第4話 誘いに乗るか? 乗らないか?
三者面談の翌日、弘哉は学校を終え、自転車にまたがりまっすぐ自宅へと戻ってきた。
満に進路の話をして「お前とはもう二度と話したくない」と言われたので、呼び止められることがないと信じていた弘哉は、委縮することなく玄関の戸を開け、自分の部屋へ向かって足音を立てながら廊下を通り抜けていった。
厨房の前を通ると、中では満が包丁を片手に魚をさばき、丁寧に切り分けて皿に盛りつけていた。
「ただいま」
弘哉は満の背中に向かっていつものように声をかけたが、満からは何の返事もなかった。弘哉の声に気付いていないのか、手を休めることなくひたすら包丁を動かしていた。
結局お互い言葉を交わすこともないまま、弘哉は厨房の前を通り過ぎて行った。その時、廊下の向こう側から、食材の入った袋を手にした信子が姿を見せた。
「お帰り、弘哉」
「ただいま、母さん。父さんが僕に何も言ってこないけど……手伝わなくてもいいの?」
「いいんじゃないの? さっき会った時に『弘哉にはもう料理をさせない』って言ってたからさ」
信子はあっさりとそう言うと、厨房に入り、満の隣に立って調理の補助を始めた。それは、昨日まで弘哉が満から命令されてやっていた仕事であった。
とりあえず、弘哉は料理の修行をする必要がなくなったようだ。でも、満は本当に弘哉の進学希望を許したのだろうか? 勉強のために机の上にノートや参考書を広げても、いまいち集中できないまま時間が過ぎて行った。
その次の日も満は帰宅した弘哉を呼び止めることなく、一人黙々と料理をしていた。気が短い満のことだから、いくら『もう料理をさせない』と宣言したところで、どうせすぐ忘れて再び料理をやらせるに違いない……そう思った弘哉は、いつでも厨房に呼び出される覚悟はしていた。しかし、翌日も、翌々日も、そして一カ月が過ぎても、弘哉には全く声がかからなかった。
夏休みに入った弘哉は、一度も店を手伝うことも無く、毎日ずっと受験勉強を続けていた。しかし、いくら気合を入れ直しても勉強に身が入らず、買いあさった問題集もほとんど進捗しないまま、机の上に積まれていた。そもそも志望先として選んだ大学の志望動機は、そこで何か勉強したいことがあるわけではなく、今の成績でも受かりそうだからという消極的なものであった。志望動機が弱いせいか、勉強を始めてもほとんど集中することができず、漫然と時間を過ごしていた。
新学期を目前に控えた八月最後の週末。
部屋の片隅に置いた扇風機の風に吹かれながら机に向かっていた弘哉は、ドア越しに聞こえてくる男性のはずむような声と甲高い笑い声が気になっていた。その声は、徐々に弘哉の部屋の方向へ近づいてきているように感じた。
弘哉はどこの誰が来たのか気になり始め、部屋のドアを開けてそっと廊下を覗き込んだ。外には誰もいなかったが、しばらくすると近くの洗面所のドアが開き、小太りの中年男性が姿を見せた。顔や半袖のシャツから覗く腕は真っ赤に日焼けしており、腕には高価そうな腕時計を巻いていた。
「久しぶりだね、弘哉君」
中年男性は、「まる福」の常連である
「今日は釣りの帰りに立ち寄ったんだ。近くの港で漁船に乗せてもらってね。ちょっとだけ沖に出て、大物をたくさん釣り上げてきたんだよ。今、釣った魚を大将にお願いして、刺身にしてもらってるんだ」
「今日は何が獲れたんですか?」
「カンパチ。結構大物で、釣り上げた時はかなり手ごたえがあったよ」
征之介は数年前、市内のカントリークラブでゴルフをした帰りに一緒にコースを回った仕入れ業者に連れられてこの店にやってきた。新鮮な魚介類を使った料理の数々にほれ込み、それ以来、数カ月に一度の頻度で栃木から遠征しては、釣りやゴルフを楽しみ、帰る前にこの店に立ち寄るようになった。今では店主の満とすっかり懇意になり、満のことを「大将」と呼んで慕っていた。
「征之介さん、出来たぞ。カンパチの刺身、新鮮なうちに食ってくれや」
厨房から満が顔を出して、大皿に乗ったカンパチの刺身を見せた。
「おお! 大将、ありがとう。こんなに鮮やかな色で脂が乗った刺身、俺の地元じゃ食えねえもんな」
征之介は両手を叩いて歓声を上げると、満の後を追って厨房の中へと駆け込んでいった。
厨房の戸は開けっ放しになっていて、征之介からの「うまい!」という大きな叫び声が廊下まで聞こえてきた。
その時突然、征之介の声に交じって、満のだみ声が聞こえてきた。
「なあ征之介さん、食事中にすまねえが……俺、ちょっと相談したいことがあるんだよ」
「どうしたの? 大将らしくねえな、そんな神妙な顔して」
「うちの後継者のことだよ」
まさか、満が征之介を相手に自分の話題をするとは思わなかった弘哉は、自分の部屋のドアを開けっぱなしにしたまま、厨房から聞こえてくる会話に耳をそばだてていた。二人とも声が大きいので、会話は廊下の奥まで筒抜けだった。
「後継者って、弘哉君が跡を継ぐんじゃないの?」
「いや、跡を継がないかもしれないんだ。あいつ、大学に行きたいんだって」
「ええ? どうして急にそんなことを……」
「自由に生きていきたいんだってさ。きっと俺が必死に料理を教えても、まともにこなせずに怒られたのが辛かったんだろうな……。俺が悪かったんだ。手際が悪いのを隣で見てるうちについイライラしちまってさ」
満はいつものような張りのある声ではなく、自信を失ったか細い声で征之介に語り続けていた。
「でもさ大将、跡継ぎがいなくなるとこの店はどうなっちゃうの? そもそも大将、肺の病気はどんな塩梅なの? もし急に悪化したらどうするつもりなの?」
「今は落ち着いてるけど……医者が言うには、もし再発した時は命にも危険が及ぶかもしれねえって言ってたよ。このまま俺がポックリ死んじまったら、この店はどうなっちまうんだろうと思うと、心配で余計胸が苦しくなるんだよ」
「あれ? 弟さんは? まだ海外放浪から帰ってきてないの?」
「俺はあいつに任せるつもりはねえ。好き放題やって、この店をつぶしちまうだろうから。それにあいつ、神奈川でイタリア料理のレストランを始めたみたいだし」
「そうか……じゃあ無理だな」
弘哉は、満が深刻な様子で他人に相談している姿を初めて見た。満は人の意見に聞く耳を持たず、自分の考えで全て進まないと気が済まない性分だと思っていたのに……。
「大将、僕から一つ提案していいかな?」
征之介は箸を皿の上に置くと、身を乗り出して満の目の前に顔を突き出した。
「……何かいい案があるのか?」
「弘哉君が高校を卒業したら、僕に彼を預けてくれないかな? 立派な料理人になれるよう、うちの板前達の下でしっかり修業してもらうから」
「えっ!?」
征之介からの提案を聞いた時、満の声と弘哉の声が偶然重なりあった。
「板前のうち一人が、独立するために今年いっぱいで辞める予定なんだ。そいつの替わりとして、弘哉君に見習いとして働いてもらおうかなって思ってね」
「でもあいつ、大学に進学するって……」
「大学? 行こうと思えば何歳からでも行けるよ。もしうちに来ても料理が嫌だと思うなら、その時改めて進学を考えればいいと思う。僕としては、ぜひとも弘哉君にこの店を継いでもらいたい。そのために僕が出来ることがあれば、全てするつもりだからさ」
征之介は頭を掻きながら申し訳なさそうにそう言うと、強い音を立てて席から立ち上がり、弘哉が立ち聞きしている廊下に向かって近づいてきた。
「おーい、弘哉君! そこにいるんだろ?」
その時突然、征之介が廊下に向かって声をあげた。どうやら弘哉が盗み聞きしているのに気付いたようだ。
「君にぜひ話したいことがあるんだ、中に入ってくれるかい?」
弘哉は全身がすくみ上り、「は、はい」と声を震わせながら返事すると、制服姿のまま慌てて厨房の中に駆け込んだ。
目の前には、太い腕を胸の前で組みながら口を真一文字に結んで睨む満の姿があった。
「なあ弘哉君。来年高校卒業したら、僕の料亭に修行に来ないか?」
征之介は、まっすぐ弘哉の目を見つめながら問いかけた。
「征之介さん、僕、実は、その……」
「ああ、大将から聞いたよ。大学に進学したいんだって? 進学して何か勉強したいことでもあるのかな?」
「いや、その、特には……」
征之介は、まるで弘哉の本心を見透かしたかのような問いを投げかけてきた。
「特に無いならば、うちに来なさい。お父さんは君のことをこの宿の後継者と考えているんだ。僕の料亭にはベテランの板前が何人もいる。君が一人前になるまでしっかり指導するよう伝えておくから、安心して栃木に来なさい」
征之介は目を細めながら、優しい口調で弘哉に語り掛けた。
弘哉は三者面談で進学意思を示したものの、いくら気合を入れ直しても受験勉強は長続きせず、このままズルズルと大学受験の時期を迎えることに正直不安を抱いていた。このまま征之介の提案に乗っかれば、とりあえず卒業後の進路は確保され、無駄な勉強をする必要もなくなる。弘哉にとって、渡りに船の話であるのは間違いなかった。
しかし、それは弘哉が嫌いな料理を生業とする仕事であり、「まる福」を継ぐための修行であることを考えると、安易に提案を受け入れることはできなかった。
もしこの後、弘哉が「断ります」と言ったら、どうなるんだろう……。
征之介は弘哉に寄せた期待を裏切られ、がっかりしてしまうに違いない。そして満は上得意客である征之介が提案してくれたことを反故にされて、烈火のごとく怒りだすに違いない。
しばらくの間、弘哉は無言のまま二人の目の前で立ち尽くしていた。
目の前に立っている満は、頬杖をつきながら、弘哉と目線を合わせないように体を横に向けて座っていた。
なかなか結論を出せなかった弘哉だったが、さすがにこれ以上沈黙を続けるのは申し訳ないと思い、征之介の方を向いて重い口を開いた。
「ごめんなさい……ありがたいお話ですが、もう少し考える時間を頂けますか?」
弘哉が口を開いたその時、征之介は目を丸くして弘哉の方を向いた。
「どうしたんだ? 君にとって悪い話じゃないのに……。まあ、まだ卒業まで時間はあるからな。いい答えを待ってるよ」
「すみません」
弘哉は頭を下げると、重い足取りで階段を昇っていった。
部屋のドアを閉め、厨房にいる二人の会話を耳に入れないよう、強く耳を塞いだ。
十分ほど過ぎた後、玄関が閉まる音がかすかに聞こえ、弘哉はようやく耳から手を離した。外からは車のエンジン音とともに征之介の「弘哉君によろしくね」という甲高い声が窓の外から聞こえてきた。
ひとまず結論は先延ばししたものの、受けるべきか、断るべきか……いつかは答えを出さなくてはいけない。弘哉はノートを開きながら、どうしたらいいのかずっと自問自答していた。
新学期が始まって直ぐ模擬試験があるというのに、勉強は全く手つかずのまま、夏休みが終わろうとしていた。
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