第8話 お姉ちゃんのぬくもり

「アールちゃん」


 スフィアさんが話しかけてくる。


「なーに泣いてるの?」

「えっ……」


 気が付いたら、俺の目から涙が出ていた。

 ドレスの裾で拭う。……こんな、みっともない。


「こーら、ドレスが濡れちゃうでしょ。これ使って」


 スフィアさんがハンカチで目元をぬぐう。


「どうしたの? ってまあお母さん厳しいもんね。しょうがないか」

「すいません……」

「謝ることじゃないでしょ。あはは、かわいいなぁ」


 頭をなでなでされる。……子供扱いされているようで恥ずかしかったが、悪い気分ではなかった。


「まあ、そんなに気にすることないよ。お母さん、ちょっと厳しく見えるけど、あれも愛情の裏返しなんだと思うよ?」

「そうでしょうか……」

「うん。まあ、もしそうならあたしが言ってあげる。あなたは悪くありませんよってね」

「……」


 確かに、そうかもしれない。リーシェさんは厳しい人だ。だけど、それはすべて――アルティ・ルヴァンという一人の少女を思ってやってくれていることなのだろう。

 それは、分かっている。分かってはいるのだが……。

 俺は、ひたすらに戸惑っていた。

 人からの厳しさに。人からの――愛に。


 両親から愛を向けられた記憶はない。

 あったのかもしれないが、それ以上の暴言と暴力が記憶を埋め尽くしている。

 親から与えられるものは、全て自分に対する悪意だと認識していた。


 今ではそうではないと認識するのに、時間がかかっているだけだ。

 ただ、困惑しているだけだ。


「大丈夫。アルちゃんには、あたしもいるから。あたしもアルちゃんの事、慰めてあげるし。ちゃーんと、お姉ちゃんとして愛してあげるから」

 ぐっとスフィアさんが俺を抱きしめる。

「愛……」


 それは、俺の中に初めて浮かんだ感情であった。

 今まで、嫌われ者のアルファス・トーレの感じたことのない、人から与えられた、愛。

 人の温かみ。人のぬくもり。人からの愛情。

 それが、アルティ・ルヴァンという少女には――与えられる。

 この体になって――俺を嫌うものは、いない。

 そのことに、俺は気づいた。


「ううっううっ……あああああ!!!!」


 涙が、決壊する。止まらない。溢れてくる。


 この体になっていい事はあまりないと思っていた。

 いや、魔法が使えるようになったといういい点はあったが、それでも、元の体の方がはるかに強いと考えていた。


 だが、それではない。


 この体には、呪いがない。


 嫌われる呪いがない。


 人が、優しさを、温もりを、愛を向けてくれる。


 普通の人らしく、人に愛される。


 それは、俺が求めてやまないはずのものであった。


「ほら、よしよし」


 スフィアさんが背中をさすりながら、優しく慰めてくれた。

 ああ、これが、人の温かさなのか。

 今まで、俺が知らなかったもの。


 知らなければいけなかったもの。

 ……しばらく、そのまま泣き続けた。


 ***


「……ありがとうございます」

「いいっていいって」


 みっともないところを見せてしまった。……やれやれ、男らしくもない。

 この体に、影響されたのか。


「さてさて、アルちゃんを慰めてあげたそーの代わり、一つ頼みがあるの」

「なんですか? スフィアさん」

「その呼び方っ」


 スフィアさんがグッと顔を近づける。


「ダメだよ。あたしはアルティちゃんの……お姉ちゃんなんだから」

「えっ……はい」

「これからは、あたしの事をお姉ちゃんって呼びなさい」

「えっ……」


 見も知らぬ人を、お姉ちゃんと呼ぶのは恥ずかしい。

 でも、アルティという少女にとっては彼女はお姉ちゃんだ。そう呼ぶのがふさわしいはずだ。


「記憶喪失で戸惑ってるんだろうけどさ……それでも、アルちゃんはあたしの妹だし。だから、アルちゃんもあたしの事お姉ちゃんとして扱って欲しいなーって」

「……」


 まあ、そうだな。それが筋ってもんだ。

 だが、少し恥ずかしかった。この俺が……人の事を愛称で呼ぶだなんて。


「ほーら、呼んでみて。お姉ちゃーんって」

「えっと、その……」

「うーん、まだ駄目かな……でも、一回だけ、一回だけ!」

「うう……お姉、ちゃん」


 言った。

 言ってしまった。


「よろしいっ!」

「うう……なんだか恥ずかしい……」

「本当はもっとその丁寧な口調を治させたいんだけどねーまあ、とりあえずよしってことで! うーんやっぱりかわいいなーアルちゃんは!」


 ぐっと、彼女は俺の事を抱きしめる。

 ……やわらかい感触が俺の体に伝わる。……この体は、女なのだ。


「はぁ……癒されるぅ……」

「むぎゅ……」


 ……しばらく、俺は彼女にされるがままになっていた。


「あの……スフィアさん」

「お姉ちゃん」

「いや、まだ恥ずかしくって。その。そろそろ離してくれませんか……」

「えぇ~、いいじゃん。もっとこうしてようよ」

「その……はずか、しぃ……」

「うーん、しょうがないな。ごめんごめん」


 スフィアさんが離れていく。……名残惜しい気持ちもあるが、少しほっとしたような気持ちもあったのだった。


 ***


「さてさて、落ち着いたところで……じゃああたしからも授業をしようかな」

「えっ……」


 咄嗟に、嫌そうな顔をしてしまう。

 さっきの、厳しい授業を思い出して。


「だーいじょうぶ。あたしがするのは、魔法の授業だから」

「魔法!」


 俺はがたっと興奮気味に立ち上がる。

 魔法。知りたかったことだ。

 この体になって、一つ嬉しかったこと。魔法が使えるようになったこと。

 あんな貴族向けの授業はどうでもいいから、こういうことをやりたかったのだ。


「はいっお願いします!」


―――――――――――――――――――――――――――――――――

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