弐
十五年以上前、帝の種を腹に宿しながら、宮廷を去った女がいた。
この世に産み落とされると同時に母を亡くし、それでも生き延びた種こそが、後に女帝となり、今青年の前にいる少女である。
女帝の生まれにまつわる過去は、貴種流離譚として民に広く知られている。英雄を祀るような、華々しい物語として。
そして華々しさとは無縁な事実を、青年は誰よりも知っている。
「知性とは物腰に現れるもの。
市井から玉座へと駆け上がった少女には、徹底して行儀作法を叩き込んだ。確実に叩かれる陰口を見越し、それが幾分かでも緩いものになるように。
一旦は双方の涙ぐましい努力によって、改善されたように思っていた。
だが、会わない三年の間に粗暴さが戻っている。これで直したとは、どの口が言うのだろう。
「猿! さすがに最近じゃあんま言われねえな」
己を猿と称され、楽し気に笑う女帝に青年の口から溜息が出た。
「深窓の姫君までの期待はしませんが、気を遣うぐらいはなさい」
溜息交じりの忠言に返って来たのは、楽し気な笑い声だった。
「結構宮廷ではちゃんとしてるって。これでも、ガキの頃は花嫁さんに憧れてたこともあんだぜ? 柄じゃねえけど、一応それっぽくすんのは得意だし。あんたが宮廷にいた頃だって、わたしはちゃんとそれっぽく女帝サマやってたろ」
「……表では」
にたりと笑った少女は姿勢を正すと、纏う空気を一変させ泰然と微笑んだ。
「この未熟な弟子であるわたくしと、この国に住まう憐れな民にご慈悲を賜りたく、こうしてまかり越した次第にございます。どうか、お力添えのほどを、お願い申し上げます」
揃えた指をつき、淑やかに頭を下げて見せる。
その様子は一瞬でも煌びやかな宮廷の姫君を思わせた。男装姿でも、そこにいるのは間違いなく高貴な姫君だと思わせる説得力がある。説得力は、ある。
「……
顔を上げた少女は、口の端を釣り上げ不敵な笑みを浮かべた。
「何しても文句言うじゃねえか。こんなもん、脳みそが詰まってるだけの肉の塊だ。下げたところで何かが減るわけでもなし」
「権威というものを、ご理解なされませ」
「理解してる。わたしが頭を下げるのは、あんただけだ」
なんの迷いもなく言い切った少女に、青年が何も思わなかったと言えば噓になる。
「……お前などいなくてもいい、三年前、あなたはそう仰せになられた」
今でも、三年前の少女の弾劾を鮮明に思い出すことができる。涙交じりの少女の言葉を。
そして、青年はそれに背を向けたのだ。宮廷を辞し、皇都を出て、隠遁した。青年は逃げた。
言葉の裏に隠されていた、一人の少女の悲痛な思いを、受け止めるだけの度量がなかった。
そんな過去をまったく気にした様子のない少女は、青年の顔を低い位置から見上げて笑った。
「拗ねんなって。それに、実際ここまではどうにかしてきたろ。三年間、あんたはここでゆったりと過ごせたはずだぜ」
広大な領地が隣り合う境界にあり、歴史の中で何度も戦火にまみえたこの竹林で。参謀として仕え続けた青年が、宮廷を辞してなお、少なくともこの一帯は平穏だった。
一度事が起こってしまえば、真っ先に平穏が崩れるこの地での三年が、少女の奮闘を物語っている。
笑みを浮かべた少女は、褒めてくれとせがむ子どものようだ。
「さて、隠居の爺ですので、世俗にはとんと疎く」
「こんな生きのいい隠居爺がいてたまるかよ」
そしてその笑顔が、少しの陰りを見せたように思えた。
「でもさ、ここが限界なんだ。このままじゃ、また内乱になる」
年若い女帝、それを
「愚かな」
人は愚かだと、青年は十分に思い知っている。
それは、この国の者達に限った話ではないのだろう。愚かであることこそが、人である証なのかもしれない。
それでも、揃いも揃って懐を肥やし、使いきれないほどの利潤を得ようと躍起になる。一部の者達だけで豊かさを独占し、それに疑問を持つことすらできない者達にはうんざりする。
「そうだよ。愚かなんだ。わたしも、宮廷の奴らも。でも、これ以上どうすりゃいいのかわからねえ。この首ひとつであがなえるもんなら、それもしょうがねえとか思ったけどさ、そういうことでもねえし。まあ、今わたしが死んだら、世継ぎがいないから。玉座を巡る争いが起こるだろうし、民にとっては迷惑だな」
少女は為政者のようなことを口にして、自嘲の笑みを浮かべた。
いや、為政者なのだ。
そうさせたのは、青年自身。他ならぬ青年が、少女をそのように作り変えた。
「あんたなら、どうにかできるだろ。内乱はもう避けられないかもしれない。それでも、流す血は最小にしたい」
少女は姿勢を正し、青年をひたと見据えた。
「わたしができる最善は、隠居気取ってるあんたを宮廷に連れ戻すことだ。だから来た。頼む」
そう言って、その尊い頭を再び下げた少女の姿は、先程見せた姫君の振りとは異なっていた。
少女が為政者として見せたその誠実さに、否と言えるわけなどない。
「……わかりました。まあ、良い判断です」
青年の言葉に、少女が華やぐような笑みを見せた。
圧倒されるような眩い笑顔に、青年は思わずたじろいだ。表情にも態度にも、一切出しはしなかったが。
「恩に着る! ついでにもうひとつ頼まれてくれ」
囲炉裏を挟んで向かい合っていた少女が、膝を着いたまま両手を使い素早く這って寄って来た。
「参謀として権威ってやつ、あった方がいいだろ? 三年も前の
ちらりと横目をやれば、随分と近い位置に少女の顔があった。
「……何を仰っているのか、分かりかねる」
少女がさらに距離を詰めて来た。わずかでも身動ぎすれば互いのどこかが触れそうなほど近い。
「急に鈍くなるなよ。一挙両得を目指せって、あんたが言ったんだろ。帝なら、一つの挙動で二の理を得るぐらい貪欲になって、それを可能にするぐらいの豪運を引き寄せろ、ってな」
膝に置いた青年の手に、何かが触れた。
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