらっていたみたいだ。



「文字を覚えないと」



 小説家になるならそれが必須だ。

 わたしは机に広げた手紙を片付ける。手紙は鍵がついた宝箱のなかに大切に保管されていた。ウラフリータにとって、とても大切なものなのだろう。そしたら、わたしも大切にしないといけない。わたしはウラフリータだから。

 手紙の入った宝箱を机に引き出しに仕舞う。



 新しい文字を覚えて、それを使って小説を書く。

 きっと、それがこの世界で生きていくための決心に繋がる。

 ヨモギの人生を回顧する小説は、この世界の文字で書くと決めた。

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