恋する女帝と池の鯉

ヨツコ

 後の世に語り継がれる帝と、その傍らで支えた参謀がいた。

 彼らは数多の功績と言葉を残し、それらは時に教訓や詩歌として民に語られる。


 若い男女が結婚を申し込む際、庭の池に鯉を泳がせる習わしもまた、彼らの行いに由来するものである。




* * *




 皇都から馬を飛ばして丸一日の距離に、深い竹藪が広がる一帯がある。

 比較的広大な領地が隣接するその場所は、領境の平野に位置し、人里や喧騒からは遠く、余計な者達が煩わしく訪ねて来ることもない。


 青年が住処を移して三年が経とうとしている。

 この場所を知る者は限られており、かつてが幻のように思えるほど静寂と平穏に満ちている。

 住居とする庵の外に積み上げた薪代わりの竹はかぐわしく、放し飼いの馬が一頭、付近でのんびりと地面の草を食んでいる。


 騒音とは無縁な静寂が満ちていた。


 だからこそ、風のように駆けてくる蹄の音、草を踏む足音、そして扉を勢いよく開ける音は、辺りによく響いた。


老師せんせい! ご無沙汰しております!」


 普段は風が笹を揺らす程度の音しかない、静謐な空気に止めを刺すかの如く引き裂いたのは、若い女の声だ。

 凛とした高い声に、庵の中にいた住人、老師せんせいと言われた青年は、一旦顔を上げ開け放たれた戸口に視線を向けた。


 戸口に立つ人物が纏うのは下級の官吏が着用する深衣。裾の合わせからズボンが覗いている、男性用の着衣である。

 腰まで届く真っ直ぐな長い髪を頭上で一つにまとめ、腰に佩いた青龍刀と、通常であれば男子のものである装い。

 だが、その顔立ちや発した声は、間違えようもなく年若い女のものである。


 そして、青年を老師せんせいと呼ぶのは、彼が知る限り一人しかいない。

 出会ったばかりの頃、当たり前のようにされた呼び捨てに苛立ち、「老師せんせいとでも呼びなさい」と適当に言ったのが定着してしまった。


 確かに師のように、多くを教えた過去がある。だが今は、少女は青年にとって、教え導いてやるべき生徒ではない。


 青年は無表情のまま、顔を手元に戻した。右手に持っていた、墨を含んだ筆を手元に広げた紙の上に静かにおろす。


「入っていいだろうか」


 結果として青年に無視された少女は、戸口に立ったまま、その勢いとは裏腹に生真面目に確認をした。


 墨と竹の香りがする小さな庵の中、囲炉裏にかけられた鉄瓶から湯気が上がっている。少女は戸口の入り口を跨ぐことなく、静かに佇んでいた。


 青年は筆を置き詰めていた息を吐いた。つられたのか、少女も息を吐く。


「……特に招いたおぼえはありませんが、あなたのこと、拒んだところで無駄でしょう。お入りなさい」


 招き入れること伝えれば、少女は嬉しそうに破顔した。どんなしがらみもない、まるでごく普通の少女のようだ。

 そんな感慨には即座に蓋をして、青年は立ち上がり囲炉裏へと向かう。


「見たところ、お一人でしょうか。共もつけず何故このようなところへ? よもや、お立場はお忘れですか」


 静かに腰を下ろした青年の向かい、囲炉裏を挟んでどっかりと腰を下ろした少女は、腰の剣を脇に置き、快活な笑顔を見せた。


「忘れてねえって。ただちょっとな。隠居じじいを、俗世に連れ戻そっかな、って思ってさ」


 胡坐をかいて座った少女の無作法な振る舞いと口調に、青年は口元にはうっすらと笑みを浮かべた。


「なるほど。無駄な考えで一人このような人里離れた僻地においでになる迂闊さに敬意を払い、茶ぐらいはお出ししましょう。本来であればあなたにお出しするにははばかられる程度の粗茶ではございますが」

「感謝する」

「感謝ならば、今あなたが行方をくらませたことを誤魔化しているであろう、哀れな宮廷の者達にこそするべきです――今上陛下きんじょうへいか


 言われた少女、本来であれば皇都の煌びやかな宮廷にいるべき女帝は、歯を見せて笑った。


 青年の記憶にある姿と、ほとんど変わらない笑みだった。

 少なくとも、その表情は。





 ***





 茶を淹れた椀を片手に、その辺りにあった書をつまみ上げて眺めた少女は嘆息した。


「相変わらず見事な書だな。これだけで食ってけそう」


 青年が知る少女は、書の価値などまるで解そうともしない野猿のような子どもだった。素直な賛辞は、それだけで少女の置かれた立場が数年前とは違うことを物語っている。


「生業にする気はありませんが、褒め言葉と受け取っておきましょう」

「もったいねえなあ」

「己が心と向き合い、世界を知る術として、たしなんでおりますので」

老師せんせいがたしなんでる、なんて言ってやるなよ。それじゃ皇都で稼いでるほとんどの書家が廃業だぜ?」


 丁寧な手付きで紙の束を脇に寄せ、少女は胡坐をかいて片手を支えに上半身を斜め後ろに倒した。宮廷ではまず見かけないであろう姿勢の少女は、その宮廷の頂に君臨する女帝である。


「……先ほどから気になっているのですが、その態度と言葉遣いはどうしました」

「これでもずいぶん直したんだけどな。ま、三つ子の魂百までって言うだろ。そうそうどぶさらいのガキが、お上品にはやれねえって」


 笑った少女の肌は磨がき抜かれ、指の先まで白く美しい。

 その性質からか、白魚の、とはいかないようだが、日常的に手入れをされていることが分かる、下層の民らしからぬ肌をしている。


 昔の様子からは考えられないほどの変わりようだ。

 青年が初めて彼女に会った時、その様子は悲惨としか言いようがなかった。


 どぶさらいを生業としていた子どもは、糞尿混じりの汚水で全身を汚し、悪臭が染み込んだ、服と呼ぶこともはばかられるような布を身体に巻き付け、今にも折れそうなほど瘦せていながら、目ばかりをぎらぎらと血走らせていた。


 都の家々の脇を縫うように張り巡らされた側溝、そこに溜まる生活排水や雨水を掻き出し掃除をするのは、民の中でも最下層の者である。

 過酷な労働は、酷い悪臭と、汚泥に塗れ、身体に沁みついた匂いと泥が身体と心を蝕み、それを生業とする者を短命にする。


 親のいない少女は、今を生きているという事実以外の何も持つことができず、やがてくる終わりに向かい、どぶをさらい続ける大人たちに交じって生きていた。

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