第二場
到着すると、まずは自分の部屋に荷物を置いて、部屋着に着替えた。同じホテルの、俺たちとは離れた部屋に、千晴さんが泊まっている。二軒行くよりは良いだろうと言って、千晴さんが気を利かせてくれた。
「本っ当に、助かります!」
「星野さん、絶対大丈夫ですって。」
「わかりませんよ、あいつはいつもあんな感じだから。」
「深冬ちゃんはね、星野さんは『普通』の人だって言ってました。」
「ほら、普通って。」
「深冬ちゃんの『普通』は『特別』です。星野さんならわかるんじゃないですか?」
「いいや。」
「『当たり前の日常』が当たり前じゃないって、どういうことなのか。」
「そうは言っても、俺は椿がわからないんですよ。そもそも、あいつはいったい何なんですかね。」
「知ってますよ、星野さんってパガニーニも弾けるんでしょ?」
「それは昔のことです。」
「じゃあ、なんで深冬ちゃんの前で弾いて見せたんですか?」
「それは、あいつがヴァイオリンは難しそうって言うから、ほんの少し教えて、慣れれば簡単になるって言ったら、じゃあ何か弾いてって言うから、仕方なく『ラ・カンパネラ』を弾いた。それだけです。椿はピアノの方ならカンパネラ弾けるし、好きらしいし、」
「喜ぶかなって?」
「まあ、そうっすね。」
「喜んでましたよ。」
「あ、そ、そうですか……!」
「星野さんが思うことを、そのまんま、言えばいいと思います。上手いこと言う必要なんてないですよ。深冬ちゃんはずっと『普通』を求め続けてきて、自分には無理だから『特別』のままの自分でいようって決めたんだから。星野さんだってずっと『特別』扱いされてて、本当は『普通』になりたかったんでしょ、星野さんなら深冬ちゃんの一番の理解者になれるはずだし、そういう人をあの子は求めてるし、あと、これはわたしの勘なんですけど……星野さんの良さを上手く言えないから『普通』と言ったのかもしれません。」
「それは、どんな意味……?」
「もう、そういうことは本人にきいてくださいよ!」
「一番知りたいところを教えてくれないじゃないっすか!」
「萩森さんって方を応援するためだからってお相手の方に星野さんから話したわけじゃないですよね?」
え……
「マジで?」
意味ありげにニヤニヤしながら、千晴さんは小首をかしげた。
自分の想いを伝えることはこんなにも難しいかと思う。自分なりに台本らしきものを考えたって、相手はそれを読んでいない。俺はこんなに情けないのか。俺が告げたら、どんな顔をするだろうか。その日が近づくにつれて、自分の落ち着きのなさは増大していくばかりで、翌朝一番の便で東京に戻ってからというもの、ほんの少し考えただけで心臓が波打つ。
この後だ。その前に、この回が最後だ。
現場は終わり、役者もスタッフも、全員がバラバラになる。この現場にいられてよかったと心から思えるように、この出来事を目撃できたことを喜んでもらえるように、俺の願いはただそれだけでありたいのに、嗚呼、私情を絡めず、集中して、この劇場をまるで北極海に飛び込んだかのような極寒にしたい、いや、するんだ。俺は、やる。
舞台へ一歩踏み込む。いつものように、この眩しいくらいの明るさは、アドレナリンを分泌させる。そういえば、アドレナリンはエンドルフィンともいって、生命の危機に瀕した人に投与することがあるという。
実験の許可を求める。
病院の理事会では散々ディスられ、父についても滅茶苦茶に言ってやがる。しかし、ここはヘンリーではなく、あくまでもジキル博士として俺は振る舞う。父のために、さらには未来の患者のために有用な研究を認めないくせに、理想論ばかりを掲げる偽善者たち。こんな奴ら、ゴミクズだ。ゴミクズは捨てられて然るべき。彼らへの激しくて醜い憎悪はひた隠しにして、でも。
「見えるでしょ、私の姿が。あなたのすべて、信じてる。怖くないわ。」
うん、怖くない。理事たちなんか怖くない、君がいれば何も怖くないんだ。"君"を愛している。だから……!
今こそ、二度とない、果てしない時だ。
今こそ、見果てぬ夢、手に入れる時だ。
この胸、この命が、生きる意味を見つけた。生きる意味を。
今こそ最後だぞ。運命の試練。
振り返ることはもはやない。
この日を忘れないぞ。
この時に全て賭け、素晴らしい時へ。
力与えて、導きたまえ!
生きるぞ、永遠に。
悪魔を従え、世界に見せつけてやるぞ──
あなたは部屋で何をしているの。どうして何も言ってくれないの。
「『愛に抱かれた二人の世界、あれは夢。』」
全部夢だったらいいのに。でも、過去は不変の現実。あなたと二人きりの世界も、独りぼっちの監獄も、全部は現実だった。あの世界に戻るという望み……私の夢なんだ。それは簡単には変わらなくて、確実なこと。あなたは私の、特別な人なの、だから。
「生きがいそこにある、その目に。」
あなた、見てなさいよ。この私を。
あなただけじゃない、全員、眼に焼き付けなさいよ。彼を、私を、このカンパニーを。
私は北極星よ。いつだって私は希望の星であり、年中夜空で輝いてみせるから、私はいつもそばにいる。
純愛ものと言ってもいいかもしれない、そんな物語の結末は、今ここで迎える。私の言葉で幕を閉じる。
息は止まっても、一番最後まで、聴覚は機能するらしい。声ならまだ伝わる。
ねえ、きこえているんでしょ?
「ヘンリー、苦しかったね。」
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