第5話 何気ない日常。
「ふぅ……。」紺色の作務衣を着て 短く綺麗に 切り揃えられた短髪の智は 小さな溜息を付きながら 拝殿の中に 折り畳み式の座卓の足を 組み立てた。
座卓の上に コトッと小さな音を立て 杓皿を置き その横に 何本かの願い事の書かれている護摩木を置いた。
杓皿の中に 着火剤を 小さく割入れ 火を点けた。足元に持って来ておいた 座布団を敷いた。
智は 座布団に きちんと正座をして座り 小さな声で お経を唱えながら 火の点いた杓皿の中に 護摩木を入れて行った。
智の唱えるお経の声と重なるように パチパチと音を立て 黒煙を上げくすぶりながら やがて全ての護摩木に 火が点いて行った。
智の右横に見える扉から 小さなノック音が聞こえ スッっと開き 妹の香奈の顔が 覗いた。
智は お経を唱えたまま 香奈に向かって 微笑み頷いた。
ゆったりとした着心地の良さそうな 上下お揃いの水色のルームウェアを着た香奈は 無言で 智のいる拝殿に入り 座布団を持って来て 座卓を囲むように 智の右斜め横に 座った。
香奈は 杓皿の中で 燃えている護摩木を じっと見つめていた。
智は お経を唱え終わると「どうした?」と言いながら 足を崩して座り直した。
香奈も「お兄ちゃん 珍しいね。こんな夜遅くに 護摩焚き?」膝を抱えて 座り直した。
「そうだな……。たまにな 業の強いことが 書かれた護摩木が あるんだよ。願いと言うよりは 呪詛と言うか 呪いみたいなものかな?奥さんと別れますようにとか 課長が 不幸になりますようにとか……。そういった護摩木は 夜の闇に返した方が 良い気がするんだ。」智も 杓皿を見つめたまま言った。
「だから こんな遅い時間に 護摩焚きしてたんだね。」香奈は 呟いた。
杓皿の中の護摩木は まだパチパチと音を立て 火花を上げている。
「書いた本人には 返らないの?」香奈は 炎を見つめたまま 聞いた。
「返るかも しれない。夜の闇に 紛れるかもしれない。どちらになるかは わからないけど 少しでも……な?」智も 炎を見つめていた。
「お兄ちゃんは 優しいね……。」香奈は ゆらゆらと揺れている炎を 見つめ続けた。
「そうでもないよ。ただ 逃げ道を用意してあげてるだけだ。」智は 照れくさそうに苦笑いをした。
「そっか……。業の強い護摩木でも 炎は 綺麗なんだね。」香奈は 智に 微笑みながら言った。
「ああ。やっと落ち着いたところだよ。火を点けたすぐは 酷かったよ。」智は 顔をしかめた。
「酷いって?どんなふうに?」香奈は 智から 目を逸らさずに聞いた。
「んー?そうだな。最初のうちは なかなか火が 点かなくて 真っ黒な煙が ずっと出てた。」智は 少し思い出すように 小首を傾げながら 言った。
「その真っ黒な煙が 業なんだね……。」香奈は 遠くを 見つめるように言った。
「だろうな……。」智は 薄い茶色で エアリーなくるくるとした髪の毛先が 肩に付くか 付かないかぐらいのセミロングの香奈の横顔を 見つめたまま 答えた。
「今 ここには もう業は無いってこと?」香奈は 智の方に 振り向き聞いた。
「夜の闇に 消えて行ったよ。」智は 香奈を安心させるように 微笑んだ。
「こんな小さな神社なのに わざわざ そんなこと 書きに来る人がいるんだね……。」香奈は 呆れたような声を 出した。
「フッ……。小さな神社だから 書きに来るのかもな?大きな神社の神様を 怒らせるのも きっと怖いんだろう。」智は 苦笑いをした。
「神社が 小さくても 大きくても 神様は 一緒なのにね。」香奈は 少し目を細めて言った。
「そうだな。大きな神社には 偉い神様が いらっしゃって 力も効力も 大きくて強いと思ってる人達が 多いのは 確かだろうな。」智は 考えながら 答えた。
「小さくたって うちの神社も凄いのに。」香奈は 少し怒った声を出した。
「香奈が そう言ってくれるのは 嬉しいよ。」智は 香奈に向かって 微笑んだ。
「知らない人が 多過ぎるよ。凄い神様が 守ってくれてるのに。」香奈は まだ むくれた顔をしている。
「いいんだよ。わざわざ宣伝することじゃないし わかってくれる人が わかってくれれば それでいい……。そもそも神様が 視える人の方が そうそういないんだから……。」智は 香奈に 顔を向けて 諭すように 言った。
「まぁ……ね。そうなんだけどさ……。」香奈も 苦笑いした。
両親を含め 智も香奈も 神様
智の方が 視える力が 強く 香奈は 良くも悪くも 相手の力が 強い場合 視えることが 多かった。
2人共 黙ったまま パチパチと音を立てて 揺らめく炎を 眺めていた。
しばらくしてから 意を決したように 香奈が 口を開いた。
「お兄ちゃん なんか最近 光の力が 弱まってない?なんて言うか 闇が 濃くなって来たって言うか……。」香奈は 不安そうな声で言った。
「そうだな……。でも そんなに 心配するほどじゃないよ。一過性だと思うよ。」智は 香奈に向かって 小さく微笑んだ。
香奈は 智が 嘘をついているのに 気付いた。
智が こう言う顔して笑う時は 香奈を 安心させるための作り笑顔だった。
それが わかっていても 智を困らせたくない香奈は いつも 騙された振りをする。
「そっか……。」香奈は 小さな声で 呟いた。
香奈が 智のいるこの神社に 移り住んだのは 半年ぐらい前だった。
それまで 10歳離れた兄である智は 1人で この神社に仕えていた。
香奈は ここから 車で 3時間ほど離れた別の神社に 両親と一緒に住んでいた。
両親と智に頼んで 香奈は 自ら この神社に 引っ越して来た。
それは 何気ない会話だった。
友達が 香奈の誕生日に 高級食パンを プレゼントしてくれた。
実家では 朝食に 和食が 多かったので 両親も香奈も 高級食パンを食べたことが なかった。
朝食に 食パンを焼いて食べてみたら 外側は サクサク 内側は とろけるような初めての食感に 家族で「美味しいねー!」と 感動し合って食べたことを 友達にお礼がてら 話した。
「高級食パン 食べたこと なかったんだ?」びっくりした顔で 友達が 聞いて来た。
「うん。」香奈は 素直に答えた。
「そっかぁ。じゃあ 私は 幸せ者なんだなー。」友達は 笑顔で言った。
あまりの衝撃に「え?どう言うこと?」思わず 香奈は 聞き返した。
「香奈は 高級食パン 食べたことなかったんでしょ?私は 何回も 食べたことがあるから 幸せ者なんだなーって思って。」と 友達は 微笑んでいた。
その時 香奈の中で 何かが 弾けた。
そんな意味で 言ったのではないことは わかっている。
でも 逆にすると 高級食パンを食べたことない人は 不幸せなんだろうか……?
もちろん 高級食パンを貰って 食べることが出来たことは 幸せなことだけど 香奈は 人と比べて感じる幸せを 欲しいとは 思えなかった。
幸せは 気付かない人が 多いだけで そこら中に いっぱいある。
お天気が良くて 気持ちいいこと。
雨上がりに 雨粒が付いた葉っぱが キラキラ光って綺麗なこと。
静かに雪が 降る音が とても心地良いこと。
綺麗な木漏れ日を見ただけで とても得をした気分になること。
大好きな金木犀の香りが 漂って来ただけでも 香奈は 嬉しくなる。
小さな幸せに気付けば 毎日が こんなにも 幸せで溢れているのに……。
(もう いいかな……。私の居場所は ここじゃない。)香奈は 静かに そう思った。
香奈は その日の夜 両親に その話をした。
今 通っている高校は 自分の居場所では ないこと 新しく通信制高校に 通いたいと思っている。
将来 他にも 色々やってみたいこともあるけど 神社で育った香奈は 巫女の仕事にも 興味があると話した。
父親は とても大きな神社に 仕えていて それなりの人数が 仕えている。
その神社で 父親の縁故で働くよりは 修行の意味も含めて 智の神社の手伝いをするのは どうかと 父親から 助言を受けた。
「もちろん 人手が 欲しいかどうかは 智に 聞いてみないとだが……。」父親は 香奈が 巫女に興味があると聞き 嬉しく思う反面 1人でいる智が 少し心配でも あった。
「じゃあ 私 お兄ちゃんに 聞いてみる。」香奈は その場で 智に 電話をした。
話を聞いた智は 香奈に 条件を出した。
「神社で 仕事がない時は 社会勉強も兼ねて 他でも バイトをすること。勉強を疎かにしないこと。掃除や洗濯などの家事も 分担でやること。それが出来るなら 神社を 手伝って欲しい。」と 智は 言った。
父親が 思うより 智は ちゃんと 1人立ち出来ていた。
電話の後 嬉しそうに話す香奈の話を聞きながら(杞憂だったな。)と 父親は 思った。
両親と智から 承諾を得た香奈は 翌日には 学校に 退学届を提出した。
香奈は 新しく通信制高校を 探し編入して 智のいる神社に 引っ越して来た。
「まだ高校2年生だし やり直しは 何度でも出来るから……。」智も 笑って言ってくれた。
今 香奈は 週に2~3日は ホームセンターでバイトをしながら 神社を手伝い 空いた時間と夜に 通信で勉強をしている。
香奈は 高校の退学届を 出したことに 何の未練もなかった。
神社の仕事は 好きだった。外では たくさんいる
香奈には 智ほどの力は ない。時々 ピントの合う強い
智と香奈がいる神社は 特殊なので 別として 神様は 光り輝いて視えるから よく見かけていたのだが 最近 他の神社では 神様を 見かけなくなっていた。
だからなのか 余計 闇が 濃くなって来たように 香奈は 感じていた。
智は めったに
「香奈 お風呂は いいのか?」
ばつが 悪いのだろう。智は サラッと話題を変えた。
「もうちょっと 後でもいい……?もう少し 護摩焚き見てる。」香奈は チラッと智を見た。
「わかった。火が 消えるまで 一緒に ここにいるか……。」智は 香奈の顔を見て 微笑んだ。
香奈の不安をかき消すように 燃えている護摩木のパチパチと鳴る音が 香奈は とても心地よく感じた。
2人共 言葉を交わすことなく ただ護摩焚きの揺らめく炎を 眺めていた。
その時 上から ヒュッと空気を切り裂く音がしたのと ほぼ同時に ゴン‼ と大きな音がした。
杓皿に 何か大きなものが 落ちて来た。
それは 杓皿の中で弾み 燃えていた護摩木を撒き散らしながら ゴトン‼ ゴロゴロゴロゴロ……‼ と 音を立てながら 転がって行った。
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