第2話 山道にて
私が栃木県に赴任してしばらく経った頃の話です。仕事で栃木県と群馬県の県境に近い山間部に日帰りで行く事になりました。社有車でも、栃木支社から片道3時間近くかかります。前日に仕事関係の資料を確認し、翌早朝4時に出社。内容を確認して5時に出発。途中迄は高速道路を使い、当時はナビもスマホも無い時代でしたので、使い古した地図帳を頼りに、山道を随分と走りました。
無事に目的地に到着。目的地は山間の小さな集落で元小学校と公民館が同じ敷地内にあるような施設でした。集落の中心というか、その周辺にしか人家がないような山奥の公共の施設の一室をお借りして、その地域の担当者の方々と打合せ。昼食は途中で買ったコンビニ弁当を食べ、午後5時迄滞在。当日中に今日の仕事の報告書を作成する事は無理でしたが、取り急ぎ帰社しようと、そそくさと車を出して、帰路につきました。
季節は10月も中頃だったでしょうか。山は落葉ほぼ終わりになっておりました。釣瓶落としの夕闇は、あっという間に真っ暗になってしまいます。
まだ17時台か。と思い、ずっと寂しい道を帰るより、少し明るい所を通りたい。と、来た時の道ではなく、途中で方向を変えて、温泉のある観光地を通ってみよう。職場に土産の菓子でも買って行くか。と思い立ち、小一時間で観光地に入りました。
しかし、予想していた賑わいどころか、人影もなく、車さえ走っておりません。休日でもなく、紅葉もあらかた終わったせいでしょうか。空いている店もなく、町中ひっそりとしておりました。これでは、お土産もないな。と、地図を見ますと、しばらく進むと右手に入る細い道があり、小川と並行して、山の谷部を通り、帰社する方向に走る大通りに抜けられそうです。
早速、その道を利用して、回り道をしてしまった分を取り返そうと、既に日も暮れて、車のヘッドライトが届く所迄しか見えない、左右ともに熊笹だらけの一本道を、どんどん進んで行きました。
いきなり、左手に大きな農家が現れ、ヒョイと舗装された、白色波線の中央分離帯のある通りに出ました。どうやら、小さい山か丘を超えてきたようで、その通りは、比較的大きな川沿いに作られた、この辺りのメインストリートの様でした。
停車して、地図をよく見ると、どうやら乗合バスの路線でもあるようです。よし、このまま東に行けば、大きな町に入れるな。と、走り始めましたが、先程の曲がり角にあった農家の他は、見える限りでは人家らしき物は一軒も見えず、左手は山が続き、舗装道路の際まで熊笹や低潅木が生えているだけで、反対車線には、白いガードレールが遥か先まで続いている様です。
窓を開けると、川の音が右側から聞こえて来るので、ガードレールの先は多分川だったのでしょう。真っ暗な道ですが、電柱が左手にあって、数本毎に街灯が弱々しく点いておりました。真っ暗な部分が多分山。その上に山々の形に沿って、やや闇が薄い所から空なんだろうなあ。などと思いつつ、20分も走ったでしょうか。
左手前方に、バス停の様な物とバスを待っているのか、コートを着た、髪の長い女性らしき人影が見えました。
全く民家も何もないのにバス停か。あんな所に居たら危なくないか。と、心配になり、だんだん近づくに連れて減速し、道を聞いてみながら困っているなら聞いてあげようか。と、そのバス停らしき所の前で停車しました。
怪しい者と思われても困るので、とりあえず助手席の窓を開けて、ドア越しに声をかけようと、パワーウインドウのスイッチに手をかけた時です。いきなり強い声が助手席側の耳元で響きました。「開けちゃだめ!」
え。っと思って助手席を見て、はっと助手席側の窓を見て、全身が凍りつきました。
助手席側の窓に顔を貼り付ける様にして真っ赤な目で、長い髪の女らしき者と、その両脇や上や、後の席の窓にも、何人もの真っ黒い影で、真っ赤な目の人間の様な物が車に貼りついて、中を睨みつけていたのです。
え、あ、何?と思う間もなく、その連中が車を両手で叩き始めました。バーン!バーン!と、怒りに燃えた目で無言のまま、真っ暗な中を5、6人は居るでしょうか。皆凄まじい怒りを無言でこちらにぶつける様に、両手で車を叩くのです。その音で、はっと我に返り、必死にクラクションを鳴らしながら車を発信させ、後はどこをどう帰ったかも覚えていないほど、無我夢中で自宅に戻りました。
自宅の駐車場に社有車を入れ、エンジンを止めて、大きく深呼吸をして、やっと冷静に考える事ができました。時計を見ると22時少し前。あそこから4時間近く走っていたのか。高速乗らなかったな。で、あれはなんなのだ。熊か。いや、熊にしては細い。なんで増えたんだ。いや、その前に、私に窓を開けちゃダメ!って、何処から聞こえたのだ?ラジオが偶然そう聞こえたのか。やたらと疲れた。この寒さはなんだ。もう山ではなく、町に入っているのに。等と頭の中で、グルグルと同じ事を繰り返し考えていましたが、物凄い疲労がどっと襲って来ました。
やっと車から仕事の書類が入ったカバンとともに這い出し、玄関の鍵を開け、誰もいない我が家の電気を付け、風呂を入れる気力も、着替える気力もなく、敷きっぱなしの布団に倒れ込んで、そのまま意識が遠くなりました。
ふと目を覚ますと、午前7時。あ、あのまま寝てしまったのか。と、起きようとしましたが、全身虚脱というのでしょうか。身体を動かすにも中々力が入りません。そして酷い頭痛。風邪ひいたか。と、いつも手の届く所に置いてある救急箱から体温計を取り、測ってみますと39度。参ったな。社有車もあるし仕事の資料もあるし、仕事を休める訳ないじゃないか。と、無理して起き上がりましたが、激しい目眩で、また布団に倒れてしまいました。
何とかしないと。まだ課長は自宅に居る時間だな。と思い、携帯のない時代でしたので、課長の自宅に電話を入れました。課長自身が電話に出てくれました。昨日社有車で出かけたこと。今朝体調が凄く悪くて、中々出社が難しい事を告げますと、「おお、無理するな。社有車と書類は、俺が出社してから、誰か連れて取りに行ってやるから。君の車は職員駐車場にあるんだろう。行った時に鍵渡してくれれば、帰社した後に、誰かと届けてやるから、今日は病院に行きなさい。」と、人の良い課長の親切な言葉に、感謝しつつ、また、意識が朦朧となったのでした。
その後課長と事務方のパートで林田さんと言う、私の家の近くに住む面倒見の良い主婦の方が車を取りに来てくれたのは午前9時頃だったでしょうか。
ぼんやりとしているうちに日も陰り、あ、もう夕方か。医者に行ってないな。飯も食ってないか。等と思っておりますと、玄関の呼び鈴がなりました。寝巻きのまま、開けてみますと、また、課長と林田さんが来て、「おい、大丈夫か。医者行ってないだろ。その様子じゃ。とりあえず社にあった風邪薬持って来たぞ。」林田さんも、「何も食べてないんでしょう。パート終わってから家でおにぎりと、豚汁作ってきたから、今温めてあげるからね。」と、言ってくれました。
人の恩は本当にありがたい。思わず感謝で涙が出そうになっておりました。
林田さんに作って頂いた食事を、勧められて食べ始めますと、課長が神妙な顔になって、「昨日、何があった。」と聞いて来ました。「特には、何もありません。打ち合わせの書類に何か?」と聞きかえしますと、「いや、仕事の方は問題ない。ただ、社有車がな。助手席側に沢山の手形みたいのがついていたんだよ。打ち合わせ中に近所の子供でもイタズラしたのかな。とも思ったけど、どうも大人のサイズでな。でも、塗装がハゲてる訳でもボディが凹んでいる訳でもない。事故にあったなら君なら直ぐに報告して来るだろうし、変だと思ってな。会社の近くに警察署があるだろ。あそこに社有車を持って行って、イタズラされたんじゃないか。と相談に行ったんだ。すると、知り合いの交通課の警察官が、交通鑑識の担当者を連れて来てくれてな。手形を調べて貰ったら、直ぐに回答が出て、関東ローム層の土らしいんだ。園芸用に鹿沼土と呼ばれる土が販売されているが、その中の赤玉と呼ばれる原料になるらしい。で、手形もよく見ると、手形に見えるだけで、関東ローム層の土が多い沼か何かの水辺を走っていた対抗車か何かが跳ねた物だろうと。ただ対向車にしては反対側だし、指の様に見えるのは、塊が当たった時に、前に進んでいたからではないか。でも指の様に後ろに伸びたのなら分かるが、何故手形の形に皆指の様に上向きなのか不思議だ。と言っていたんだが。何かあったのか?」と聞かれました。
体験した事を、そのまま話そうか。とも思いましたが、まだ自分自身、どこか夢の様な気もしていましたので、「特に思い当たる事はないのですが、ただ、お土産を買おうかと帰りのコースを変えましたら、途中で、外から叩かれた様な衝撃がありました。でも外には車も人?もいませんでしたので、その時は気づきませんでした。」と、答えました。
人?も?の時に一瞬言い淀んだのですが、課長は、「まあ、何かの勘違いか、疲れていたのかな。明日も休んでいいから、病院に行くんだぞ。」と言われ、帰っていきました。翌日は熱も下がりましたが、課長にも勧められた事もあり、休暇を取って、すぐ近くの病院に行きました。
診察の結果は、風邪と疲労。という事で、今週は休む様に。との診断となり、2日間休んで土曜日となりました。疲れも取れ、心身共に回復してきた私は、2日間休みの間に、地図を広げて、何度も記憶を遡り、自分が通って来たであろう道を確認しておりました。しかし、昼間であろうと、一人でまた、あそこに行く気にはなりませんでした。 了
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