やかんづるのように

@udemushi

プロローグ①

 それはひどい熱帯夜の日だった。

 凍てつきそうなほどに冷たい雨の降りしきる夜だった。

 息苦しさを覚えるほどの熱気が、調理場で疾うに慣れ親しんだ筈の血肉の匂いを一層濃くして、込み上げる動悸と吐き気に苛まれた。

 雨の匂いがひどく濃く、その他のおおよそ全ての臭気をないものにしていた。

 空に雲はまばらで、丸い、まるい月が降らせる白い闇で夜を呑んでいた。

 厚い雨雲が、まばらに立つばかりの外灯の光さえも薄弱にしていた。

 自分はただ一人、それを見ていた。

 他の全ての記憶が曖昧なものになるほどに。

 それはヒトの形をしていた。

 それはケモノの姿をしていた。

 月が映し出すその姿は、夜闇の中でただ一つ、月の支配から外れ、克明に黒く佇んでいた。

 夜闇そのものがまるで牙を剥いたように、昏く、暗くその姿は判然とせず。

 そして自分は死を悟った。

 いつかに訪れるさだめが、今ここで、果たされるのだと。

 弾む鼓動は恐怖ではなく、それを心待ちにしてのものだった。

 やっと。

 漠然と感じていた窮屈さから解放されるのだと。


 しかしそれは踵を返した。

 それは瞼を閉じた。或いは為すべきことを為し、眠りに就くように。

 自分はただ一人、取り残された。

 死んだのだ。やはり、自分はそのときに。

 果たされる筈だったさだめを、果たすべきときに果たせなかったのだから。

 死に損なった。という形で、そのとき自分は死んだのだ。

 以来ずっと胸中に蟠る、このふかいふかい虚無感を、或いはヒトは「絶望」などと呼ぶのだろうか。

 脳髄にずっと、甘く爪を立てられている心地だった。ずっと頭の片隅で、それについて思いを馳せている。

 あるいは憧れるように。焦がれるように。

 死んだ自分はただ、あの夜に出会った「常ならざるもの」に、至上の自由を錯覚し続けている。

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