第2話 自動車なんて最新鋭の乗り物に乗る公爵(※親戚)
演奏会が終わると、もう夜もふけていた。空は暗い紺色で、黒に近い紺色のカーテンに、白い砂糖の粉をまぶすように、雪が降っていた。
わたしはコートをしっかりと着こみ、楽譜の入ったカバンを抱いて、はあ、とぐったりため息をもらした。本当に失敗ばかりで、自分が自分で嫌になる。
しかも、石畳の道はすでに雪がかなりつもっていて、わたしの履いてきた、ただの靴では歩けそうもない。
——雪靴を持ってくるんだった。
靴箱の片すみにおいてある雪靴を思い出して、わたしはげんなりとした。
けれども、先ほど共演したチェロ奏者がひとり、「うぉぉぉ! すべるうううう!」と叫びながら、ふつうの靴で道を歩いているのを見た。歩いているというか、すべっているというか。
わたしは勇気づけられた。ふつうの靴でも、すべりながら歩けるのではないか。幸い、わたしのアパートメントからこの演奏会場である、首都の片すみの小さい劇場までは遠くない。行きは歩いていった。
少し裾がほつれたスカートをたくしあげ、意を決して石畳の上に足を乗せる。靴底がつるっとした。
「……うぉぉぉ! すべるうううう!!」
歩くというか、すべるというか、歩くというか、すべるというか、とりあえず動きはじめたそのとき。
自動車が目の前に止まった。
わたしは驚いた。この国では、長い距離を移動するとき、馬車を使うのがふつうだ。自動車なんて最新鋭の乗り物に乗る人間は、とんでもなく身分の高い人間か、金持ちの人間と相場が決まっている。少なくともふつうの暮らしをしている人間が乗る代物ではない。
わたしの父のいとこに、そういう暮らしをしている人間がいる人がひとりいるが、まさか彼ではないだろう。彼は仕事で忙しいから、夜に首都の片すみの小さい劇場にくる余裕などないはず。
自動車のエンブレムをみると、ライオンと盾をかたどった紋章だった。
「は?」
知っている紋章だ。非常に知っている。そう、その
自動車の扉がばあん、と開いた。
「ローレル〜〜〜!」
大きな声とともに、自動車から青年がにこやかな笑顔を見せて現れた。
くせのある輝く金髪を後ろに撫でつけ、きりりとした自己主張の強そうな凛々しい眉と、アーモンド型の眼を持ち、その眼のなかにはエメラルドがはめ込まれたような瞳を持つ。軍人とまではいかないが、細身ではなく、わりと堂々たる身体つきをしている。黒い毛皮のコートを着て、シルクハットをかぶっている。
わたしは目が点になった。どうして彼がこんなところにいるのだろう。
「ローレル、雪靴を履いてこなかったのかい? そんなこともあろうかと思って雪靴を用意していたんだ」
そうして彼は自動車のなかから新品の赤い雪靴をとりだし、ぽん、とわたしの前に置いた。
「……コンラート様、なんで、いるん、……ですか?」
わたしの問いに、青年、つまりコンラート様はほほえんだ。
コンラート・フォン・キルシュネライト。このフォルストブルク共和国には、政治を担当する「六公家」という六つの貴族の家がある。その貴族のひとり。キルシュネライト家の当主だ。公爵なので、キルシュネライト公爵殿下、といわれている。さっきもちょっといったが、このお方こそ、わたしの父のいとこだ。わたしより五歳年上、だったっけか。
わたしはわたされた雪靴とコンラート様を交互に見比べ、「……」と言葉をなくしてしまった。
そんなこともかまわず、コンラート様はつづけた。
「それは、お父上から君をあずかっているものの義務だからね。僕は君の足の大きさから頭まわりの大きさまでちゃんと把握してるんだよ」
「……うそ、やだ」
おもわず本音が出てしまった。
コンラート様はわりあい明るい性格の方で、悪い人ではないのだが、表現が大げさな時があり、困る。
「まあ、雪靴などいらないんだけどね。ささ、こっち」と彼に腕を引かれて自動車のなかにつめこまれた。
ぎええ、とわたしは混乱しながらも、ちょっとほっとしながら車に入る。車のシートがふかふかして心地がいい。
コンラート様が赤い雪靴を、どこから出してきたのか可愛らしい紙袋に入れ、わたしに持たせながら聞いてきた。
「ある情報筋から聞いたよ。仕事でなければ
「……んんっ」
わたしは顔を背けた。
コンラート様はその様子に「かわいい〜」と目を細めながらいう。
「そろそろ僕と結婚する気になったんじゃないか? 僕を眺めて毎日ピアノを弾くんだ。技術がさぞ高まるだろう。それに僕と情熱的に愛を交わし、その美しい愛を曲に叩きつけるんだ。さぞ人の心を動かす演奏ができる……」
そういうところおおおお、とわたしは頭を抱えた。悪い人ではないのだが、変な求婚をしてくる。そうでなければ本当にいい人だ。雪靴もくださったし、わたしがピアノ奏者であることをばかにしたりしない。
んだけどさあ……。
「愛してるよ、ローレル」
まってぇぇぇ。
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