梅雨とシトラス
朝日夜
第1話「梅雨とシトラス」
天気予報というのは、割とアテにならない時がある。降水確率が高くても結局降らないこともあるし、その逆も結構あったりする。
どうやら今日は後者のパターンのようで、ガラス製のドア越しから、水滴がしとしとと落ちてきているのが見えた。そして、大抵こういう時は朝から大変なことになるわけで――。
「今日雨なんて聞いてないんだけど!」
どうやら早速来たようだ。
入口から元気な声が響いてくる。まだ早朝だというのに、どこからそのエネルギーが湧いてくるのだろうか。
「開店前から床濡らすと怒られるから、ちゃんとそこで水気切ってね。傘はドアノブにかけてこっちきて。もう準備はできてるから」
「流石だねぇ」
「当たり前でしょ」
私は前もって準備しておいた水スプレーを片手で持ち、セットチェアの後ろに立つ。
「もぉ、まだ学校じゃないのにもう靴下がちょっと濡れてるんだけど。最悪。いっそのこと長靴履きたくなってくる」
「まぁ分からないでもないよ。それに後ちょっとで梅雨のシーズンになるしね」
「あーやだやだ。梅雨なんて言葉聞きたくない。ずっと晴れだったらいいのに」
「あはは。でも名前にツユって言葉が入ってるから梅雨からはずっと逃れられないよね」
私がそう言うと、げんなりと明らかに嫌そうな顔をした。
そして、地元ではそこそこ名の知れた美容院の一人娘である私が、なぜ高校の授業がある早朝から彼女を待っていたかというと、それは私が美容師を目指していることが関係する。
私――
どんな人も似合う髪色や髪型を手に入れ、最後に笑顔になりながら帰っていく。人に幸せをもたらすことができる仕事というのが、私にはとても魅力的に見えたのだ。
そして常連客の中に子連れの親がいて、その連れられてきた子こそが露子であり、彼女とは良く遊んでいた。人見知りがちな私と違って、
私はその頃に露子と交わした約束を今でもずっと覚えている。それは私が親と同じ美容師になること。そして露子はわたしがお店を持つようになったら、初めてのお客様になることだった。
そのために私は練習として露子に定期的にヘアセットをさせてもらうことを頼んでいる――ことになっていたのだが、今はでは逆に彼女の方からお願いされることが多くなってきている。
私はセットチェアに深く腰かけた露子の長髪を触れる。ふわりと爽やかなシトラスの香りがした。
「……相変わらずすごいね」
湿気のせいか、毛先の方から癖が強くついている。あっちこっちにくるくると縮れており、遠目で見るとまるで犬の毛みたいだ。
露子は恥ずかしそうに眉を下げる。
「雨の日はどうしてもこうなっちゃうの。それに比べて
正面の鏡に写った私は苦笑いを浮かべる。
露子に比べ、私の髪はストレートに伸びていて、毛玉とかは一つもない。しかし、これは生まれ持ったものでなく、母が小さい頃から髪の手入れは大切にするようにと口うるさく言われてきたからだった。もちろん今でも毎日髪の手入れは欠かさないし、母にはとても感謝をしている。
「まぁでも私は露子より髪は短めだからね。確かにロングは大変だけどちゃんと
腰付近まで伸ばしている露子の髪は癖毛ではあるものの、きちんとセットが終わった後は誰もが目を引く程に艶のあるロングヘアーになる。更に猫背気味な露子はしっかり背を伸ばせば一般的な女子の身長よりも随分と高く、スラリと伸びた四肢とはっきりとした顔立ちが相まってモデルのように見えるのだ。
私からすればこの年代の女子が欲しいものを全て持っている彼女こそ、羨ましがられる存在になるだろう。それに比べて私は普通の女子高校生。パッとした特技もなく、見た目も普通。もし高校が同じだったとして、隣同士で歩いていたら露子ばかりが目立つのだと思う。
「日本人形ってそれ褒めてる?」
露子はじとりと目を細める。
どうやら私の
「もちろん褒めてるよ。ほーら、モタモタしてると電車に間に合わないよ」
私は膨れっ面をする露子をよそに作業を始める。まず水スプレーを髪全体に吹き掛けて根本を濡らし、水分を行き渡らせてからドライヤーをかける。根本の部分は手早く乾かし、毛先に向かうにつれて威力を下げて温風を当てていく。毛量(もうりょう)が多い露子の髪はある程度乾ききるまでにも時間がかかる。だがここで手を抜いてしまえばすぐに癖が戻ってしまうし、焦って高温の熱風を浴びせ続けると髪の毛がどんどん傷んでいってしまう。
「ホントに手際がいいよね。これならカットも頼んじゃおうかな」
「お母さんに怒られるからダメ。ハサミを持つだけでも叱られちゃうんだから」
「へえ、厳しいね」
露子はそう言いながら動画配信アプリを開いて流し読みしている。どれもこれも興味なさげに飛ばし、あくびを浮かべている。
「適当だなぁ」
「まぁ、陽菜のお母さんのことだからちゃんと理由があるんでしょ?」
「そうそう。私が小さい頃にハサミを隠れて持ち出して。まぁ、勘が鋭い露子ならこの後は分かるよね?」
「あー、何か小学生の時に包帯巻いてた気がする。あの時痛がってたってよりは、すっごく凹んでたよね。よっぽど怒られたんだ? ……でも傷が残らなくて良かったね。陽菜の指、綺麗なんだからさ。傷なんてもったいないよ」
露子は鏡越しで上目遣いをして微笑む。
そして、私はピタリと手を止めた。
「……陽菜? どうしたの?」
「ん、いや、なんでもない」
鏡に自分の顔が映らないように上手く隠れながら作業を再開する。
我ながら、情けない。ただ純粋に褒められただけだと言うのに、顔がどんどん熱くなっていくのが分かる。
しゃがみこむと、また爽やかでほんのり甘い柑橘系の香りに包まれる。私の好きな匂い。心を安らげてくれる優しい香り。
私は心の中で溜め息を吐く。
私はおかしいのかもしれない。
だって女なのに、同じ性別であるはずの露子のことが好きになっているのだから――。
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