第3話 今夜は帰さないぞ

 わたしが戸惑っているのを見たコンラート様は、ふっ、と甘いため息をはいた。わたしの顔をのぞきこんできて、優しくいう。


「今日、明日、すぐにとはいわないよ。僕は待てる男だからね。でもローレル、僕は不安になるんだ。僕がローレルに愛されてないんじゃないかと……」


 お慕いはしているんだけれど、男性としてとみると、ちょっと、うるさい。とってもうるさい。


「ローレルは僕のこと好き?」


 うるさい、ということを無礼にならずに高貴な相手に伝えたい場合、どうすればいいんでしょう。

 わたしはこうした。


「……コンラート様、ほんとうにひどい。もうすこし、ゆっくりしてるときに、はなしてください。わたし、疲れてる……のに」


 声が低めの、のんびりした間の抜けた話し方が全開だ。色気もなにもない。


 コンラート様がエメラルドの瞳を大きく見開いた。わたしの頬に指先が触れた。


「疲れたのか!? なんてことだ。ああ。そうだったね。演奏後の奏者は身も心もボロボロなんだった——、くっ、よし、僕の家でゆっくり休もう。バスタブに湯とバラの花びらをたくさん入れてね」


「は?」、とわたしは顎が抜けそうなほど驚いた。僕の家、つまりキルシュネライト公爵邸ということだろうか。首都のまん中に位置する、あの大きくて派手なかまえの?


 やだやだやだ、とわたしは頬をまっ赤にした。


 父を亡くしてから、親戚のところを転々としていたけれど、いちばん長く引き取ってくれて、優しく扱ってくれたのが、キルシュネライト家だった。子供のわたしは、失礼だけれどもコンラート様を「兄様」とお呼びしていた。

 でも、もうわたしは二十一歳だもの……。

 キルシュネライト家がいかにえらい家かという社会のことを知ってしまっているいま、コンラート様を親しい気持ちでお慕いすることは、もうやめないといけないから。


「今日は僕の家に帰ろう。ローレル。今夜は帰さないぞ」

「わたしの家に帰してください」


 すると、頭をなでられた。わたしの味気のないまっすぐな栗色くりいろの髪の毛が、彼の指に絡まっていく。

 なつかしい。よく小さいころ、こうして頭をなでてもらっていた。お父さんが死んだのを思い出したとき。お母さんがいないのを思い出したとき。——この世に、わたしはひとりぼっちなのかもしれないととき。


「帰せるわけないじゃないか。だいたいなあ、演奏会で失敗してきて」

「……んぐっ」

「冬の日で、雪が降ってるなんてときに、ひとりで君を帰してみろ。あの狭いアパートメントのなかで、ベッドにくるまって泣けもせず、やけ酒するに決まってる。二十歳のとき、酒の味を覚えちゃったんだから」

「……ぬん」

「そうしたら、暑くなってとっても気持ちがいい気分になり、外にシャツ一枚で出て、心臓発作でも起こすに決まって……い、いや、いやだあああああああああ! か、それか、ふ、あ。あぁぁぁっ。君はかわいいから雪道をいく変な男のえさにならないともかぎらなーーーーい! お互いのぬくもりを分け合いましょうとか言って、うわああああああああああああああ!!!!!」


 隣でコンラート様がひとりで暴れだした。運転手が「旦那様、車が壊れます!」とコンラート様を止めた。そのせいで彼は少し落ち着いた。息はまだ整っていなかったが。

 わたしは呆れて口をぽかんとあけてしまった。


 深呼吸をしながら、コンラート様はわたしのほうを向いてふしぎなことを言う。


「いちおう、あそこのアパートメントを建てた会社を経営している身からいわせると、大家さんの話をよく聞いたほうがいいかもしれないね。ローレル。今日は帰らないほうが、寒い雪の日に雷を落とされなくて済むかもしれない」

「……えっ」


 また、頭をぽんぽんとされた。なんだかその頭のなでかたは、先ほどと違って元気づけるというよりしょうがないものを慈悲ぶかくなでている聖女のようななでかただった。わたしはうつむく。ひょっとして。……?


「僕はローレルが頑張っていることを知っているよ。でも、なかなかうまくいかなくて、大変なこともね。それも、ちゃんと大家さんに言っておいたからね」

「……か、帰ります〜〜〜!!!!」

「えええええ!? ローレル、そういう選択をしてしまうのか!?」


 いたたまれなくなって、運転手さんにお願いすると、運転手さんはこころよくわたしをアパートメントまで送り届けてくれた。


 雪のなか、毛織物の温かそうなショールを着た、中年の女性の大家さんが、仁王立ちでわたしを待っていた。

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