第6話
月曜日の朝が好きです、という人物に少なくとも僕は会ったことがない。休み明けの日というだけでも大概憂鬱なのに、その日の朝ともなれば布団やベッドから出たくない気持ちは相当なものである。しかしこれも生きるため。己に血の滲むような鞭を打って無理やり身体を起こして出かけていくのだ……そんな出来立てのゾンビのような人々がいつもより速く視界から去っては消え、また現れてくる景色。
現在、僕はいつもの歩きではなく、登校に親が車を出してくれていた。
怪我をしたあの日、やっている病院を探してもらい早々に診察を受けたところ軽度の捻挫と言われた。幸い、包帯で固定して安静にしていれば1週間ほどで治るだろうとのこと。というわけで今週1週間は登下校に車を出してもらえることになったのである。
いつもの通学路も自分の足で歩くのと、こうして車に乗っているのとでは随分雰囲気が違う気がする。また、音楽を聴きながらというのもなんだか特別感がある。歩きながらだとプレーヤーとかイヤホンを教師に見つかり次第取り上げられるからだ。とはいえ、車のスピーカーから流れているのは親の趣味の曲なのだが。……決して古いなどと文句を言ってはいけない。
「しかしまあ、ドジねあんた」
「親に似たのかも」
「何?こっから歩きたいって?」
「いつもありがとうございます」
そうこうしているうちに学校の近くまで到着した。適当なところで下ろしてもらい、親に別れを告げたのち、校舎までのわずかな距離を歩み出す。固定しているとはいえ体重のかけ具合で多少の痛みが走ることもあるのだが、まあそこはしょうがない。松葉杖をつくほどかと言われるとそうではないし。体育などは見学するし、必要以上に歩かないようにすれば大丈夫だろう。
「今日は午前中のどっかで避難訓練やるからそのつもりで」
大丈夫じゃなかった。ホームルームで告げられたのは寝耳に水な情報。これはまずい。避難訓練ともなれば他の生徒の歩行スピードに合わせなくてはならないし、最悪場所によっては軽く走る可能性もある。靴の履き替えだっていつもより時間を食ってしまう……っていや別に焦る必要ないな。足を捻挫してるので見学希望とでも言おう。
……そう思っていたのに。
「あの、どうして僕は丸山先生に背負われているんでしょうか?」
「そりゃあ、訓練とはいえ緊急事態に生徒を置いていくわけにはいかないからだ。安心しろ。伊達に体育教員やってないさ」
捻挫の件を伝えると、じゃあ体育担当の丸山先生が背負って避難する、という話になってしまった。なんでも、いざ自力で避難できない生徒がいた際の良い予行練習になるだろうとのこと。素晴らしい心がけだし、生徒としても安心できることなのだろうが……
「……目立ちすぎじゃないですか?」
「多少の恥ずかしさは我慢しろ。命のが大切だろ」
「そりゃあそうですけど」
いかんせん、周囲の目が辛い。何が悲しくて高校生にもなっておんぶされなくてはならないというのだろうか。確かに実際に緊急事態なら恥を捨ててお世話になるだろうが、訓練でもすることはないだろうに。丸山先生の体格ならむしろ背負えない生徒の方が少ないと思うのだが。
「しかしお前男子のくせに軽いな。ちゃんと食ってるのか?」
「先生が力持ちなだけでは?あと、今の時代『男子なのに』とか言うとセクハラと取られかねないので注意したほうがいいですよ」
「すまんすまん。気をつけるな」
うーん、爽やか。若いし、生徒にも慕われていることだろう。これで筋肉至上主義じゃなければいいんだがなぁ。悪い人ではないんだけど、暑苦しいんだよなぁ。
「じゃあ市民館まで行くからな。あまりスピードは出さんが、しっかり捕まっとけよ」
「よろしくお願いします」
全校生徒が避難するとなるとそれはもう相当な数になるので、マラソンみたいなスピードを出して走ることはできない。しかし、今の自分では到底出せないスピードで風景が移り変わっていった。少し高い位置に注がれる他の生徒の視線を極力無視しようと無心を心掛けていると、その隅にチラリと見覚えるのある姿が。向こうも僕に気がついたのか、一瞬呆けたあと───
ニマァ……
という効果音が聞こえてきそうなほど分かりやすく笑顔になった。……どうしよう。自分のことで頭が一杯だったけど、よく考えたらこんな目立つ面白いものあいつが見逃すはずがない。逃げようにもこの足じゃあ逃げられないだろうし。これが俗に言う詰みというやつか……
頭を抱えるようにしてため息を吐く僕に「大丈夫か?」と声をかけてくる丸山先生。「半分くらいは貴方のせいです」なんて言えるわけもなく、ただ揺れに身を任せざるを得なかった。
「それでそれで?一体全体何があっておんぶされてたのさ」
必死に笑いをこらえながらそう質問してくる彼女。結局、この足では教室まで迎えに来た彼女から逃げることなどできなかった。……もう一度言おう、逃げられなかったのだ。つまりここはいつもの屋外ベンチなどではなく、僕が授業を受けている教室のまさに僕の席なのである。
「うん、まあ、いろいろあって」
「なんだい歯切れの悪い。軽口も返さないし」
ぶー、とつまらなそうにむくれる彼女。しかし、周囲から向けられる視線や空気がとてつもなく居心地が悪くてこちらも本調子ではないのだ。みんなでハブった結果、耐えかねていつも休み時間に教室から姿を消していた奴がある日突然教室で弁当を食べているだけでなく、その横に美少女と言って差し支えないクラスメイトですらない女の子が一緒にいるのだ。そりゃあみんなこっち見るよね。視界の隅にはなんかこっちを見ながらひそひそ話している集団なんかも映り込んでいるし、お前ほど神経図太くはないんだよ!と彼女への抗議の念を向ける。周囲の人間の感情に疎いと言っていたがこんなレベルあるか?
「しかし君のクラスはみんな行儀がいいんだね。うちのクラスの昼休みはもっと騒がしいのに」
僕から視線を外した彼女は、頬杖をつきつつ、つまらなそうに教室を見渡しながら一言。しかし、彼女が言ったようにこの教室は今まさに静かな状態だったのだ。そんなことを露も気にせずされた発言は少なくとも教室内の人間は聞き取れたことだろう。しかも、彼女の声のトーンや表情、態度を含めて考えればそれこそ皮肉と捉えられても仕方がないくらいに。これ以上彼女にしゃべらせてはいつ爆弾を投じられるか分かったものじゃない。そう思って何か話題をと思ったら───
「ねえ、あんた。うちのクラスじゃないよね?名前は?」
時すでに遅く、彼女に対してクラスの女子が話しかけてきた。確か、あの時いじめられていた子を囲って色々言っていた女子だ。後から知ったがクラス内でもリーダー格みたいな感じだったようで、俗にいうトップカーストにいるらしく、今も後ろに3人ほど女子が控えている。母の好きな韓国ドラマにこんな奴いたな。位の高い人で主人公に意地悪する悪役(ちなみに「冬のなんちゃら」みたいなラブロマンス?ではなくもっと昔の王宮とかを舞台にした時代劇もの)。
「お?第一村人だよ世良町君!紹介してくれよ」
彼女に声をかけられたのにこちらに話を振ってくる彼女。初対面の相手にそれは失礼ではないかと内心思いつつも、正直困った。僕もこの女子の名前知らないんだよな。石川だったか石崎だったかなんかそんな感じだったと思うんだが、もう僕の中では着物着て必要以上に髪を盛った女帝にしか見えなくて一向に正解にたどり着く気配がない。李趙美とかそんなんじゃないよね?
そんな僕が何か口にするより早く、その女子が口を開く。
「そんなやつほっといていいよ。それよりあんた名前は?」
「……そんなやつ?クラスメイトに向かって随分な物言いだね?君そんな偉いの?」
僕を見下すようにして吐き捨てた女帝(もうこれでいいや)に対して彼女が興味津々に問いかける。何かスイッチが入ったのか、満面の笑みでその距離を詰めていく彼女はとても止められそうにない。……笑顔だよな?
「は?別に私がこいつのことどう言おうが私の勝手でしょ」
「そう喧嘩腰にならないでよ。もしかして短気?社会に出て苦労するよぅ」
「あ?」
自分から煽るようなことを言っておいてそこをさらにつくなんて性格がよく出てる。というか、随分空気が険悪になってる気がするんですけど大丈夫ですかね?心なしか脚だけじゃなくて胃も痛くなってきたのは気のせいですよね?
「でもそんなおかしなこと聞いてないでしょ?クラスメイトにそんな態度取るなんてよっぽど嫌ってるか、君が偉いとか考えるでしょ。私は彼のこと好きだからね。嫌われるとは考えづらいのさ」
そう発する彼女に女帝は良い玩具を見つけたような顔で、鼻で笑いながら告げる。
「は。何、あんたこいつのこと好きなんだ」
「うん、彼面白いからね」
しかし、僕達に向けて嘲笑を向けてくる女帝に対して、全く臆することなく返す彼女。彼女の言う好きはいわゆるそういう意味ではないのだろうけど、全く恥ずかしがらずにそんなこと言われるとこっちが照れてしまう。
「え、まさかただ気に入らないから彼にそんな態度取ってるの?いやいや、そんな小学生じゃあるまいし」
ややオーバーに身振り手振りをしながら続ける彼女。そのまさかなんですよね、とは言えず煽られた女帝も目に見えてイライラしている。後ろの皆さんもそれを察してオロオロしだした。お互い苦労しますね。
「あんた、私のこと馬鹿にしてんの?」
ほらもうー、怒ってるじゃん。どうすんのこれ。
「そんなつもりはないけど、自覚があるからそう感じるんじゃない?図星?」
だからなんでさらに煽るの!しかも表情イキイキしてるし……
「ああ、気に病まなくていいよ。人に冷たくしたり、見下したりする人は精神が未熟で貧しいだけなんだ。可哀そうに……きっと愛なき環境で育ったんだろう?君は悪くない。君の親と、育て方が悪かったんだ」
その瞬間だった。ついに我慢の限界に達したのか女帝は彼女に向かって手を振り上げ───
パチンッ
乾いた音が、教室内に響き渡った。
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