02:名残

 私がこの教会に通い始めて、十年になります。私はキリスト教徒ではないのに、この教会の方は皆さま私を丁重にもてなしてくださいました。十年間、ずっと。私はここに、歌を歌いに来ていたのです。そして私の歌に耳を傾けて下さる方がいて、歌い終わったら拍手をしてくださるのですよ。素敵でしょう。


 そんな恵まれた日々も、今日でおしまいです。寂しいとは思いません。今まで本当にありがとう。私には過ぎた機会を頂戴してございました。この幸せな思い出を、忘れることはないでしょう。


 歌が上手いと初めて言われたのは、私が数えで八つ、尋常小学校に入って間もない頃でございます。お歌の時間に、一人のクラスメートの男の子が私に言いましたね。もっと歌ってくれないか、と。

 彼は面白い男の子でした。いわゆる裕福なご家庭のお子たちの通う小学校でございましたが、なにせ彼は馬車でお通いになるのですから目立つのです。


 裕福なら何をしても構わぬとお思いのようで、無鉄砲なことを多くなさる方でした。私をおちょくるのが大変お好きで、何度バッタを投げられたか知れません。私は優しくてございますから、バッタの話だけにとどめて差し上げましょう。

 とにかく家柄に見合わぬ野生児でありました。


 もう一つ。少し変わった足音の方でした。足が悪いと聞き及んだことはございませんが、引きずるような独特の足音があるのです。靴底がすぐにすり減りそうな音。私がそう言ったら、人に言われたことはない、とおっしゃいましたね。


 あれから足音について、人からご指摘を受けたことはありましたか?


「そこにいらっしゃるのでしょう。黒田君。懐かしい足音だもの。私が忘れる訳なくってよ」

 ふふふと私の後ろから低い笑い声がしました。私は振り返りませんでした。足音は昔と変わらず、ですが私の知らない声になっておいででした。

「なぜこの教会にいらしたの」

「結婚するのだってね」

 私に近づく足音が止まりました。彼は私のすぐ後ろにいらっしゃるようでした。


「ええ。高等女学校を出る日に」

「祝いに来た」

「あなたが?」


 黒田君は、この上なく頭の良い方でした。中学を大変良い成績で卒業なさって、第一高等学校にこの春からご入学だそうです。

 その後あなたの名前を聞いたのは、私が高女に入ってからでした。あなたのその立場のせいか、私の身の回りに限っては、あなたは随分名前の知られた方でした。頭もよくって、端正なお顔だちで、身分も高い方だから。


 あなたの名誉のため、下品な少年だったことは、黙っておきましたよ。

 感謝してくださいね。


「誰から私の話をお聞きになって?」

「この教会の神父様から」

「お忙しいのに、ありがとう」

 あなたは社交界で、これからもっと名を馳せる方になるでしょう。

 歌の少し得意な女でしかない私には、とっくの昔に、遠い存在になっていた方だったのに。


「結婚おめでとう。神津こうづさん」

 後ろから急に手が回ってきました。黒田君が私の肩の上から手を回し、私を抱きしめたのでした。ずいぶん背が高くなっておいででした。私は緊張で震える彼の手を振り払おうとはしませんでした。教会に人がいないと知っていたからです。


「変わらず、私をおちょくるのがお好きな方ね」

「君の歌は上手くなる一方だった。もう聞けないのが残念でならない」

 風が吹きました。しかし私の背中には風がちっとも当たりませんでした。

「十年も歌を歌えた、それ以上の天恵はあるかしら」


 これっきりなのは分かっていました。

 これから私は、彼の知らないところに向かうのです。

 そして彼もまた、私の知らないところにゆくのです。


「幸せになるんだよ」

 私は頷きました。思わず涙があふれて、彼の手の甲にぽたりと落ちました。

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