19話

 歯は、とろとろと眠る幼虫のようにせせらぎの上で丸まっていた。

 視界に映る物の中で、それが一番異質で、際立っている。全員の視線が向けられている事だけが理由ではない。石ころとも、水とも植物とも違う、動物にだけ備わった、ぞっとするほど密度の高いパターンが、そこにはある。

 複雑な生命活動の効率を最大限まで引き上げる為の形態。

 息が止まるほど精密なモジュールの集合と、それらの接続。

 少し引いた視点から眺めれば、コンテナにだって、川の流れにだってパターンはあるのに、自分は手のひらに乗るくらの大きさで、単純な造形のものがとりわけ恐ろしい。中途半端に、自分に近いから気味が悪い、という事か。

 見下ろした歯は、もう作りものには見えなかった。歯肉が粘土で出来た代替品である事はさしたる問題ではない。これだけの歯が揃っているだけで、所有者の意思を感じさせるのに、もう十分である。

 つまり、どこかに本体があり、この歯はすべて、そこから発せられる何らかの信号を受け取って作られている。

 揃った歯を元に、残りの躰の部位が復元される場面を想像すると、気は引き締まるけれど、奇妙な事に、あまり怖くはなかった。むしろ、こうして歯だけが野ざらしになっている方が落ち着かない。早く、肉と毛皮で包んでほしい。少なくとも自分は、その方が不安を感じずに済む、と利玖は思った。

 しかし、それも所詮、手の中にある最後の歯が抱かせる一過性の幻覚に過ぎないのかもしれない。

 利玖は、史岐の腕に掴まってコンテナの前まで進み、足場を確かめてから手を離した。歯を握っていない方の手でコンテナを掴み、体を支える。

 史岐が、脇で腰を落として短刀を構えると、コンテナを挟んだ向かいに立っている匠が口を開いた。

「僕も柑乃も、おまえの動きに合わせる。相手の正体がわからない以上、こうすれば安全だといえる策もない。どうすれば確実に自分の身を守る事が出来るか、よく考えて動きなさい」

「わかりました」利玖は、匠と柑乃の顔を交互に見て頭を下げる。「お二人とも、よろしくお願いします」

 匠が頷き、片手を上げて、下流にいる母に合図を送った。母も同じ動きで応えるのを見てから、利玖は拳を開き、中に握られていた歯をそっと指でつまむように持つ。

 ゆっくりと屈みながら、その手を伸ばし、コンテナに近づけていった。息を止め、位置がずれないように、集中して目を凝らす。鉤のように尖った根元を粘土に食い込ませ、半分くらい埋め込むと、素早く手首を返して上から親指の腹で押し込んだ。

 すぐに、手を体の脇に引き寄せて一歩後ろへ。

 水位はくるぶしの上辺りまでしかなかったが、史岐が転ばないように支えてくれた。彼は、もう片方の手で短刀を前に突き出したまま、利玖を庇うような姿勢で岸辺まで後退する。

 匠と柑乃はまだ動かない。

 何も、起こらないのか、と思った時、鳥肌が立つような羽音とともに川から黒い靄のようなものが立ちのぼった。

 雲霞のごとく群れた無数の粒子が、腐臭に似たにおいを撒き散らしながら川面を飛び交い、やがてコンテナを中心に凝集し始める。

 寄り集まった粒子が、ふっと、うずくまるヒトの姿に見えた瞬間、柑乃の手が白い残像を引いて動いた。

 ぎゃおう、と耳をつんざく悲鳴が響き渡った。

 ヒトではない何かが、無理やりヒトの声帯を使って出しているようなおぞましい声だった。利玖は、思わず史岐の服を掴んでしがみつく。この声は、幻ではない。川向こうの梢が揺れ、様々な大きさの鳥が一斉に飛び立つのが、ぼんやりと白いシルエットで見えた。

 柑乃は、まだ刀を抜いていない。両手で縄を掴んでいる。コンテナを倒し、水を跳ね上げてもがく影にのしかかると、あっという間に縛り上げて膝で急所を押さえた。

 再び、すさまじい悲鳴とともに、集合した粒子はついにはっきりとした形を得た。

 朝ぼらけの光を浴びて白銀に輝く、それは立派な老齢のサルだった。重ねてきた年齢が体つきに反映されている。利玖よりも、確実に一回りは大きい。

 だが、人語は解さないようで、縄の締め付けに反抗するように激しく体を揺すりながら、ぎゃおぎゃおと喚き立てている。

 柑乃は、きっちりと縄の両端を結んでいたが、それだけでは不足と感じたのだろう。下げ緒をほどき、鞘ごと刀を帯から抜くと、それを振りかぶってサルの顔面に叩きつけた。

 利玖は、史岐の服の裾を掴んだままびくんっと震えた。

 さっきよりも日の光が強くなり、サルの目鼻立ちがはっきりとわかる。たとえ、言葉の通じない相手でも、その顔からは長い年月を生きた証を読み取る事が出来たし、知性すら感じた。

 真っ黒な鞘が、それを何度も執拗に殴りつける。とどめに柑乃は、蹴って相手を水の中へ倒した。

 抵抗する気力をなくしたのか、それとも完全に気を失ったのか、サルはぐったりと全身を弛緩させて動かない。

 柑乃は予備の縄を取り出して、サルの頸部に回すと、窒息させるようにぎゅうと締め上げた。その後、後頭部を掴み、水の中に二、三度顔を浸けても反応する様子がないのを確かめてから、匠と一緒に岸へ引っ張り上げる。

「母さん」匠が下流に向かって叫んだ。「大丈夫です。斬らずに済みました」

 それを聞いて、真波も上流へ走ってくる。草地から下りてきた薊彌と並んでサルを見下ろした。

「これは六ヶ野むがのの先代のヌシですな」薊彌が言う。「先代といっても、江戸中頃まで遡りますが。ほら、左足の指の一部が、溶けたように欠損しているでしょう。高貴な神々への捧げ物として育てられた果物を盗もうとして、火矢を受けたのです。それまでヌシとして土地を治めた功績を差し引いて、命までは取らなかったようですが」

月阜公つきおかこうの猿退治ね」真波が頷く。「昔、写本を読んだ事があります。あら、まあ、知恵の回る事……」

「サル、それも、長寿ですからな。下手な人間よりも侮れない」薊彌は微笑む。「しかし、そういうモノを商品として、流通に乗せるのが我々の仕事です」

 薊彌は片手を動かして芦月を呼んだ。

 芦月はするすると斜面を下りてきて、サルに近づき、瞼や首筋を触って何か調べていたが、やがてトランクから硝子製の筒のようなものを取り出して、毛の少ない部分に当てた。薄暗くて、よくわからなかったが、何かの液体を注射したらしい。

 芦月は、トランクから次々と道具を取り出してサルに被せていった。網のようなもの、革製の拘束具のようなもの、文字が書かれた細い紙のようなものが、サルの体を覆い、白銀の毛並みはほとんど見えなくなった。

 最後に、薊彌もそちらへ近づいて、サルが無力化された事を確かめる。

 ここに至ってようやく、利玖は、自分達が為した事の恐ろしさを身に沁みてわかり始めた。

『十二番』を自分に送りつけて、岩河弥村の霊気を利用して復活を試みた事は、確かに悪知恵だったかもしれない。だが、彼が封じられた理由が正当なものであったかどうかは、人間が残した記録から判断するしかなく、その時点でもうアンフェアなのだ。

 たった一頭で、封印に立ち向かったサルを、自分達はまるで罪人に罰でも与えるかのように寄って集って痛めつけ、気絶するまで殴って縄をかけた。さも当然の権利であるかのように行使された、その残虐さが、今頃になって万力のように胃を締めつけてくる。

 どこかに座って休みたい、と思ったが、折悪しく薊彌に呼ばれた。必然的に、サルにも近づく事になる。

 利玖は吐き気を堪えて前へ進んだ。

「此奴は、今より利玖様の所有物です」薊彌はぴくりとも動かなくなったサルを示して言った。「生かすも殺すも、貴女様のご意向次第。如何様に致しましょうか?」

「もう少し、具体的なお話をお伺い出来ますか」

「少し削って、式神として扱いやすくしたものをお返しする。情けをかけて逃がしてやり、彼の一族に恩を売るのも良い。どこで『十二番』を手に入れたのか、なぜ利玖様を標的にしたのか、そういった事を詳らかにしたければ、口を割らせる手伝いも致しましょう。もちろん、ここで首を落としても構いません。骨まで砕き、灰にすれば、二度と復活を企む事もありますまい」

 利玖は、じっとサルを見つめた。

 しかし、それにもう興味を持てない自分を認識する。薄情な話だが、『十二番』から収穫された歯が本物だとわかり、仮説が正しかった事を証明出来た時点で、自分は満足してしまったのかもしれない。

 このサルがどこから来たのかも、どれほどの力を持つのかも、どうでも良かった。もちろん、殺したいとも思わない。

 利玖は、しゃがみ込み、サルの躰に手を触れて目をつむってから、もう一度薊彌達に向き直った。

「薊彌さんは、彼がどのようにして『十二番』を手に入れたのかをお知りになりたいのですよね?」

「可能であれば」

「わかりました」利玖は頷く。「でしたら、処分をお任せするという当初のお願いよりも、さらに一歩踏み込んで、所有権ごと、このサルを薊彌さんにお譲りします。今後の彼の扱いについて、わたしは一切口出ししません。問い詰めるなり、削るなり、存分にご活用なさってください。必要なら、書類にサインもしましょう」

「それは、それは……」薊彌は大仰に目を丸くして両手を広げる。「私どもとしては願ってもないお話ですが……。よろしいのですか? 月阜公といえば、県内各地に伝説を残した名武将。このサルが、本当に彼と大立ち回りを演じた妖なのだとしたら、駒としての価値は一介の式神を優に超えますよ」

「そういうものを求める方が、たくさんいらっしゃるのでしょう?」利玖は微笑んだ。「わたしには必要ありません。薊彌さんが売るのに相応しいと思った方に、相応の値段で売ってください」

 その代わりに、と続けて、利玖は首につけていたチョーカーを外した。黒い紐に、透きとおった緑色の石が繋がっている。

「薊彌さんはご存知かもしれませんが、これはりょうらんせきといって、高位の妖しか作る事の出来ない特別な石です。以前、とある山のヌシから授けてもらいました。異形のモノからヒトの躰と魂を守ってくれる大変ありがたい石なのですが、その力が発揮されるのは異界にいる間だけで、わたし達が普段暮らしている世界では、単なるジュエリィに過ぎないと聞きます。これに加工を施して、異界の外でも、守りの効能を発揮させる事は可能でしょうか?」

 薊彌はチョーカーを受け取り、少し眺めてから、

「芦月にも見せてよろしいですか?」

と訊いた。

 利玖が頷くと、薊彌は芦月を呼び、彼女の前にチョーカーを差し出した。

 芦月はモノクルの角度を調節し、じっくりと蛉籃石を観察したが、手に取って調べようとはしなかった。サルを拘束したばかりで、その手も洗っていない事を気にしたのかもしれない。

 やがて、芦月は顔を上げ、薊彌の方を見てこっくりと頷いた。

「お引き受け致しましょう」薊彌はそう答えてから、真波にも目を向ける。「ただ、どのように扱うとしても、岩河弥村には手出しが出来ないよう入念に縛っておきます。これは、私どもを商人として信頼してくださった皆様への最低限の礼儀です」

「助かります」真波は微笑んだが、すぐに眉根を寄せて真剣な表情になった。

「でも、わたし達ものんびりとはしていられないわね。何か、対策を考えなければ」

「そうですね」傍らで匠も頷く。「ひとまず、父さんには知らせるとして……」

「それよりも先に、匠」真波は、ふいにまっすぐ息子を見た。「柑乃さんには、こちらに越してきてもらいなさい」

 全員が同時に呼吸を止めたような、苦しい沈黙が辺りを覆った。

「貴方と柑乃さんが、どうして出会い、何を目的に行動を共にしているのか、詳らかにするつもりも、その是非を問うつもりもありません。それは、これからも同じです」真波だけが、焔を抱いたように煌々と輝く瞳で匠を見つめている。「ただ、別海先生も一線を退かれた今、うちの守りが手薄である事は否定しようがない。わたし一人では食い止められない場面もあるでしょう」

「それなら、僕が戻れば……」

 言いかけた匠を、真波は「馬鹿な事を」と一喝した。

神保じんぼ先生に認めて頂いて、研究室に籍を置かせてもらっているのでしょう? 貴方は、その期待に応えられるように研究で成果を出しなさい」

 さしもの匠も、実の母親にそう言われては返す言葉がないようだった。川の方へ少し視線を逸らして、動かなくなってしまう。否定も、肯定もしなかったが、実質同意したようなものだった。

「柑乃さん、どう?」

 真波が、今度は柑乃に問う。

 厳しい口調ではなかった。むしろ、実の娘に話しかけるように穏やかで、愛情に満ちている。

 だが、柑乃は血色のない唇を震わせると、

「も……、申し訳ありません」

と絞り出すように言った。

「わたしは匠様に拾われ、名を与えて頂いた身。匠様のおそばで、命尽きるまでお仕えしたく存じます」

「研究に君を使う気はないよ」

「それは……、荷物持ちでも、何でも……」

「君の存在そのものが、今の学会ではイレギュラだ」

「匠」真波が片手を上げて会話を遮る。それから、彼女は額を押さえてうつむいた。

 しばらく、何も言わなかったが、やがてふうっと息をつくと、元の明るい表情で全員の顔を見回した。

「ごめんなさい。わたしも、ちょっと頭に血が上っていたのかしら、話が性急過ぎました。うちの守りについては、主人とよく話し合ってから決めます」真波は体の前で両手を重ね、慎み深い仕草で頭を下げる。「今日の所は、ひとまず、ここまで。皆様、どうぞ母屋に戻ってゆっくりおくつろぎになってください」

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