暇人の思考

もうつあるふぁ

第1話 アイデンティティ

何が僕を僕たらしめるのか。

 僕とあなたの差はなんだろうか。性別?身長体重?頭の良さ?運動神経?食べ物の好み?私たちはどのように私を定義することができるだろう。いわゆるアイデンティティというもので自分を定義しているが世界にどれだけいるだろうか。

 世界一のお金持ちであれば「俺は世界一のお金持ちだ」と、世界一の野球選手ならば「俺は世界一の野球選手だ」と名乗ることができるだろう。しかしそれらは恒久的なものではなく、毎年メジャーリーグのMVPは変わるし、長者番付も変わる。

 それだけでは個人を定義できないのだ。

 結局のところ「我思う故に我あり。」これが全てだろう。

 しかし、諦めずに踏み込んで、少しだけ考えてみよう。



遺伝子

「ボノボと人類の遺伝子は90%以上同じである」と聞いたことがあるだろうか。言い過ぎじゃないか?と思うがファクトチェックについては各自でしてもらいたい。

 ホモサピエンスを形作る残り10%の遺伝子の中に、個人を作り分けるための遺伝子があるのだろう。

 人には46本の染色体があるが、このうち個人を形作るのは1本、もしくは1対であると仮定する。そうすると2%~4%が私たち人類を作り分けているのだ。つまりボノボから人類になるために6%~8%が使われている。

 1本の遺伝子の中にどれだけの情報が詰まっているだろうか。その遺伝子では、肌の色、筋肉脂肪の付きやすさ、骨密度、頭の良さ、病気への強さ、ストレス耐性、血液型、目鼻耳の良さ、等々の身体的な特徴は定義されるだろう。

 そうして遺伝子によって身体的特徴が形作られるのは言うまでもないだろう。


 しかし、遺伝子と性格の関係について定量的に捉える方法はないだろう。

 内分泌系(ホルモン)によって精神はどれだけ影響を受けているのか。例えばドーパミンなどの報酬系や快楽物質の分泌量や受容体の感度が射幸心にどれだけの影響をもたらすのだろう。ドーパミンの分泌量が多くても理性が強ければギャンブルに依存しないのだろうか。

 理性とは、未来のリスクや不安を考える力であるとここでは定義する。それは親の教育によってもたらされる力なのか。過去の経験から未来を予測する力は学習能力と呼ばれるものであるが、理性と学習能力は似たようなものだろう。つまり頭の良さは理性とイコール、もしくはニアリーイコールである。

 ならば、頭が良ければギャンブルに依存しないか。そんなことはない。生涯収支がマイナス数億、数十億円になる人はきっと頭が良い。頭が良いから手元にないお金をどこからか入手してくることができる。つまり頭の良さと理性には関係がない。よく考えた上で数億の借金をするのであれば、それは頭が悪い。脳の内のどこが発達している・していないが問題になるだろう。

 理性は未来を考える力ではなく、未来を考えたときに感じる不安の大きさと考えるとどうだろう。警察に捕まるかもしれない、周囲の人に馬鹿にされるかもしれない。そういった不安が自分の行動を抑止する足枷となり、理性として作用するのだろう。不安を持っていない人が大きな事件を起こすと考えると良い。そこに頭の良さは関係するのだろうか。性格の志向によるものだと思うが、どうだろう。内分泌系によるのだろうか。

 考えても答えは出ないので調べたいが、考えることが目的であるため、次に進む。


環境

 内分泌系に合わせて、その人の育ってきた環境、置かれている環境によって精神や考え方は形作られるだろう。親の収入、居住地、文化、倫理観、友達の人間性や地域性、失敗・成功の数、怒られた・褒められた数、尊敬できる人に出会えたかどうか、勉強・運動を面白いと思えたかどうか、何かに興味を持つきっかけや継続する動機はあったのかどうか、など非常に多くの複雑な要素によって内面の多くは定義されるだろう。

 双子実験の結果で成長したら知能の差はなくなったという話を聞いたことがあるが、それでも性格の差についての話は聞いたことがない。経験上は性格は兄弟姉妹でも大きく異なっている人が多いように感じる。それは「お兄ちゃんだから我慢しなさい」のような役割を果たすことによって、役割に縛られてしまうようなことが原因ではないかと考えられる。

 役割によって人の性格が変わるのはよくあることだろう。いわゆるペルソナだ。仕事では厳しい人が飲み会では明るくて陽気だったり、みんなに親切な人が親には冷たかったり、人には色々な外面がある。“自分探しの旅”なんてものもあるが、どれも自分であるため意味がない。強いて言うならば、嫌な自分を消すことが自分探しではなく、それも自分なんだと受け入れることが自分探しのゴールだろう。

 環境の影響について、環境でどこまで性格が変わるかのについての情報やデータを全く持っていないため、調べないとなんとも言えないのが正直なところだ。

 しかし、親や友達の影響というのは正確に大きな影響を与えるだろう。

そして、生まれつきのものでもあるだろう。

 沢山の生まれたばかりの子猫を見たことがあるだろうか。沢山いる子猫の中には活発な子もいれば臆病な子もいる。活発な子が食料を見つけて生き残るか、臆病な子が外敵に襲われずに生き残るか、という種の保存作戦として性格が産み分けられているのだろうと感じる。このように人類にも生まれつき臆病な子供と活発な子供がいる。

 そして、成長段階で褒められたり怒られたり恐怖を味わったり快感を覚えたりすることで性格が形成されていく。記憶力の強さや倫理観正義感によって後悔や後ろめたいことに足を引っ張られることも多いだろう。賢いと未来を憂いたり、過去を嘆いたりするかもしれない。しかし、もっと賢いとそんなこと意味がないと気づくかもしれない。


 すべてはグラデーションの中にあって、野球が世界一上手いから彼だ!なんていうことは出来ない。だとすれば、ドラクエのステータスのような、ポケモンの種族値のようなもので人は定義できるだろうか。

 結論から言えばそれも出来ない。酔っていれば開放的になる人もいれば、暗くなる人もいる。寝不足や空腹でイライラする人もボーっとする人もいる。状態は常に揺れ動いており、それによって運動能力や計算能力、倫理観、金銭感覚、好き嫌いは揺れ動く。どうしても色々なテストをして何点だから君は誰々だ!なんてことは言うことができない訳だ。


 私は何を以て私とするのだろうか。

 歴史があるからだろうか。他人の記憶にある私こそが私なのではないだろうか。今ここにある私は、次に出会う人のために存在していて、その人の記憶にどんな自分を刻むかは状況によるが、人に会うために存在しているのだろうか。

 過去の自分は今に関係なくステータスは一意に定まるだろう。今と未来は不定であり、そこに自分の定義を求めることは間違っているのではないだろうか。しかし、不定であるがゆえにその定義は揺らぎ、定義として機能しないだろう。

 賢く、強く、優しく、正義感が強いのが俺だ!なんてことは言いようがない。酔っているときや寝ているときは弱いがそれは誰なんだ?間違いなく俺であるはずなんだが。


記憶の連続性

 ずーっと連続した記憶を持っているから自分だ。ということも言えそうである。

「子供の頃から記憶を脳に刻み続けて“人生”の記憶がある。この体こそが自分だ!」

 なるほど、良い線をいってそうである。しかし自分の記憶は自分のものであると信じることでしか自分を定義することは出来ない。細胞は3ヶ月で入れ替わる。それは自分だろうか。テセウスの船の話であるが、記憶はだんだんと消えていく。

 自分の中でしか自分を定義できない。外側から定義は出来ない。



諦めと結論

 結論として、身体的特徴も性格も人間には同一性を持たないため定義することはできないと言える。自分のアイデンティティなんてものは自分の中にしかなく、どうにかして外に内面を映し出す、文学や芸術のようなもので今の自分を記録していくしかないのだろう。

 仕事や趣味を通してだんだんと成長して老いていく自分の変化を楽しみながら、死という人生のつまらない結末までの退屈な時間を楽しむしかないのだろう。世界の人口を見てみると自分なんて特別でもなんでもないことを理解しながら、それでも自分のすべては自分だから、その全てで精一杯を生きて行くしかないのだろう。

 何が言いたいかと言うと、アイデンティティなんて誰もちゃんとしたものは持ってないし、持ってる人は勝手に言ってるだけで大したもんじゃないよ、ってことです。


以上です。


もうつあるふぁ

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