【短編小説】自由を求めて

Unknown

自由を求めて

 同棲していた彼女が壊れ始めたのは2年前だった。当時群馬県のとあるマンションで暮らしていたのだが、休日の昼間に突然彼女が怯えた表情をして「隣の人がずっと私の悪口を言ってる」と俺に訴えた。だが、俺にはそんな声は全く聞こえなかった。俺が「そんなの聞こえないよ」と言うと、彼女は「どうして勇太には声が聞こえないの!? 私に向かってずっと死ねって叫んでるのに!」と言った。また、彼女は「私の思考がずっと盗聴されてる。スマホの検索履歴が全部覗かれてる。このマンションのみんなが私の事を殺そうとしてる」と言った。「Wi-Fiルーターに盗聴器が仕掛けられてる! 勇太も危ないよ!」と彼女は必死に叫んだ。そして彼女は部屋に置いてあるホームルーターを壊そうとして、コンセントを引っこ抜き、何度もルーターを床に叩きつけ始めた。俺は静止したものの、彼女の暴走は止まらずに、ルーターを破壊し続けた。しまいには、部屋の隅に置いてあった俺のアコースティックギターを思いきりルーターに向かって叩きつけて、遂に彼女はルーターを壊した。俺は「病院に行こうよ」と彼女に伝えた。だが彼女は「どうしてルーター壊したのにまだ盗聴されてるの!?」と叫んで泣いた。俺はそれからずっと「今から病院に行こう」と言い続けた。しばらく経って彼女がある程度落ち着いたところで、俺は近所の精神科病院に何件も電話をかけた。だが、どの病院も予約は数ヶ月待ちで、彼女を今すぐ診てくれる病院は無かった。精神病に対する知識が浅い俺でも、彼女が今「統合失調症」に罹患していると確信を持っていた。俺が何度も色んな病院に電話をかける中で、とある病院で1週間後の予約を取る事がなんとかできた。翌日は月曜日だったのだが、俺は彼女を説得して、会社を休ませた。今の彼女を外に出してはいけないと思ったから。俺も会社を休む事にした。今の彼女からは目が離せない。最悪俺は仕事を休みまくってクビになってもよかった。仕事なんてクビになったらまた探せばいいだけだ。それよりも彼女を守る事が大切だった。でも、俺は彼女を守る事が出来なかった。今でもずっと後悔している。俺が全く睡眠を取らずに彼女をずっと見ている中で、俺は睡魔に耐えられなくなり、部屋のソファで少しだけ居眠りをしてしまった。その間に彼女はキッチンにある包丁を持ち出して外に出て、マンションの隣人を刺し殺そうとしてしまった。不幸中の幸いだったのは、殺人が完遂されずに未遂で終わった事だ。隣人は男性だった。だが、その男性は何ヶ所も切り傷を負ってしまった。俺が目を覚ました時には、既に警察が隣の部屋に来ていて大騒ぎになっていた。彼女はその場で現行犯逮捕され、しばらくの間ずっと留置所に入っていた。同居人である俺も事情聴取を受けたりした。警察から彼女の母親に連絡が行った時、彼女の母は「あ、そう」とだけ言ったらしい。彼女はずっと母親から肉体的、精神的な虐待を受けて育った。しばらく経って留置所から出た彼女は、そのまま群馬県内の大きな精神科病院に入院をする運びになった。

 ──そして、彼女が精神科に入院してから今日で丸々2年の月日が流れた。退院の見通しは、未だに立っていない。


「ふぅ」


 深夜2時、俺は自宅アパートのベッドであぐらをかきながらアイコスを吸っていた。部屋の電気はつけていないから真っ暗だ。加熱式タバコの利点は絶対に火事にならない事だ。だからベッドの上でずっと吸える。加熱式に変えてからは、ほとんど紙タバコは吸わなくなった。今の時代は割とみんな加熱式を吸ってるのではないかと思う。まあ、そんな話はどうでもいい。

 明日は土曜日で仕事が休みだから、入院している彼女の面会に行くんだ。

 彼女の面会には仕事が休みの日しか行けない。彼女は甘い食べ物が大好きだから、いつも面会に行く時はコンビニに寄ってスイーツを買っていく。それを面会室で彼女が食べる。病院の売店でもスイーツは売っているが、彼女はお金を持っていないから売店に行く事が出来ないそうだ。精神科病院では、患者の家族が病院にお金を預ける事で患者が売店を利用できるシステムになっている。彼女の親は、自分の娘のためのお小遣いを一切入れていない。だから彼女は売店には行けない。OT(作業療法)の延長で、なにかのイベントの日には特別な食べ物を食べられるらしいが、そういう機会は稀で、彼女はいつも病院食だけを食べている。ただでさえ自由と娯楽の少ない精神科病院の中で、せめて面会の時くらいは好きな物を食べてほしかった。ちなみに面会室での飲食は禁止されているが、面会室の中には看護師は入ってこないから、こっそり何か食べる事くらいは余裕で出来る。面会時間は30分以内というルールも一応あって、ある程度時間が経つと看護師が呼びに来る。本当はもっと話していたいのだが、ルールだから仕方が無い。

 俺は彼女と何を話すか考えながら、ベッドの中で眠りについた。


 ◆


 朝の9時半に目覚めた俺は、シャワーを浴びたり身支度を整えたりしてから、アパートの駐車場に停めてあるバイクを走らせて彼女が入院している●●病院へと向かった。ちなみに俺が乗ってるのはハーレー・ダビッドソンだ。ハーレーに対する憧れはずっと持っていたのだが、仕事が忙しくてなかなか教習所にも頻繁には通えず、つい最近やっと大型バイクの免許が取れた。

 道中、コンビニに寄って「モンブランのケーキ」と「唐揚げ棒」と「みたらし団子」を買った。ちなみに彼女と俺の分をそれぞれ買った。俺も食いたいし。


「ふぅ」


 会計を済ませた俺は商品の入ったバッグを片手で持ちつつ、コンビニの外の喫煙所でしばらくタバコを吸った。タバコを吸うと心が安らぐ。そういえば彼女は喫煙者である俺と出会った事がきっかけで、彼女自身も喫煙者になった。病院ではもちろん喫煙は禁止されているが、アイコスだったら部屋に匂いも残らないから、面会中は俺の吸ってるアイコスを彼女に渡している。例えがキモいかも知れないが、タバコを吸ってる彼女はまるでおしゃぶりを咥えている赤ちゃんみたいで可愛い。まあタバコなんて大人版のおしゃぶりみたいなもんだし、別にかっこよくもなんともない。


「ふぅ」


 タバコを1本吸い終えた俺は、吸い殻を捨てて、バイクに跨ってヘルメットを被り、病院に向かってバイクを走らせた。


 ◆


 しばらくバイクを走らせていると彼女が入院している病院に辿り着いた。この病院はかなりでかい。彼女によれば、9階まであるらしい。

 駐車場にバイクを停めて、俺は病院の中に入って、受付の女性に「1階に入院してる佐藤桃子と面会予定の者ですが」とぶっきらぼうな口調で伝えた。そして色んなやり取りの後、俺は看護師に連れられて、大きな両開きのガラス扉の向こう側に行った。この扉こそが患者と外界を完全に隔てている堅牢な壁だ。この扉は面会者が入る時以外はずっと施錠されており、患者は退院の時しかこの扉の先の景色を見る事がない。俺の彼女はもう2年もここに入院している。

 俺は看護師に誘導され、面会室の中に入った。


「今から佐藤さん呼んできますねー」


 と女性看護師が俺に告げた。


「はい」


 と俺は下を向いて呟いた。


 ◆


 しばらく面会室のソファに座って彼女を待っていると、やがて扉が開かれた。そこには俺のかけがえの無い恋人である佐藤桃子が立っていた。

 桃子は上下黒のスウェットを着ている。桃子の髪は腰の辺りまで伸びている。

 桃子は笑顔で部屋に入ってきて、テーブルを挟んで俺の向かいにあるソファに座った。

 そして桃子は笑顔で言った。


「おはよ」

「おはよう」


 と俺は笑顔で返した。


「毎週来てくれてありがとうね、勇太」

「いいんだ。俺は桃子と面会するために1週間仕事頑張ってるんだから」

「ありがとう。最近どう? あんまり変わりない?」

「今週は残業が多くてちょっと疲れたなあ。繁忙期だから仕方ないんだけどね」

「そっか。お疲れ様。あんまり無理はしないでね」

「うん。桃子は最近調子どう?」

「めっちゃ良い。昨日、先生からも『いつ退院しても大丈夫』って言われたよ」

「え!? 桃子もう退院して平気なん!?」

「うん。だけど……」

「ん?」

「私のお母さんが、退院させないでくださいって先生に強く言ってるみたいでさ」

「ああ、そういう事情で退院できないのか」

「うん」


 桃子の病気は良くなったのに退院できないのは、桃子の母の意思が裏で働いているらしい。


「でもなんで桃子のお母さんは桃子を退院させたくないんだろう。入院すればするほどお金もかかるだろうに」

「あの人が考えてる事は分からない。私に嫌がらせがしたいだけなんじゃない? 多分。それか単純に私にずっと入院しててほしいのかもしれない。私がもしまたあの時みたいな事件を起こしたら、お母さんも対応しなきゃいけないから。少しはお母さんの気持ちも分かるよ」

「でも、桃子は退院したいんだろ?」

「したいよ。今すぐ」

「だったら何とかお母さんを説得して、早く退院しようぜ。それでまた俺と桃子で一緒に暮らすんだ」

「説得は難しいと思う。あの人は自分が正しいと思った事は絶対曲げないから」

「じゃあ俺が直接ガツンと言ってやる。桃子、お母さんの電話番号教えてくれ」

「やだ。勇太にはあの人と関わってほしくないから」

「分かった。じゃあ、どうするか」

「うーん。どうする?」


 そう訊ねられ、俺はアゴに手をやりながら真顔で言った。


「……次の面会の時に俺がハンマーをこっそり持ち込む」

「えっ? ハンマー?」

「うん。病棟の外に繋がる扉を俺がハンマーで思いきり破壊するから、その隙に桃子と俺でこの病棟から走って抜け出すんだ。そのあとバイクを2人乗りしてフルスロットルで逃亡する」


 俺が真顔でそう言うと、桃子は笑った。


「そんな映画みたいな方法じゃなくても、普通に外には出られるよ」

「え、ハンマーで扉ぶっ壊す以外に方法なんてある?」

「外泊許可を先生から貰えばいいの」

「あっ! それがあったか! 頭いいな! 桃子!」

「勇太がバカなんだよ」

「ははは」

「ふふふ」


 やがて俺はコンビニで買ってきた商品をバッグから取り出して、テーブルに置いた。


「色々買ってきた。食べようぜ」

「やったー。ありがと」


 ◆


 コンビニのみたらし団子を頬張りながら、桃子はこう言った。


「──じゃあ私、この面会が終わったらそのまま外泊許可貰ってくる」

「それで外に出て2度とこの病院には戻らないと」

「うん。でも勝手に抜け出しちゃっていいのかな?」

「全然いいよ。だって人生は1回しか無いんだぜ。勝手に退院しちゃおう。思うがままに生きよう。もし桃子に何かあったら俺が犯罪者になってでも絶対守るよ」

「ありがとう。じゃあ私、勝手に退院する」

「好きなだけ退院しなよ。とりあえず今日は俺のアパートに来る? 久し振りに2人で酒でも飲もう」

「うん。いいねー」

「桃子、どこか行きたい場所とかある?」

「2年ぶりに、あの花畑に行きたい」

「あー、2人でよく行ったあそこか」

「うん。あの花畑は私の思い出の場所なんだ。辛い事があった時でも勇太と一緒にあの花畑に行くと心が落ち着いた」

「そっか。ちょうど今日は晴れてるし、このあとすぐ花畑行こう」

「うん」


 それから俺と桃子は色々食いながら2人でしばらく喋った。


 ◆


 面会を始めて30分くらいが経つと、面会室の扉がコンコンと軽くノックされ、扉の外から「すいません、そろそろお時間です」と看護師の声がした。

 俺は桃子の目を見てこう言った。


「いよいよだな、桃子。いいか? 俺たちは自由だ! それを拒む運命がどれだけ強大であろうと、俺たちはみんな生まれた時から自由なんだ」

「進撃の巨人みたいなこと言うね」

「うん。最近またハマり始めてるんだ」

「面白いもんね、進撃」

「ああ、最高の作品だ。さあ行くぞ桃子。俺たちは自由だ!」

「自由だ〜!」


 そして俺と桃子は面会室から力強く退室した。

 そのまま桃子はあっさり外泊許可を取り、固く閉ざされた巨大な扉から俺と共に出た。

 医者や看護師も、桃子がこのまま2度と戻ってこないとは思うまい。

 そのまま俺たちは●●病院から出た。

 自動ドアを抜けると、5月の心地の良い風が俺と桃子の頬を穏やかに撫でた。空は雲ひとつ無い快晴である。


「風が気持ちいいね〜。久しぶりに外に出た」


 そう言って桃子は笑った。隣に立つ桃子の長い髪が揺れて、いい香りがした。


 ◆


「何このかっこいいバイク!」


 駐車場に停めてある俺のハーレーを見て、桃子は驚いた。


「俺、最近買ったんだ。バイク」

「へえ。すごいね」

「すごいよね」

「2人乗りで行くの?」

「うん。俺の後ろに乗ってくれ。でもヘルメットが1個しか無いから、桃子が被って。俺はノーヘルで行く」

「ノーヘルでバイク乗ったら捕まっちゃうよ」

「大丈夫だ。俺たちは自由なんだからさ」

「まあ、勇太がそう言うならいいけど」

「じゃあ、行こうか。花畑」

「うん」


 俺がバイクに跨ると、桃子が俺の後ろに乗った。


「さあ行くぜ。しっかり掴まってろよ!」

「うん!」


 俺はフルスロットルで病院の駐車場から飛び出した。

 そして車道に出て俺と桃子は風になったのであった。

 俺は桃子を一生涯愛している。病める時も健やかなる時も。桃子を連れて、俺はどこまでも走り続ける。そうやってたった一度しか無い人生をフルスロットルで駆け抜けていく。そしていつか死んで骨になる。いい。それでいい。


「あはは! わたしは自由だー!!」


 バイクで車道を駆けていたら、俺の後ろで桃子がそう言った気がした。風を切る音でよく聞こえなかったが。







 終わり

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