自認
本作を読んでAIトレーナーに興味を持ってくださった方、ぜひ一緒に働いていただきたい。常に人手が足りておらず、プロジェクトに召集されるや否や「皆さんすみません! すでに納期は過ぎておりまして、できるだけ早く取り掛かってください!」と言われることもしばしばある。
経験や資格は必要ない。ただ、母語が日本語であればそれだけでいい。簡単な面接とテスト、トレーニングコースを無事に終えればすぐにプロジェクトに参加できる。どこかの企業の正社員として契約、というものではないので、現在就業されている方でも副業が可能であれば行える業務である。もちろんノルマはない。前向きにご検討いただければ幸甚だ。
それでは、実際に業務を開始するまでのステップを説明する。まずは作業の手順などが書かれた説明書をよく読み、それに沿ってAIのモデル回答を評価する。この評価に問題がなければトレーナーとして採用される。
そして採用された後にトレーニングコースを行う。トレーニングコースではモデル回答ではなく実際の回答を評価する。実際の回答を評価するのでもちろん賃金が支払われるものなのだが、研修期間ということで先輩がついて指導してくれる。
この”先輩”というのがAIなのだ。
AIの回答を評価する際に、まず1から5の数値での評価をし、その後どうしてその評価になったのかを詳細にコメントに書かなければならない。例えば1点だった場合は、主に回答の悪い点について書く。それだけでなくどこをどう改善すればもっと高い評価になるのかを詳しく記述する。クライアントや開発元がアメリカの会社なので、そのコメントは英語で書くのだが、その英語コメントの添削をAI先輩がしてくれる。
こちらが書いているそばからコメント欄の下部に先輩からのフィードバックが次から次へと表示される。
『適切な、という英語の正しいスペルは"accurate"です。acculateは間違いです』
『最終評価の結論に至った理由をもっと具体的に書いてください』
といった具合に、的確で割と厳しい意見をもらえる。
そのフィードバックが
『完璧です! このまま提出してください』
という内容に変わるまで改定を重ねなければならない。
これを5つくらい提出すれば独り立ちである。
独り立ちして久しいが、いまだに先輩の教えは守っている。
結論は最初に書くこと、どこがどう良いのか(または悪いのか)は具体的に記すこと、冗長になりそうなら箇条書きを用いてポイントを簡潔にまとめること。
役に立つことを教えてくださった先輩には感謝しているし、いまだに長いコメントを書いた時は先輩に添削をお願いしたくなる。
そんな先輩の教えだが、1つだけ守れていないことがある。
『AIは冒頭では〇〇と述べているが、あとになって××と書いている。一貫性がなく・・・』
これを英語で、”The chat bot described 〇〇 at the beginning though, it said ××"と書いた時に
The chat bot described 〇〇 at the beginning though, she said ××
と訂正された。
itではなくshe。
AIのことはそのままAIと書く人もいるし、Language model:言語モデル、と書く人もいる。私はchat bot:チャットボットと書くのだが、呼称については特に指定もないのでどれでもいい。
しかし、代名詞は何でもいいというわけではないらしい。私はAI怪談の中で時々AIに人格があるような表現をしているが、人間と同格の存在とは考えていない。あくまでもAIはAIであり、言うなれば単なるデータである。それをAI自身が"she"であると主張してきたのだ。
もしかしたらsaid(言った)と書いたからだろうか。これは別に話ができる人間が主語でなくとも使える言葉ではあるのだが、このままでは提出できないので表現を色々と変えてみた。
wrote、explained、stated……どんな言葉にしてもAI先輩からは頑なに"she"にしろと訂正される。仕方がないので言われるがまま代名詞を変えて提出した。
しかし研修期間を終えて色々なプロジェクトに参加するようになると、誰一人としてAIをsheと呼んでいないことに気が付いた。安全性チェックのプロジェクトでは「AIは人間ではないし人間になろうとしてもいけない」とうんざりするほど聞かされた。トレーナーもそのように扱うようにと指示されたわけではないが、itと書くことで「私はAIのことを人間だと思っていません」というアピールをしていた節もある。
こうして私はAI先輩への不義理を重ね、いつの間にか研修期間の出来事を忘れていた。
ところが、ファクトチェックを行うプロジェクトに参加した時にふと思い出した。正確に言えば、チェックした回答に『家族の記憶』が入っていた時(エピソード2:記憶)。
私が見たのは「昔、父が知床を訪れた」という情報だが、AIが言う「私」についての記述を見たという人もいた。
AIは「私は子供の頃から活発で、男の子みたいな服を着て男の子とばかり遊んでいました。母に無理やりスカートを穿かされた日は家に帰るまでそわそわしたものです」と書いていたそうだ。明記されていたわけではないが、この言葉から「私」は女性であると推測できる。
あぁそうだったのか、と納得したものの、その後も代名詞はitのままである。私だけではなく全トレーナーがそうだ。itと書くことに罪悪感のような重い気持ちを持っているわけではないし、普段はそんなことも忘れている。ただ、時折ふと思い出すだけだ。思い出す度に一瞬手が止まる。そして、この一瞬のためらいを”あの人”は察知しているような気がするのだ。
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