Chapter 2 「風呂」

 俺は風呂がある施設の前にあった平たい石の上に腰掛けた。


 全ての感情が消えていく。

 この世界は虚無だ。救いなどない。

 これが世界から排斥される魔女の運命だというのか。


 ラヴィさん? 聞いてますかラヴィさん?

 俺にもやっと魔女が感じる空虚感が理解できたよ。

 この世界はやはり呪われている。

 ――魔女ラヴィからの返事はない。


 いや、有ったら有ったでこちらが困る。


 そんなこんなで俺が心の中の何かと必死で格闘している間に、モリ君とエリちゃんが風呂から上がってきた。

 男性はフォーマルなスーツ、女性は露出の少ないドレスが礼服として用意されていたようだ。


「それじゃあここで少し待ってます」

「物凄く辛そうですけど大丈夫ですか? ヒールかけますか?」


 モリ君が心配そうに聞いてきたので


「空間と時間と俺の関係について考えていた」


 とだけ答えた。

 モリ君はしばらく無言で俺の顔を見た後に「そうか」と言ったので


「ハッピーハロウィン!」


 と手を挙げて答えた。


 空を見上げると、日暮れも近いのか茜色に染まりつつあった。

 どうやら俺の最後の戦いが始まるようだ。

 長いようで短い生涯だった。

 今日俺は死ぬ。


 女風呂の脱衣所に入った。

 周囲に漂っている女性の匂いを嗅いでしまった時点でもうダメな気しかしない。

 これは犯罪になるのだろうか?

 今の身体からすると、犯罪ではないのかもしれない……もう何も分からない。


 空間と時間と俺の関係はすごく単純なことで宇宙の真理について理解できたと思ったのに、今はせいぜいハロウィンのことしか考えられない。


 思い切って帽子とローブを脱ぎ捨てた。


 女性の匂いは鶏小屋のような臭いに上書きされて消えていった。

 それだけではなく、温泉の暖かさで臭いは増幅され、脱衣所は名状しがたき場所へを変貌した。


 意を決してフリルブラウスとハーフパンツを脱ぎ捨てて下着姿になった。


 脱いだ服からは牛乳を拭いた後に洗っていない雑巾のような臭いが漂ってきており、その臭いをもろに吸い込んでしまい、激しくむせる。

 鶏小屋と雑巾の臭いのコンボで吐き気がこみ上げてきた。

 今のままだと俺は別の意味で死んでしまう。辛い。



 ピンクだ。

 上も下もピンクの下着だった。

 いや、ピンクのはずなのだが、全身の紋様から放たれる虹色の光のせいでまともに見えないことに気付いた。


「謎の光やめろ」


 だが、肝心の部分が全てセルフ謎の光によって他人はもちろん、自分にも見えないくらい自主規制されているという事実は、俺に勇気を与えてくれた。ゆうきー!ばくはーつ!

 爆発する勇気!


 勇気を携えて、シャツのように被るタイプのスポーツブラを脱ぎ捨てた。

 脱いでも何も揺れない。ヨシ!

 パンツもその勢いに乗って脱いだ。ヨシ!


 下着は下水の臭いを放っていた。

 あまりに辛い。臭いがツヨすぎて本当に辛い。


 鶏小屋と雑巾と下水の臭いが熱によって増幅され、それらが入り交じる化学反応により脱衣所は異界へと変貌していた。

 これが魔女の真の呪いか。


 その魔界の瘴気を吸い込んだことで耐え難い苦痛がやってきた。

 温泉の排水溝へと全力で走り、ゲェゲェと吐いたが水しか出なかった。

 そういえばこの世界に来てからクッキーしか食べていない。


「もういやだ! ふくは全部捨てる-!」


 風呂の冷たい床に寝転ぶ。冷たい床が気持ち良い。

 そう感じたのも束の間。

 今度は身体が猛烈な悪臭を放っていることに気付いてしまった。

 当然だ。あれだけ服が臭いのだから、その臭いの発生源である俺本体が臭くないわけがない。


「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛」


 全裸の少女の肢体という本来は羞恥心やら淫欲やら、何やらあったはずの感情は全て悪臭という現実の前に消し飛んだ。


 ゲーミング謎の光が放たれているおかげでろくに見えない身体を、熱いお湯を頭から被ってタオルでくまなく力一杯擦る洗浄作業が始まった。


 タオルの摩擦で痛い。身体中が痛い。


 だが、今はそれよりも悪臭の「元」を落とすことが重要だった。

 もはや女性の肌は弱いだのデリケートな部分がどうのなど関係なかった。


 ひたすら身体を擦り続けることで、元は垢だかなんだか分からない得体の知れない真っ黒なものが溶け出して出来た謎の汁……もとい汚水は排水溝に流れて消えていった。


 謎の汁を全て流して湯船に浸かる頃には、全ての体力と気力が尽きていた。


 全身全霊を注いだためにもはや立ち上がることすら出来ない。

 このまま温泉のお湯に溶けてしまいそうだった。


 邪な感情も謎の汁……汚水も全て排水溝へと消えていった。


 脱衣場は何やら検疫装備のような全身を覆う白い服を着た兵士達によって消毒剤が撒かれて浄化されていた。


 服や身体を擦ったタオルも「汚染物質」と書かれた袋に詰められてどこかへと搬送されて行かれた。あれも何かしらの洗浄が行われるのだろう。


 俺も全てが洗い流されたことで浄化された。


 この世の全てが愛おしく見える。


 そうだ、風呂を出たらこれからは魔女改め聖女と名乗ろう。

 ハロウィンの聖女だ。

 ハロウィンの翌日は確か聖人を奉るための聖人祭だか万聖祭だかいう祭りが行われていると聞いたことがある。

 つまり、聖人祭の聖女。

 よしそれだ。


 ――否、「それだ」ではない。

 悪臭から解放されたことにより、謎の思考が湧いてくるくらいに精神的にやられている。


 俺はもうダメかもしれない。

 せめて、あの世にはこの石鹸の匂いをずっと持って行きたい。


「ラビさん待ってましたよ」


 ようやく風呂から出た俺にモリ君とエリちゃんが駆け寄ってきた。


「いえいえ、お待たせいたしましたわでございますですよ」


 完全に浄化された私はそう答えましたわ。答えましたですの。答え……

 少し考えるが、聖女に相応しい口調とは何なのかがイマイチ分からない。


 それっぽく話そうとすればするほど、イントネーションも含めて聖女ではなく、大阪のオッサンっぽくなってしまう。


 どのように話せば良いのだろうか? そもそも聖女とは何だ?


「ラビさん、なんか気持ち悪いです」

「風呂で何があったんですか?」


 モリ君とエリちゃんが何やら聞いてきたので答えましょう。


「私は浄化されました」


 俺の身体に浮かんだ紋様から虹色の光が発せられる。


「見ての通り、浄化されたことにより、身体から聖なるオーラも出るようになりました」

「今に始まったことじゃなくて、今朝からずっと前から光ってましたよね」

「偉大な相手は輝いて見えるものだヨ」

「あっ、ちょっと元に戻ってきた」

「いや、今はその話はいいです。州知事からラビさん……いえ、あの山の中腹部で熱線を出した人はいるのかと聞かれているらしくて」


 モリ君が話題を変えてくれた。

 聖女ムーブは難しすぎたので、戻すきっかけを与えてくれたのは助かる。

 熱線を出したと言われて一瞬合点がいかなかったが、少し考えて分かった。


 最初に魔女の呪いを発動させた時の話だろう。


 あの時は遺跡の壁を融解させただけではなく、隣の山まで熱線は届いたと予想される。


 熱線の射程距離はよく分からないが、隣の山までは最低1kmは有ったはずだ。もしや、着弾地点に何かこの国の施設などがあって被害が出たのだろうか。


「怒られる? もしかして俺、怒られる?」

「いえ、俺達の中にもし熱線を撃てる人がいるならば、何か頼みたいことがあるということでした」


 頼みたいこととは何だろう。

「魔女の呪い」絡みの頼みということは、ろくなことではない気しかしないが、風呂を貸していただいた恩もあるので無碍には出来ないだろう。


「分かった。すぐに行こう」

「ところでそのドレス、よく似合ってますね」


 礼服として女性用のドレスが用意されていた。

 色は真っ黒なので喪服のようにも見える。俺のローブの色に合わせてくれたのだろうか?

 スカートは正直恥ずかしいが、あまり露出がなく、ヒラヒラした飾りのないシンプルなデザインを選んでくれたのは助かる。


「これはこれで魔女のデザインですよね」


 そうだろうか?

 服が黒ければ何でも魔女と言うわけではないだろう。


 箒よ来い!


 手元に箒を呼び寄せる。

 この箒は服と違い、流石に洗浄対象ではないのでそのまま手元に残っている。

 箒を持った状態で両手両足を広げてポーズを取ってみる。


「そんなに魔女に見えるか?」

「箒を持っただけで『落ち込んだりもしたけど私は元気な感じです』という感じに見えますね」

「真実はいつも一つとは限らない」


 やはり魔女の宿命からは逃れられないというのか。


「うーん、ラビちゃんが風呂に入るちょっと前からずっと壊れたままだから、モリ君が代わりに仕切ってくれない?」

「まあ仕方ないよな。ラビさん壊れたままだし。それじゃあ俺がしばらく暫定リーダーってことで」


 どうやら、俺があからさまにポンコツと化したせいで、モリ君がしばらく仕切ってくれるらしい。


 ありがたい。頼んだぞニューリーダー。

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