18話

 時刻は五時四十五分を過ぎ、東の稜線からペール・ラベンダーの淡い光が空に広がった。夜が明けたのだ。大気はまだ冷えていたが、丸まって眠っていた獣がゆっくりと起き上がるような、躍動的な気配もわずかに感じられる。

 佐倉川邸に集まった七人は、朝食を食べた後、母屋が建つ山の麓へ移動していた。その辺りでは、鍾乳洞から地表へ水が湧き出して、浅く、透きとおったせせらぎを作っている。

 縷々として流れていく川のほとり、白い砂利が広がる岸辺で、薊彌と利玖が向かい合っていた。

「では、利玖様」薊彌が語りかける。「最後の確認です。先ほど私がご説明した手順を、復唱して頂けますか?」

「はい」

 利玖は頷き、体の前で組んだ手にわずかに力を込めた。そこには『十二番』から収穫した第三大臼歯が握られている。

 対になるもう一つの歯は、残りの歯と一緒に川の中にある。といっても、水に揉まれている訳ではない。ひっくり返して重りをつけた園芸用のコンテナの上で、歯肉を模したU字型の粘土の中に埋め込まれているのだ。利玖が持っているものが、そこに並べられていない最後の一つだった。

「薊彌さんの見立てによれば、この後、わたしが川に入って最後の歯を置いた時、顎は完全な形を取り戻し、復活の手筈が整う。肉体を得た相手は、最初の食事として、まず、わたしの手を狙う。だから、あらかじめ兄が反対側の臼歯の上にツバキの枝を置いて、口が完全に閉じないようにしておく」

 利玖は薊彌から少し視線を外し、向こうに立っている兄を見る。兄の隣には、柑乃がいて、両手で持った縄を真剣な表情で結んでは、兄に何か言われてそれをほどき、また違う手順で結び直すのをくり返していた。彼らも最終確認をしているのかもしれない。

「歯を置いた後は……」利玖は呟くように続ける。「わたしはすぐに岸に上がって、距離を取る。柑乃さんが相手を捕縛する妨げにならないように」

「問題ないようでございますね」薊彌は微笑み、それから、沈痛な面持ちになって頭を下げた。「私どもの調査では、力及ばず、歯の持ち主を特定する事は出来ませんでした。顎が復元された時、どのような妖が姿を現すかわかりません。何処ぞに社を持っていた神格という可能性もございます。なるべく、無傷で捕らえる事を目指しましょう」

 薊彌は顔を上げ、とはいえ、と言葉を次ぐ。

「最優先すべきはもちろん、人的被害を出さない事です。幸い、今回は我々に有利な条件が揃っている」

 利玖は黙って頷いた。

 薊彌達が、手応えのなさから途中で調査の方針を切り替えて、歯の持ち主を突き止めるのではなく、顎を分けて封じられた妖がどのようにして復活を試みたか、その時、周りの人間がどのように対処したかについて調べた事は、既に報告を受けていた。

 それによると、片方の顎だけを取り戻しても、ほとんど力は戻らない。もう片方の顎の隠し場所を特定する手がかりになる訳でもない。それでは、別々に封じた意味がないからだ。

 つまり、後から揃った顎の骨で、本体の出現位置を誘導出来る。これを利用して、利玖達は川の中ほどに台を作っていた。

 もし、相手が高位の妖で、血とともに強い穢れが地面に染み込んでしまった場合、何百年にも渡って土地を蝕む呪いの種となりかねない。だが、流れる水の力を借りれば、土地に傷を残さずに穢れをそそぎ、清める事も可能だ。

「利玖様に埋め込んで頂くのは第三大臼歯。噛み切ったり、切り裂いたりする為の歯ではなく、すり潰す為の歯です。埋め込んだ後、すぐに手を引けば、危険も最小限に抑えられるでしょう」

 薊彌は言葉を切ると、利玖の隣に目をやった。

 そこには史岐が立っていて、やや緊張した面持ちで川の方を見つめている。だが、薊彌の視線に気づくと振り返り、その時、わずかに手に力を込めたようだ。カチン、と小さな音がした。

 佐倉川家の蔵から持ち出された短刀が、今は、そこに握られている。鍔も下げ緒もついた立派な作りのものだったが、史岐が持つには些か不釣り合いに見えた。

「万が一に備えて、史岐様にも脇で短刀を構えて頂きます。もし、手を抜くのが間に合わなかった場合には、臼歯の奥から、このように……」薊彌が自分の口の端から耳に向かって、すっと手を動かしてみせる。「ものを咬む為の筋肉が集まっている一帯を切って頂きます。しばらくは口を閉じる事が出来なくなるでしょうから、その隙に安全な所までお逃げください」

「……はい」

 利玖は低い声で返事をした。

 本当は、そんな事を史岐にさせたくなかった。顎の筋肉を切り裂き、食事の邪魔をした人間を、歯の持ち主は決して許さないだろう。長く恨まれ、呪いを受ける可能性もある。

 だが、史岐以外の人員は皆、もっと危険な仕事か、替えのきかない役割を任されている。

 川が持つ力で穢れを清める為には、この中で最も佐倉川家の土地に精通した真波が下流で準備をしておかなければならないし、人間離れした運動能力を持つ柑乃でなければ、何もない所から現れる妖の急所を瞬時に見きわめて、縄をかけるような芸当は出来ない。

 正体が解明されていないとはいえ、歯並びから、ある程度相手の体つきは想像出来る。ネズミよりもキツネよりも、もっと大きい。たぶん、激しい抵抗に遭うだろう。

 それを考えると、兄の役目も危険だ。臼歯の上にただ枝を置くだけでは、安定しないし、少し顎が動いただけで落ちてしまう。ヒトよりも遥かに強い力で歯が噛み合う、その瞬間まで、兄は至近距離で枝を固定しておかなければならないのだ。

 堂々巡りから抜け出せない心の内を読んだように、薊彌が背を丸めて囁いた。

「本当に、我々が手助けしなくてよろしいのですか?」

 利玖は、ぎくっとしたが、一拍置いてしっかりと首を振る。

「はい。調査にご協力頂いた上、この後の始末をすべてお任せしてしまうのですから」

「そうですか……、ええ、それなら、お言葉に甘えさせて頂きますが」

「もしよろしければ」利玖は、思いついてそう続けた。「記録を残して頂けると助かります。なるべく正確で、詳細なものを。またどこかで同じような事が起きた時、その方々の役に立てるように」

「畏まりました」薊彌は頷き、目顔で傍らの芦月を示す。「私と芦月で、責任を持って見届けるとお約束しましょう」

 薊彌は最後に、史岐にも「よろしくお願いいたします」と頭を下げて河岸から一段上がった場所にある草地に移動した。高い所にいた方が全体が見やすい、という事か。

 それを皮切りに、匠と柑乃も長靴に履き替えて、ざぶざぶと川の中に入っていく。真波は、ずっと前から、十メートルほど離れた川の下流で準備をしていた。

 自分の声が届く範囲にいるのは、史岐一人だけになった。

 その事に気づいた途端、張りつめていたものが突然緩んだように、どっと躰が重くなり、氷洞の中の空気のような湿った冷たさが手足の先から這い上ってきた。

「つ……」思わず、呟きが口から漏れる。「疲れた……」

「あと一息だよ」そう言うと、史岐は首をかしげるようにして利玖の顔を覗き込んで「気が紛れる話をしようか」と言った。

「利玖ちゃんは、版画に対してどういうイメージを持っている?」

 まったく予想出来ない質問だったので利玖は驚いた。

 だが、すぐに意識を過去に向けて思考する。画集を読む事も、たまにあるけれど、版画は彼女の守備範囲外だ。

 小学生の時、授業で何か作ったっけ。クラスの皆とお揃いの彫刻刀のセットを買ってもらった事を思い出した。五本か六本で、一つの箱に入っていたはず。刃先はちゃんと金属で出来ていて、ラバーグリップは全部色が違っていた。良く覚えていないけれど、刃先の形状が様々だったから、それによって色が分かれていたのかもしれない。そうだ、母屋の中を探したら、それがどこかにあるだろうか。

「ごつごつとした太めの線、ダイナミックな色使い、アクセントは、あまり凝っていなくて……、そう、昔話の挿絵によく似合う、とか。そんなイメージですね」

 彼女は、昔、自分が作った版画の事を思い出しながら答える。図柄自体は、実の所、もうよく覚えていなくて、そういった要素は出来上がった作品に対してというよりは、作業工程で抱いたイメージに近かった。

「うん……」史岐は満足げに頷く。「僕もね、似たようなイメージをずっと持っていたんだけど、最近、それを覆えすような作家に出会ったんだ。潟杜に戻ったら紹介するよ」

 史岐の話はそれで終わりだった。

 出会った、というのが、作品を初めて見たという意味なのか、作家本人と対面したという意味なのか、どちらともとれる。あえて明言しなかったのか。それも含めて、お楽しみという事らしい。

 話し終えると、利玖は自然と空を仰ぎ、深呼吸をする事が出来た。

 冷たい空気が胸に沁みる。

 徐々に明るくなり始めた空には、しかし、まだいくつかの星々が残っていて、消え入りそうにほのかな光を放っていた。


 まるで、波間で砕けた石英の粒のよう。

 虚ろに透きとおる、それらの玉は、彩度の低いグラデーションの上に縫い止められている。それは、あらゆる地域、あらゆる時間の空から糸を紡いで機織り機に通したような、有機的なノイズで構成されるブルーだった。


 生まれ育った土地で見上げる空なのに、どこか、異質な感じがする。

 こんな風景も、版画に出来るのだろうか?


 史岐に目を戻すと、視線が重なった。

 自分の瞳は、今、一瞬だけ夢の続きを見ていたのかもしれない。


 彼が差し出した手を取って、利玖は一歩ずつ、水の流れがある方へ近づいていった。

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