全裸侍

蝉の弟子

全裸侍

 部屋住みという言葉をご存知だろうか?

 江戸時代の武家では家督相続の対象となる長男と比べ、次男以降の兄弟の扱いはあり得ぬ程にぞんざいなものであった。戦国時代ならば武家当主の戦死した場合の後継として、兄弟の存在が大きかったのだが、太平の世ではイザという時のために当主を引き継ぐお役目などあってなきが如きもの。戦国の世のように、弟が兄を押しのけて家督を継ぐことも、お家争い防止のため長子相続と定められてしまってはできぬ相談だ。

 家督を兄弟で分割すれば家が滅びるが故、弟達には何も与えられず、お役目もなく、また万が一にも家督を継いだ場合には正統な血を残す必要があるため、妻子を持つことも禁じられている。

 よって、コネやその才覚で仕官の口を見つけられなかった者や、養子縁組の口を見つけられなかった者は、親もしくは兄の屋敷の部屋に住み続ける事になる。

 早い話が飼い殺しであり、現代風に言うならば”生まれた順で半ば強制的にニート化”するのである。


 岡山は池田藩の中川四郎七も、そんな部屋住みの侍であった。

 昔はこの男も、イザとなれば兄に替わって中川家を継ぐものと信じ、武道に勉学に励んでいたが、もう今ではやる気を全て失っていた。

 歳は20代半ば、現代の感覚で言えばまだまだ若者であるが、平均寿命が45歳といわれる江戸時代の事である。15~17で元服して大人の仲間入りをして、娘も20を超えればもう”行き遅れ”といわれる時代のことである。そう、彼はもう人生の半ばを過ぎてしまっているのだ。

 そのうえ当主の兄は子に恵まれており、万が一兄が病死したとて自分の出番はない。いや、それどころか今や自分は兄の子よりも立場が下。ずっと飼い殺しにされたまま、ただただ老いさらばえるだけの運命が決まっているのだ。

 昔は”若様”と呼んでちやほちやしてくれた屋敷の使用人達も、今では自分を腫れ物を扱うようにしか接してくれない。母すらも自分に対して、もう何も期待していない。それどころか、ほんの一言でも、ほんの些細な事でも不満を口にしようものならば、”ただ飯食い”と罵られるのだ。……いや、仮に何も言わずとも、彼等は自分の事を”役立たずのでくの坊”と常日頃から笑い者にしているのだ。それは数年前に父が他界してからというもの、ひときわ酷いものになっていた。

 切腹を考えた事もあったが、既に2度失敗している。遺言をしたため、刃を握るところまではよくとも、そこから先は手が震えていけなかった。そもそも自分の腹を自分で斬るなどそうそうできる事ではないし、おまけに介錯もないのだ。そして、その事自体も四郎七が自分を更に傷つける材料となっていた。自分には、武士としての面目を保つため、自刃する勇気すらなかったのか……、と。

 毎日毎日兄の顔を見る度、四郎七は全身の血が沸騰するような思いだった。剣も学問も自分だって負けてはいない筈なのに、なぜ生まれた日が違うだけでこうも扱いが違うのか? 努力だって、兄以上にしていたのに……。が、その努力を唯一評価してくれた父も既に亡く、四郎七はただひたすらに孤独な毎日を過ごしていた。


「きええええーーーーっ!!」


 そんな時だった、四郎七の様子がおかしくなり始めたのは。

 最初に彼が奇声をあげた時には、驚き問いただす家人に対して”剣術に励んでいた昔を思い出し、気合を入れたのだ”と言い訳をして事なきを得たが、それ以降の四郎七の言動は明らかに常軌を逸したものへと変っていった。

 家の体面を重んじる兄と母は頭を悩ませた末、座敷牢を造って四郎七を閉じ込めたが、使用人から牢の鍵を盗み取った彼は、夜中にそこから脱走してしまう。

 数カ月も完全に呆けたフリをして使用人を油断させ、四郎七をからかうために牢の傍に腰をかけた隙を狙って鍵を盗んでやったのだ。酒気を帯びた使用人は、呆けたフリを続ける四郎七以上に間抜けであったのだから、その脱走は至極簡単な事であったろう。


 その夜、四郎七は屋敷の外に出た。酔っていた牢番の使用人は、鍵を盗まれた事にまだ気づいてはいないだろう。恐らく追手がかかるまでには、まだ時もある。

 それにしても、部屋に閉じこもって何年が過ぎただろう? 部屋住みの立場を恥じて、外に出る事をあれほどはばかっていたというのに、月夜に照らされた道を歩くのが今はとても心地よい。


「きええええーーーーっ! ええええーーーー!! えええーーーい!!」


 何を思ったか四郎七は月に照らされた岡山城を見上げて叫びだし、着ている服を全て脱ぎ捨ててしまった。


「きええええーーーーっ!! きえーーーっ! きえーーーっ!」


 こうなればもう、本人すら自分の行動を説明する事は困難であろう。四郎七は叫びながら、城の周囲を走り出していた。無論、全裸である。


「なんだ……」


「きゃあああ!!」


 途端に通行人の悲鳴があがる。幸い夜中であったため人通りは僅だったものの、中川家の面目は丸つぶれであろう。

 やがて四郎七は通行人を脅かすのに飽きたのか、それとも通行人が少なすぎて興覚めしたのか、次の標的に近くの知人宅と定めた。


「なんだあれは!」


 門番は目を丸くした。素っ裸の男が、この屋敷を目指して走ってくるのだ。


「開けろー! 開けろー! 俺だーー! 四郎七だーーー!! 開けろー!」


 門番が大急ぎで門を閉めると、ドンドンという門を叩く音と、尋常ならざる声が通りから聞こえてくる。門番はもちろん、屋敷の住人達も恐ろしくて震え上がったが、暫くしてその声は聞こえなくなった。



         *      *      *



「うわあああぁぁぁぁっ!」


 富田家の門番の男は悲鳴を上げた。裸の四郎七が一直線に自分の守る屋敷を目指して走って来たからだ。この富田家は四郎七の親戚の家であり、不幸にも知人宅の次に選ばれた彼の標的だった。

 深夜故、既に大門は閉じ小さな通用口のみを開いている状態だったのだから、落ち着いていれば狂人が駆け寄る前に戸を閉める事は簡単だったろう。が、裸で迫る四郎七の迫力にたじろいた門番は一瞬呆気にとられ、その動きを止めてしまっていた。


「開けろー! 開けろー!」


 我に返った門番が戸を閉め切るよりも早く、四郎七の指が通用口の戸を掴んでいた。門番は中から必死に戸を押さえ、裸の四郎七が中に入るのを拒んでいる。


「そのような姿で何事です! どうぞお帰り下さい! お帰り下さいーーっ!」


 そう叫ぶ門番は、何があっても四郎七を通さぬ構えであったのだが……。


「ちょうちんだ! ちょうちんの灯りが追いかけてくるぞ! 後ろから、ちょうちんが迫ってくるぞーー!」


 その声に驚いて、思わずちょうちんの正体を確かめようとしたのがまずかった。その途端に四郎七は指に力を込め、外から戸をこじ開けてしまう。

 開け放たれた通用口から覗く外の景色は暗く、ちょうちんの灯りなどどこにもなかった。門番は騙されたのだ。四郎七は確かに狂ってはいたが、馬鹿ではない。


「きええええーーーーいっ!!」


 策に嵌った門番の脇をすり抜けた四郎七は屋敷になだれ込み、騒ぎを聞きつけて起きた女中たちの悲鳴があがる。


「きゃーーっ!」


「な、なにごとだ?!」


「し……、四郎七殿??」


 座敷に上がり込んだ裸の四郎七を見て、屋敷は大混乱に陥っていた。余りに常軌を逸した事態に、太平の世に慣れた武士達も手をこまねいたのだ。

 四郎七は壁に向かって縮こまる女中たちの前を、刀を帯びる事も忘れポカンと口を開けて立ち尽くす武士達の脇を縦横無尽に全裸で走り回った。


「きええええーーーーっ!! きええええーーーーっ!!」


「四郎七殿! 四郎七殿!」


 その時、尚も奇声をあげて屋敷中を走り回る四郎七を呼び止める声があった。四郎七が振り返ると、そこにはこの屋敷の主、富田辰四郎の姿があった。


「ようこそ、この夜中によく来られた。寒い夜だ、さあ、まずは火の近くに……」


 辰四郎は四郎七の姿を見ても少しも慌てず、静かに側に置かれていた火鉢を勧める。


「……」


 四郎七はその一言で正気を取り戻す事が出来たのであろう。うつむいて、ただ涙を流し、言われるがまま火鉢の前に膝を折った。


「おつろうございましたな。さ、お食事も用意いたしましょう。

 よろしければ、お着物も……」


 四郎七は用意された着物に袖を通し、食事を済ませ、そのまま屋敷の布団で静かな眠りにつき、一夜を明かしたという……。


 寛政6年冬の出来事であった。



※ 中川四郎七は実在の人物です


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