第二場

 四月九日

 始まった瞬間からオーケストラに圧倒されてしまった。そこにジキルの歌声が加わると、鳥肌が立った。物語の世界に入り込んでしまったような気がした。いつもは第三者としてそこにいるのに、ジキルとハイドのすぐそばにいるような気がした。

 前半の中盤のハイド登場前、高らかに歌い上げてたんだけど、音程はさほど高くなかった。重厚感って言えばいいのかな。ここから全てが動き出した。後から調べたんだけど、舞台は十八世紀のロンドン。だから神がところどころで出てくるんだね。観ているだけのはずなのに、やたら緊張した。休憩ではホールから一旦出たんだけど、後半がいきなり大人数の歌で、学校の合唱とは全然違った。何をどうしたらあんな世界をつくれるんだろう?

 次々に豪華な衣装の人たちが死んでいって、当然リアルの火ではないけど火事にもなって、ルーシーが刺されて……

 悲痛な叫び、かな。はっきり言ってるわけじゃないのに、たぶんみんな何かが足りない。物がいくらあっても物足りない。観てるだけだったはずなのに、妙に胸が苦しかった。

 最後は結婚式のシーンだったんだけど、幸せにはなれなかった。こんな時でもハイドが登場して、また誰か死ぬのかって。もうやめてって叫びそうになってしまった。そしたらハイドとジキルはジョンに撃たれた。エマの腕の中で死んだ。それでエマが「ヘンリー、苦しかったね。」と。

 幸せになるはずだった。研究を進めて役に立つためだった。全部叶わなかった。だから悲劇ではあるんだけど、でも、苦しかったねって言ってもらえた。その時にはもう絶えてたかもしれない、残念ながらよく覚えてないんだけど、死んだら誰かがわかってくれるかもしれないって、そんな気持ちを持つ人だっているんだから、なんていうか、悲劇じゃないのかもしれない。ここに入りたい。ジキルでもハイドでもルーシーでもエマでも何でもいいから、この世界の住人になりたい。

 そういえば、昔、映画を見に行ったり、テレビでドラマを見たりすると、もしこの世界に入るならって、よく考えてたな。適当だけど、こんな言葉を言ってみたいな、とか、この言葉の口調を変えたらどうなるかなって想像してみたりとか。体を動かすことはなかったけど。頭の中では、ずっと昔から、物語が好きだったのかなって、これが思うってことで、好きっていう気持ちなのかなって、思った。あの瞬間に千晴が横にいたのも、何か意味があるのかな。


 十一月二十五日

 夕方に担任の美奈ちゃんから家電で「今から家族で学校に来てください」と言われた。留年が決まって、それは電話では言えないんだ、と思って学校に行った。父が会社から帰るのを待ってから出発したから、着いたのは八時くらいだったと思う。美奈ちゃんが出迎えてくれて、そのままみんなで会議室に行った。すると、教頭、教務主任、学年主任が立っていて、我が家と美奈ちゃんも足して、面談が始まった。

 いきなり結果だけ、教務主任から。

「卒業が認定されました」

 私は喜びと「え?」という気持ちで崩れ落ちかけた。パッと美奈ちゃんを見たら、ニコッて笑ってくれて、ほんとに卒業できるんだって。「あなたが努力してたことは忘れてないよ」と追試の前に言ってくれてた。私は努力なんてしてなくて、みんなができることができないから、やらなきゃいけないことができないから、ただそれをこなしただけ。こなしたって言ったって、本来のレベルよりものすごく低い。

 でも、病院の先生は、99%の私の努力と1%の周りの力だ、みたいなことを言っていたな。これも努力かな。それなら、努力は裏切らないよ、ということなのかな。

 勉強を含めて色々やって、最後は全てが狂ったけど、全部無駄になったと思ってたけど、何か意味があったのかな。


 十二月二十五日

 やはり私は突飛なんだろうか?

 何者にもなれなかった私でも、もし私だからできることがあるなら、誰かの役に立てるんじゃないかって。私は私という人間の全てを使って仕事に繋げたい。全て放棄したら、外側から見る世界は内側から見るのとは全然違った。ちまちま記録をつけてたり、水産高校からの帰りに千晴に出逢って、私も自分が想う世界を書いて表すようになったり。好きなことやりながら誰かの為になる、素晴らしい、これだ!

 例えば医師なら、治療法のない患者さんに対しては無力だけど、治せない人に対しても、治療中の人も、元気に頑張っている人にも、みんなに届けて、そのために進み続けて、私は私として……。私は、私という人間の全てを使って仕事に繋げていきたい。表現の世界なら、どう?

 昔の「思ったこと」がわからなくて「好き」とか「嫌い」とかもなかった。ろくに遊びにも行ってなくて、世間の娯楽を知らなかった。今では当たり前なテレビやネットも、自分には縁のないものだと思っていた。高校の時は、特に後半は物凄く苦しかった。控えめに言って地獄だった。

 言いたいことがあって、それを言えるって幸せなんだよ。好きなことがあるって幸せなんだよ。動けるって幸せなんだよ。千晴や、愛ちゃんだって、動いてる。だったら私もやれるはず。人の心に、社会に、感動という素晴らしいものを届ける。そして、誰かの人生を豊かにしていく。仲間にはもう出逢ってたんだ。ずっと闇から出ることしか考えてなかったけど、それじゃないんだよね。

 繋がって、笑いあって、一緒にいる時も個々でも尊くて、それを見てる人も幸せ。それって半端なく尊くて、そう簡単には見つからないけど私はそんなところに行きたい。無いならつくればいい。めちゃくちゃ難しいだろうけど、やりたい。

 思っている"今"こそ、見果てぬ夢、手に入れる時だ、とか、明けない夜はないし止まない雨もないし、壊れた夢の色だって明日をえがくには使えるはず。学校で歴史をやるように過去を見返せば、案外ヒントはあるのかも。

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