第26話

 その夜、巽が目を覚ました。まだ二十時過ぎだったが、辺りは田圃が多く民家や商店が遠いせいで、もっと夜更けにも思えた。上瀧は巽の微かな指の動きに起こされた。

「……起きたや。看護師呼ぶか?」

 酸素マスクをつけた巽が微かに首を横に振った。病室の外には秦が控えている。巽が手を挙げ指先で手招く。上瀧は巽の耳元で声を潜めた。

(……市川の車からお前に盛ったらしい毒が見つかったって伊川から聞いたぞ)

 巽がなにか言いたげに視線を動かした。

「無茶しやがって」

 上瀧の悪態を、目尻で笑って受け流す。

 巽は自ら毒を飲んだ。そして市川に疑惑が向かった。もうそれだけで充分な“大義名分”が出来た。秦はそこにいるが、もうすでに他の人間が動いている。上瀧は秦のところに行き、人を呼ぶように云った。秦は余計なことは言わないが、明らかに表情と動作が変わった。愚かしいほど忠実な部下が片時も離れず傍にいるというのに、巽はなにゆえ自分に拘るのだろうかと思う。幼なじみが裏切らないとでも思っているのだろうか。そんな甘い幻想を妄信するほど、追い詰められているのだろうか。

 薄暗い非常階段から重たそうな足音が聞こえた。見ると先程の頭の悪そうなピアス女が立っていた。

「貴様なんしようとや」

「巽さん、起きた?」

「あ? お前誰や?」

「別に誰でもないけど。巽さん起きた?」

「誰かわからんもんを通すわけにいかん」

「アタシはネコ。言っとくけど、この名前、アタシがつけた訳じゃないけんね。音の子って書いて音子なん。巽さんはアタシが働いてた店の偉い人で、アタシのことボコってたカレシから助けてくれた。だからそのお礼をしてきたっちゃん」

 看護師がやって来て病室へ入っていった。後からきた秦が音子を見て怪訝な顔をした。

「お前こんな所でなんしようとや」

「アンタに関係なかろ。巽さんに言われたことをしただけやもん。文句言われる筋合いない」

「はよう帰れ気狂い女が」

 どうやら知り合いのようだが、互いに対する嫌悪が強い。忠犬と野良猫の間で攻防が無言で起こっている。さらに後からきた看護師に面会時間は終了したので付き添いの方以外はお引き取り下さいと言われ、上瀧は秦に後は頼んだと告げて、帰ることにした。上瀧の後をネコが追いかけてきた。

「ね、ね、どこまで行くん? 車やろ? アタシも乗せてくれん?」

 聞こえない振りをしてエレベーターにいくのをやめて、階段に向かったが、ネコは、ねーねーといいながらついてくる。ねーねーとまとわりついてくる。

「しゃあしかな。邪魔たい、退け」

 舌打ちをして言うと、ネコは一瞬目を見開いて、あっという間にその目を潤ませた。が、そんなことくらいで上瀧の心は動かない。ネコの動きが止まったので、身を躱してさっさと階段を降りた。

 降りてすぐの踊り場で内側の胸ポケットで携帯電話が震えた。見ると巽の番号からだった。

「あ?」

「すんません上瀧さん、秦です。カシラから伝言で、ネコを、さっき女を、退院するまで預かって欲しいとの事です」

「あァ?」

「すんません。以上です」

 と、通話が切れた。耳障りな電子音を聞いていても仕方がない。上瀧は電話をしまい、溜息をついた。

「おい、そこの女。ついてこい。聞こえとうか。こっち来い」

 そういうと、ガコガコとラバーソウルの重たげな足音が降りてきた。

「事情が変わった。一緒に来い」

 そう告げると、ネコはほっとした様な表情を見せた。車に乗り、事務所の一番若い丸山に電話をかけた。巽から預かった女の世話を頼むと、少し緊張した声で頷いた。丸山は事務所にいるのでそのまま待機でいいのか尋ねてきた。そうしてくれと返して電話を切った。

「お礼にドライビングフェラする?」

 人差し指と親指で円を作り、そこからタンピの刺さった舌先を見せつけるようにのぞかせる。

「黙って後ろに乗っとけクソボケが」

 上瀧が低く云うと、ネコはそれ以上擦り寄って来なくなった。

「ねーねー。まだ怒ってんの?」

 後部座席から声をかけられたが、答えるのも面倒くさく、黙っていた。暗い田舎道で対向車もない。

「巽さんなら褒めてくれるのにぃ……」

 上瀧は答えない。運転席越しにドンッと鈍い衝撃がつたわる。ネコが蹴ったのだ。

「貴様大概にせんとぶちくらすぞ」

ブレーキを乱雑に踏み、ギアをパーキングに入れて振り向く。一発くらいひっぱたいてやろうかと思ったが、期待いっぱいに頬を紅潮させた笑みを浮かべているのが気色悪くなり、その気が萎えた。

「なんか? その顔」

「無視されるより殴られたほうがいい」

「キショいな、お前」

「巽さんはそんなこと言わんもん。殴ったりもせんけど」

「巽がどうとか聞いとらん」

「アタシ、男の人に平手打ちされるの好きなんよ。すごく痛くてほっぺた熱くなって、頭がクラクラして、だんだん気持ちよくなる」

「お前の嗜好やら興味ないっちゃけど、聞いてやらないかんとや?」

「聞いてくれるん?」

 ネコは嬉々として顔を寄せてきた。上瀧は顔を避けて煙草を取りだし、火をつけた。

「アタシ、巽さんみたいに優しい男の人、初めて会ったとよ。やけん、嬉しくてね、巽さんの為ならなんでもするって決めとーと」

「ほう。そらせいぜい励め」

「うん」

 この女は本当に馬鹿なのだと思った。相手がどんな人間か確かめもせずについてくる。こんな単純で頭の悪い女を巽は何故傍に置いたのだろうか。使い捨てにするにも危うい。

「オニーサンの名前は?」

 再び車を走らせて数分も経たず話しかけられる。

「知ってどうするとや」

「話す時に呼べんやん」

「呼んでもらわんでちゃよか。黙っとれ」

「ひねくれとーね」

「まだ喋るんか」

「こっから福岡まで黙っとけって云うと? 一時間半も? 無理っちゃけど」

 一時間半もこの状態かと思うと、心底うんざりした。

「巽さん、死なんでよかったねえ」

「ああ」

「オニーサンも巽さんが好き?」

「そうでもない」

「嘘ばっか〜」

 なんだこれは。苛立つのも疲れる。煙草を根元まで灰にして、窓から親指で弾いて捨てた。

「あっ。火花きれい」

 散っていった穂先を見やりながら音子が笑う。

「怒っとうわりに殴ったりタバコの火押しつけたりせんったいね」

「するかそんなこと」

「へえ」

「お前の周りイカれた奴しかおらんな」

「アタシ、バカやけん。使えるの、まんこくらいしかないってよう言われる。中絶ばっかしよったら子供産めんくなっとうし。こんなん、構ってくれる人、あんまおらんもん。見て。萎えるやろ」

 と、口元だけ歪に笑いながら裾をまくって見せた薄い腹には、ケロイドが巻きついていた。何度も押しつけられた痕なのだろう。乳首も潰れて平らになっている。

「キモイやろ? イカレとらんかったらこんな女に勃たんやろ」

「しまえ。女が男の前で簡単に脱ぐな」

「女? バケモノやん」

「お前はイカれた男なんかよりテメェを大事にせえ。お前がバカなのはそこだけぞ」

 煙草に火をつけ、濃い紫煙を吐き出す。

「お前、腹は?」

「これ? 親とか昔のカレシとか」

「腹は減っとらんのかって訊きようったい」

「あー。別にいいよ。食べんでも平気」

「じゃあ俺に付き合え」

「なーん? アタシのこと可哀想になったん?」

「女に食わせんで自分(テメェ)だけ飯が食えるか」

「かーっこいー」

「うるせえ。何食うとや」

「なんでもいいよ。食べ物なら」

 女は男で人生を左右される。女の方はお前がどげんか取り計らってやれ。

 赤川の泣き出しそうな声を思い出す。

 自分が動いても焼け石に水どころか焼け野が原やと思うんすけど。と心の中で返す。何事も丸く収まったためしがない。

 明かりの乏しい国道沿いにチェーンの焼肉屋を見つけた。他にありそうもないのでそこに車を停めた。音子は焼肉焼肉とはしゃぎながら車を降りた。

 満腹になると疲れも出て運転どころではなく、高速入り口の手前のラブホテルに入った。音子はうつらうつらしながらも、連れてこられた先を見ると、目が覚めたらしくぎこちない態度になった。

 風呂に入って足を伸ばして寝たいだけだったが、わざわざ説明するのも億劫でお前も来い、とだけ言った。あんな話をしておきながら、まったく慣れてないような、怯えすら感じさせる足どりでついてくる。そんな音子に構わず、上瀧は先にシャワーを浴び、簡易寝巻きに着替え、いつものように歯を磨き、先にベッドに入った。

「俺が寝とる間、お前が金を持って逃げようがそれは構わん。好きにせえ」

「どこも行くとこないもん」

「じゃあ寝とけ。風呂は入れよ」

「うん……」

 音子はか細い声で返事をすると、そろそろとシャワールームへ行った。

 肩や首周りが強ばっている。身体がいつもより重たく感じる。疲れが出たのか、やけに寝つけない。しばらくして音子が戻り、ベッドの横に立った。

「フェラ、する? さっきも言ったけど、生で中出しでいーよ。あ、こないだ店で性病の検査は受けたけど、大丈夫やったけん」

「……なら、肩と背中揉んでくれ。腰も」

「オッサンやん!」

「オッサンやろうもん」

 音子はくひひと変な笑い声を漏らしながらうつ伏せの上瀧の上に跨る。尻に体重をかけないようにし、掌に体重をのせて圧をかける。慣れた手つきで下手な按摩師より上手い。

「お前、巽に言うてマッサージの店持たせてもらえ。風俗より向いとる」

「ほんと? そんなん初めて言われた」

 音子が弾んだ声で言った。別に喜ばせようとしたわけではなく、本当にそう思った。

「オニーサンってめちゃくちゃ酷いことしそうな見た目やけど、優しいね」

「ちょろっと褒められたくらいで懐くな」

「あはは。優しい」

「見る目のない女やな」

「わあ、凄い。これ、鳳凰? え。巽さんが龍やけん……、巽さんがタチでオニーサンがネコってこと?」

「んなわけあるかクソボケ。なんやその知識。ほかにもっと学ぶことあろうが。こんなんたまたま親父に紹介された彫師のとこで見た鳳凰(これ)が良かったけん、選んだったい」

「それだけ? そんな理由? 軽くない?」

「別になんでもよかったしな。意味なんかいらん。体裁取り繕うだけの見かけ倒しよ」

「こんなに綺麗なのに」

「どうもこの紋紋は妙な女に気に入られるな」

「そうなん?」

 茉莉との事を思い出し、思わず、フ、と笑いが漏れた。

「手が止まっとるぞ。続けんか」

「あ。はーい」

 音子は一生懸命マッサージを続ける。細い指のおかげでなかなか刺激も強めだ。十分程してだいぶ軽くなった。

「もうよかぞ」

「じゃあ、次、仰向けね」

 言われるまま仰向けになると、陰茎を持ち上げられ、口に入れられた。茉莉の拙いやり方と違い、初っ端からねっとりと舌が絡み、口内に包み込まれた。

「いらんことすんな。こっちはもう疲れとったい」

「オニーサンは寝とって。アタシ動くけん」

「いらんって言いよろうが。止めろ」

「なんで? アタシの身体が醜いけん萎える?」

「大事にしろってさっき言ったばっかやろうが」

「ラブホに連れてきて?」

「俺ぁ疲れとったい。車なんかで寝られるか」

「本当にそれだけ? でもちょっとやけど勃っとうよ。いいと?」

「ほっとけ」

 舌打ちをして音子に背を向け横臥する。音子がふふふっと笑いながらカバーのような掛け布団を上瀧に掛け、背中にくっついてきた。

「本当にせんと?」

「そんなにしたけりゃディルドでも買うとけ」

 投げやりに答えて、目を閉じる。今から腰を振るなど考えただけで億劫でたまらない。せっかく身体も解れたのだ。非生産的で単調な労働なんかまっぴらだった。強烈な眠気が起こり、そのまま寝入った。

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