感情というスパイス

マサルが肉を全体の半分ほど食べ終わると、不意にその視界が暗くなった。

目の前にあった箸も皿も肉も見えなくなった。

机も無い、椅子もない、ここには何もない。

だから何も見えないに違いない。


そしてマサルは腹の溜まり具合がさすがに限界な事を知った。

このような状況になるまで気づけなかった事に驚いた。

この年で良くここまで食べられた物だ。

よほど肉を気に入ってしまっていたようだ。


さて、マサルは動こうにも腹が重くて動けない。

仕方がないので座ったままでゆっくりすることにした。

およそ普通の状況ではないのでジタバタしても仕方ないと思った。

暗闇の中では不快感はなく、落ち着く雰囲気を感じる。


マサルが手を伸ばしてみても箸や皿には触れられない。

見た目だけでなく実際に存在していない。

それに気づくと、では自分がどうやって座っているのか分からなくなった。

自分の身体にも触れられない。


ここは勝鮨ではないのだろうか。

ここは夢か幻の中なのだろうか。


マサルは現状について考える事にした。

さっきまでは勝鮨にいて、肉を食べていた。

今はどこか知らない所にいて、ここには何もない。

自分は人道を踏み外す事をしたのだからバチでも当たったのかも知れない。

しかしそれをやった事自体には後悔していない。

飽くまで母を悲しませる事に後悔していて、それを防ごうと思っている。

その目的のためなら何をしても良いと自分で決めた。

しかし今はそのために何かをすることもできない状態だ。


マサルがしばらく物思いに耽っていると、やがて強烈な眩しさを感じた。

少しして目が見えるようになった。

しかしそこは勝鮨ではなかった。

色褪せた世界が目まぐるしい速度で動いている。

誰かが何かをするその様を、その視界で見続けている。

そんな様子が目の前に広がった。

どうしてこのような事になっているのかわからなかった。

しかしその中にマサルの顔が出てきた。


そのマサルの顔は鬼とも仏とも見えるような奇妙な顔だった。

その顔があらわれてからすぐにその光景は消えて見えなくなった。

マサルはまた暗闇の中に戻って来た。


マサルは自分の見た光景に何か思う所があった。

およそ大部分は知らないものであったが少なくとも自分の顔が見えた。

そうだ、あの男の、大社おおこそ出雲いずもの記憶だ。


マサルが彼の胸に包丁を刺した時、彼にはマサルの顔が見えていた。

先ほどマサルが見た光景とは、その時の彼の見た光景だったのだ。

マサルはイズモの一生を見たのだ。


イズモがマサルに招待された時、その手紙を見たイズモは動揺した。

マサルの父は医療ミスによって死んだ。

直接の原因を作ったのは看護師だったがそれでもイズモは隠ぺいを画策した。

イズモが責任者だったからだ。

その方法は稚拙だったが初めての事だから仕方がなかった。

イズモとしてはマサルとその母にさえ知られなければ良いと思っていた。

だからマサルに呼ばれた時、イズモは覚悟をしてから向かった。


ところがマサルはイズモに対して核心を突くようなことを聞いてこなかった。

この時のマサルはイズモの意志で真実を話してほしいと思っていたが、

イズモとしては隠し通せるのであれば喋る気など毛頭なかった。

だからマサルの様子を見てイズモは嘘をつくことに決めた。

お互いに姑息な考えをしていた故に導かれた結末だったのだ。


イズモの最期はマサルへの怒りだった。

知っていたのなら最初からそう言え、そのような素振りがあれば白状したのに。

わざわざ騙すような手口を取るのではやってる事に大差はないぞ。


しかしマサルは騙すつもりなどなく、そもそもイズモを呼べれば良かったので、

最も確実に呼び出せて殺しやすい状況を作れる方法を取っただけだった。

だからイズモの最期の思いを知った時、マサルは胸がすっとした。

ざまあみろだ。


今のマサルにはイズモの生まれから死まで、何から何まで分かる。

知りたいと思えば手に取るようにその記憶を見られるようになった。

マサルは不思議な力に目覚めたのだ。

人を殺して食べる事でその記憶を盗むことができる力だ。

肉の味も良かったが、この力で得られる快感も良かった。


マサルはもっとやってみたいと思った。

マサルは得も言われぬ感情を持った。

この感情は医者に対して持ったものでは無かったのだ。


そうかこの感情の正体は自分の欲望だったのか。

殺すと決めた獲物に対してぶつける本能のようなものなんだな。

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