34:大型犬とネイル
それが自傷癖だと知ったのは、最近のことだった。
左手を翳すと、オーバル型の綺麗な爪をしている他の指に対して、深爪になっている親指がやけにみすぼらしく見える。
子供の頃なんの気なしに始めてしまった噛みグセは、大人になっても矯正されず、些細なストレスで噛んでしまう。
たまに出血するまで噛んでしまって、血のついた書類にドン引きされて――爪にも歯にも良くないし、止めなきゃいけない理由は山程あるのに、ずっと止められないでいる。
「こーら」
背中から体ごと、翳していた左手も一周り大きな左手に包まれる。膝を立てた彼の脚の間に収まると、お腹の辺りを右手でぐっと抱き寄せられた。
背中の熱が心地好い。お風呂上がりのいつもより少し高い体温にドキドキする。
少し顔を上げると、くっきりとした顎のラインと喉仏が見えて、性別の違いを意識させられた。
「また噛んじゃったの? 親指さん、赤くなってるじゃん」
大きな節張った手が、わたしの手をいたわる様に優しく撫でる。
くすぐったくて身をよじると、肩に顔を埋めてきた。
「親指さん痛い痛いって言ってるよ?」
彼の頭の上に、しょんぼりと垂れた耳でも見えそうだ。
その表情も、わざと子供に諭すように言葉を幼くして、声のトーンを落とし甘ったるく話すのも、全てはわたしを責めてしまわないように。
そんな濃やかな気遣いを知っているから、その態度に嫌な気はしない。
「俺さ、いい事考えたんだけど」
「ん?」
「じゃーん」
わたしのお腹の辺りに居た彼の右手が、眼の前に拳となって現れる。
そして、花が咲くみたいに、パっとひらかれた手の中には、キャップの上に蝶の留まったデザインをしたマニキュアが慎ましやかに乗っていた。柔らかな春を思わせるパステルピンクに心踊る。
「この色なら職場でもいけるかなって。どう?」
「可愛い!」
「気に入ってくれてよかった。じゃあ、塗ろっか」
「え?」
「ん?」
「塗ってくれる、の?」
「うん。そのつもりでこの体勢なんだけど」
彼はわたしの親指を念入りにチェックして、「血も出てないし、塗っても大丈夫だね」と笑う。
緩やかに垂れた目尻が喜びで溢れている。なんでそんなに自分のことのように嬉しそうなんだろうね。
大きな手が、蝶の留まったキャップをくるりくるりと回すと、ピンクをとろりと纏った筆が現れた。
「なんか緊張するなぁ」
後ろから抱き締められながら、ひと塗りひと塗り丁寧に爪の上を筆が撫でていく。爪の感覚は鈍いはずなのに、毛先が触れる度になんだかくすぐったくて身をよじった。
逃げようとすると、逞しい腕で抱きしめられる。
「こら、動かないの」
「だって」
くすくす笑う、彼の声が耳にかかる。
くすぐったいのに動けなくて……ひょっとしたら、意地悪をされているのかもしれない。
「もー、くすぐったいよ」
「ごめんごめん。乾くまで動いちゃだめだって。ほら、塗り終わったよ」
塗りムラのない綺麗な仕上がり。指先が桜貝のように艷やかなピンクに染まっている。
爪に見惚れて翳していた両手に、彼の手が重なった。
「俺からの魔法」
左肩にあごが乗って、ぐっと重みを感じる。反動で左に頭が傾いで、彼の頭にこつっと当たった。
重なっていた手が、体をなぞるように下がっていって、ぎゅっと抱きしめられる。
「もしね、噛みたくなったら俺のこと思い出して。噛んじゃってもいいんだ。ただ、君が一人で辛い思いをしないように」
「……うん」
思わず泣きそうになって、小声で「ありがとう」と返した。
それから、噛まなくなった訳ではないけれど、彼が塗り直す度に噛む回数は減っていった。
そして、マニキュアが半分になった頃。親指の爪は他と変わらない長さになって、薬指に新たな魔法が増えた。
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