さよならについて

下上筐大

さようなら

この頃さようならという言葉に不思議な魅力を感じて仕方がない。この頃というよりはもうずっと長い間この言葉の持つ不思議な魅力に惹きつけられている気がする。ただの別れの言葉、定型句にも関わらずここまで心惹きつけられるのはなぜなのだろうか。別れといっても、いろいろある。学校終わりに、さようなら。遊んで別れて、また明日。さようなら。ご縁があれば、また会えますね。愛し愛されさようなら。もう会うことはないでしょう。私が思うのはさようならという言葉にはまた会いましょうという意味は込められておらず、それが狂おしく私を惹きつける。さようならと言うとき、本来はもう会うことは想定していないのではないか。一期一会の人生でまた会うことは粋ではないのかしらん。さようなら、もう会うことはないでしょう。さようならと言うとき、また会うことを暗に拒絶してるように思えて仕方がない。他の国の言葉を考えてみると、中国語では別れのときに再见という。これは見たまま、また会うことを前提にしている。英語ではsee youやsee you againなどというが、また見る、会うことをやはり想定しているように思う。さようならに代わる日本語はいくつか思いつく。またね。また今度。バイバイ。じゃあね…どれもこれもなんだか寂しげな表情を持っているように思える。さようならだけでなくさようならに代わる表現もなんだか寂しげなものしかない。日本人は別れに関して特別な思いを持っているのではないか。それは一期一会と表されるような日本人の感覚、出会いを大切にし、次なんてものがないかもしれないという切羽詰まったような心持ちがそうさせているのかもしれない。結局、私の人生の経験不足がひどく、さようならという言葉に秘められたこの寂しい感情を読み取ることは難しい。また将来、さようならという言葉について考える機会は多くあると思うので、ゆっくり考えていきたい。では、さようなら。また今度。

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