第3話 異世界をあなたへ

「何だ、これ?」


 ドアを開けると、ジャングルだった。

 自分でも何を言っているのかよくわからない。

 俺は急いでドアを閉め、それからもう一度ゆっくりと開く。


 咽せるような緑の匂い——

 纏わりつくような湿気——

 あちらこちらに響く鳥の鳴き声——

 見渡す限りに木、草、木、草——


 どう見てもジャングルです。本当にありがとうございました。

 そして俺はそっとドアを閉じた。


 きっと疲れているんだろう。昨日、いろいろあったからな。認めたくはないが、精神錯乱状態にあるのかもしれない。

 そうであるならば、ドタキャンになってしまってばあちゃんには悪いが、今日のバイトはお休みだ。どのみち、こんな状態の俺が行っても邪魔になるだけかもしれないしな。

 そう思ってスマホを取り出してみたが、そこに映し出されるのは、無情にも『圏外』の文字。

 しょうがない。やや礼を欠くが、メッセージで連絡だ。そう思って、ノートパソコンのメッセージアプリを起動するが、そこには『インターネットに接続されていません』の文句。

 大規模な通信障害でも起こっているのかな? かな?

 おもむろにテレビの電源を入れるが、うんともすんとも言わない。

 何となく嫌な予感がして、部屋中の電化製品を起動させて回るが、電子レンジも、エアコンも、ドライヤーも何一つ反応しない。まるで、この部屋だけが外界から隔離されてしまったかのようだ。


 なるほど、なるほど。そういうことか。


「やっぱり病んじゃったんだな、俺」


 そう理解して、俺はベッドに横たわり、布団を頭から被る。


 ピーチクパーチク、ギャーギャーギャオーン、ピーチク、パーチクーー


「うるさくて、眠れねーんだよ!!」


 怒りとともに窓を開け、怒鳴り散らす。


 窓を開けたその先は、ジャングルだったーー


「まじか……」


 俺はここに至ってようやく事の重大性に気がついた。

 もしもここが、本当にジャングルであるならば、それは相当にヤバい事態だ。

 もしこれが、錯乱した精神が見せる幻覚ならば、それは相当にヤバい事態だ。

 どっちに転んでも相当ヤバい、救いようのないほどに……


 どうしたものか——

 もう彼此二時間近くは、時計の長針と短針の追いかけっこを眺めているが、この間に、外の景色が変わる様子も、俺の精神異常が回復する様子もない。


「一度、外に出てみるか……」


 俺はここまで何度も頭に浮かんだ考えを口に出す。

 どちらにしても、このままベッドの上に座っていても埒が明かない。夢ならば早く覚めてほしいが、そうでなかった場合に備えて、現状の確認ぐらいはしておいた方がいいかもしれない。


「暗井、行きます!」


 そう宣言して、俺は再び玄関に向かった。

 そして、大きく深呼吸をしてから、あわよくばドアの向こうにくそったれな日常が戻っていることを願いつつ、ドアノブをゆっくりと回す。


 そうして開かれたドアの先は、相も変わらずジャングルだった。

 しかし、今度はドアを閉めることはしない。

 俺は恐る恐る左手をドアの外に出してみる。ジャングルの蒸した空気が絡みついてくる。大丈夫。ドアの外でも俺の左手は確かに存在しているようだ。

 次に、重心を右半身に残したまま左足だけを出し、そっと地面に触れてみる。俺の左足に触れた草がカサっと揺れた。それを見た俺は、意を決して少しだけ体重をかけてる。柔らかい土の感触が、履き古したスニーカーを通して伝わってきた。


「ふう……」


 確かにそこに地面があることを実感して、俺はここでようやく一息ついた。

 見えているものが全て幻覚で、ドアから飛び出たが最期、奈落の底まで真っ逆さま、なんてことになったらたまったもんじゃないからね。


「行くぞ……」


 誰に言うでもなくそう呟くと、俺はついに部屋から出て、ジャングルに立った。

 息もできるし、感覚にも、身体にも特段の異常は認められない。精神状態以外はオールグリーンだ。

 精神状態が最も重要なのではないかという指摘には、この際目を瞑っておこう。


 眼前には、見渡す限りジャングルが広がっている。

 後ろを振り返ると、開け放たれたドアがあって、その内側には俺の部屋がある。しかし、ドアが嵌め込まれているはずの壁がない。ジャングルという空間に、ただドアだけが立っているのだ。

 恐る恐るドアの裏側を覗き込むが、やはりそこには何もない。いや、ジャングルはあるのだが、ドアの内側にあるはずの、俺の部屋という空間がまるっと存在していないのだ。

 近未来からやってくるタヌキ型ロボットの秘密道具の一つ、『どこでも行けるドア』だと言えばわかりやすいかもしれない。


「もう少し進んでみるか」


 ジャングルと俺——三流映画のタイトルのようなシチュエーションに少し慣れてきた俺は、あれこれ調べてみた挙句に結局何の手がかりも得ることができなかった『どこでも行けるドア』に見切りをつけて、周囲の探索を進めてみることにした。

 もちろんドアは開けたままだ。いざというときに駆け込まなければならないし、万が一、ドアを閉めた瞬間にドアそのものが消えてしまうなんてことになったら目も当てられない。

 俺は常にドアの位置を確認しつつ、その距離を把握しながら慎重に歩を進めて行く。少なくともちょっとやそっと歩いたぐらいで抜けられるような生温い森というわけではなさそうだ。

 頭上を見上げると、数十メートルはあろうかという木々が屹立しており、その広げた樹冠のせいで、空の大部分が覆われているため薄暗い。隙間から覗く空は青く、よく目を凝らして見ると、キラキラとしたものがゆっくりと流れているように見える。

 いや、それだけじゃない。意識を集中しなければ、それと気づくことはできないが、そのキラキラしたものは、俺の周囲にもふわふわと漂っていた。


「なんだろう?」


 キラキラしたふわふわを掴もうと手を伸ばすと、そのキラふわが俺の手のひらに集まってきた。次々と集まってくるキラふわは、互いにくっつき合い、次第に塊となっていき、ついにはバレーボールぐらいの大きさの大きな光の玉になった。


「まじで、何だ、これ?」


 俺が疑問を口にしたそのとき、にわかに木々がザワザワと揺れ、樹上の鳥たちが一斉に飛び立った。


 これが絶望の始まりの合図だった。


 光の玉に意識を向け過ぎて鳥の動きを察知できなかったのがいけないのか、それとも、急に鳥たちが飛び立ったことに動揺して光の玉への意識が逸れたのがいけなかったのか、その瞬間、手のひらの上の光の玉が一気に膨張し、突風を伴って破裂した。

 俺は咄嗟に目を瞑り、両手で顔を覆うも、そのままの姿勢で、数メートル後方まで吹き飛ばされてしまった。受け身を上手くとれず、地面に叩きつけられた俺は、空気の塊を吐き出した後、その場でのたうち回る。


「イッ……テーー!!」


 それだけで終わりならまだ良かった。

 涙目で起き上がる俺の目にさらなる絶望が映り込んでくる。

 突風に煽られたドアが勢いよく閉まり、上の方からキラキラとした粒子になって消え去ろうとしていたのだ。


「待て待て! 待ってくれよ!」


 俺は急いでドアに駆け寄るが、時すでに遅く、ドアはノブのところまで消失していた。

 ドアノブがあったはずの空間を何度も掻き回すが、俺の手は空を切るばかり。

 ついには、ドアの最下部まで光の粒子に成り果て、最初から何もなかったかのように、その姿を消した。

 もう部屋には戻れない。

 どれだけ広いのかもわからないこのジャングルでボッチ確定となってしまった。


「これ、完全に詰んでるじゃんかよ……」


 俺はその場で膝をつき、ガックリと項垂れた。


 しかし、このとき、この次の瞬間まで、俺は全く気づいてはいなかった。

 鳥たちが逃げるように一斉に飛び立った、その意味を——

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