第10話 無瑕の令嬢

 やってしまいました。


 私、ユリア・ペトリは、昨日夕食時に泣きすぎて、そのまま眠ってしまったため、ヴィンチェンツォの見送りができませんでした。


 なんということでしょう。失態どころではありません、婚約者の出兵の見送りにくらい出てこいと言われても平謝るしかできませんよ、これは。


 悲しみのあまりベッドから這い上がれず、涙目になっていた私を起こしにきたのは、ペネロペでした。


「おはよう、お義姉様! いい天気よ!」


 そう言って、ペネロペは私の被っている布団を引っぺがします。テキパキと私の上体を引っ張って起こし、くるっと方向転換させてベッドに腰掛ける体勢にさせ、そのままスリッパを履かせて背中を押していきます。


 昨日と同じく、ベッドから少し離れたところにあるテーブルには、すでに朝食が並べられています。やっと意識がはっきりして感覚が蘇ってきた私は、嗅覚と視覚の両方で山盛りのクロワッサンの存在を見つけました。


 クロワッサンに誘われて近くへ寄ってみると、とんでもないものを目にします。


「これ、これ全部、朝食用なのですか……!?」

「そうよ!」


 私が思わず声を上擦らせたわけは——テーブル一面に広げられた、品評会のごとく少量多品種のハムとチーズを並べた大皿がどんと二つあったからです。


 お皿の端から端まで、扇状に並べられたロースにショルダー、ボンレス、サラミ、パストラミ。薄く切った生ハムまであります。その隣に、三角の薄切りチェダー、どんと置かれた白い巾着型のブッラータ、荒削りされたオレンジのゴーダに、穴だらけのハヴァティまでチーズがびっしりです。


 一体、これをどうしろと。私が慌てふためていていると、ペネロペがさっとテーブルに手を伸ばしました。


 クロワッサンは横に切れ目が入っており、そこに具材を入れて挟んで食べる。申し訳程度に添えられた塩漬けキャベツと玉ねぎのスライスもいいでしょう、ペネロペはどんどんクロワッサンの切れ目へと載せて、載せて、ついにはキャベツ、ハム、チーズははみ出ています。それをクロワッサンのふたで閉じて、私へ差し出してきました。


「はい、お義姉様! あーん!」


 待って、それ一口じゃ食べられませんから。


 私はクロワッサンサンドを受け取り、はみ出て落ちかけたハヴァティチーズを齧ります。さっぱり、クリーミーな甘々チーズです。もうこの一口だけで幸せなのですが、まだまだクロワッサンの具材たちは食べてくれと押し寄せてきています。順番に、順番に! 私はクロワッサンの端から小口で食べていきます。


 私の実家がある、旧ペトリ辺境伯領は冬は雪に閉ざされる山々に囲まれた冷涼な土地で、牧草はたっぷりあるため牛や羊の飼育が盛んです。特にマンチェゴという羊乳チーズが美味しく、もっぱらグラタンに乗せたり直火で炙って食べていました。他にも熟成庫には牛乳で作るグリエールチーズがあって、混ぜて食べると——うん、さすがに贅沢すぎますね、それは。


 私は途中から椅子に座ってクロワッサンサンドを平らげます。パストラミしか挟んでいないクロワッサンを頬張るペネロペは、もう一つブッラータチーズまみれのクロワッサンサンドを作って、自分の皿に確保していました。


「それでね、お義姉様。まずエンツォお兄様から伝言。兵は拙速を尊ぶ、王宮の貴族たちが余計な口を挟む前にスカヴィーノ侯爵家令嬢アナトリアとタドリーニ侯爵家のベネデットとくっつけるように、って。もちろん、私と一緒によ」


 ふむふむ、私もその言わんとするところは分かります。


 裕福なタドリーニ侯爵家嫡男と婚約を結びたい貴族令嬢はいくらでもいます、その争奪戦をまともにやるのではなく、裕福さでは他家より頭一つ分は上であるスカヴィーノ侯爵家が掻っ攫う形であればさほど異論は出ないと思われます。貴族はすぐに陰謀を巡らせますから、その時間さえ与えないというのは理に適っていますね。さすがヴィンチェンツォです、戦いの嗅覚は舞台がどこであろうと優れているようです。


 さらに、拙速を尊ぶ理由はもう一つありました。


「お兄様のおっしゃる方針は、私も賛成よ。とにかく、レーリチ公爵家は敵が多いわ。公私ともに邪魔者はどこにでもいて、やつらに察知される前に行動を終えておく必要があるの。おそらくエンツォお兄様は素早く旧ペトリ辺境伯領を解放して、ウェンダロスを追い払うでしょうけど、長くかかっても、二、三週間だと思うわ。それまでに、こちらもやってやらなきゃ!」


 鼻息荒く、ペネロペは盛大にそろばんを弾きます。


 それはいいのですが、私はいまいち貴族らしい策略には縁がなく、どうすればいいのか分かりません。


 であれば、分からないことは聞く以外ありません。正直にペネロペへ尋ねます。


「しかし、どうやってやるのでしょう? ペネロペさんのお考えを教えていただいてもよろしいですか?」

「いいわ! まず、タドリーニ侯爵家のことは任せて。昨日のうちに私のネットワークで各所に情報収集を頼んであるし、どう転んでも不名誉な婚約破棄が大っぴらになる前に次の婚約者探しをしようとするでしょうから、それに乗っかるわ」


 なんと、ペネロペはすでに動きはじめていました。社交界の戦いでは頼りになる、とヴィンチェンツォが言ったとおりです。もごもごパストラミサンドを頬張るペネロペもまた、兄と同様に異名を持っており——『無瑕の令嬢レディ・フローレス』と呼ばれているそうです。意味? うーん、それとなく今度聞いておきましょう。


 ペネロペがここまでしてくれているのに、私が何もしないわけにはいきません。


 私はこう提案しました。


「では、私はアナトリア様へ、私がヴィンチェンツォ様の婚約者になる旨をお伝えします。お会いする機会を設けていただけますか?」

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