第9話 ここにいればいいのに

 午後六時を知らせる柱時計の鐘の音が鳴り、お腹もぐーと鳴ります。


 それもそのはずです、目の前には——煮込んだ細切れお肉とトマトたっぷりデミグラスソースがマリアージュして、湯気立つ銀のスープジャーにどんと満タンです。そして白磁器のボウルに盛られたライスにかけろとばかりに雫型のレードルが置かれ、さらには食欲を刺激する旨味の香りが部屋中に充満していました。


 普通なら盛り付けはメイドがやるのでしょうが、レーリチ公爵家は違います。ペネロペは自分の手で、ライスへ好きなだけハッシュドビーフのデミグラスソース煮込みをかけ、そのブラウンのソースの上にサワークリームを——サーバースプーンでドバッとすくって、盛りました。そこに遠慮も何もありません、目を輝かせて食欲に任せての行動が許されています。


 なんということでしょう、貴族令嬢がこんなはしたないことをして食べていいのでしょうか。いえ、私はいいのです、『元』がつきますし。あと家で大体そんな感じでしたから。ええ、大声では言えませんが。


 しかし、そんなマナーなどどこ吹く風、ペネロペはすでに大満足の顔をしています。


「いいでしょう? うちではマナーなんて気にしなくていいわ、だって美味しいものを食べるほうが優先よ! お義姉様も好きなだけよそって食べていいのよ!」

「は、はあ……ペネロペ様、お気遣いを」

「様はやめて!」


 ペネロペはまるで吠え立てる小型犬のように怒っていました。ああ、そんなに乱暴に振るったら、その手にある銀のスプーンは曲がってしまいます。


「私、お姉様が欲しかったのよ! だってエンツォお兄様は貴族の間でも避けられるような野蛮人だし、大兄様たちもお父様も全然気にしないし、私の味方がいなかったの! お母様も早くに亡くなったから、それで」


 最初こそ勢いはよかったものの、だんだんとペネロペの声のトーンは低く、フェードアウトしていきました。銀のスプーンを持つ手も下ろされ、力なくテーブルに置かれるばかりです。


 ペネロペのこのしょんぼりには事情がある、やっと気付いた私は、親切にしてくれたペネロペに尋ねることにしました。


「ペネロペ……さん?」

「うーん、まあ、呼び捨てじゃなくてもいいわ」

「では、ペネロペさん。私、今日レーリチ公爵家の門を叩いたばかりで、ましてや辺境の出の田舎者ですから、ヴィンチェンツォ様やあなたのご家族については何も知りません。このお家のことだって、先祖代々武功を立ててきた立派な公爵家ということしか知らなくて……はい、本当に失礼しました、えっとでもですね、でも、少しずつでも知ることができたなら、と思ったりしています」


 思えば、今日の私の無礼っぷりはとどまるところを知りませんね。人生で一番目まぐるしく運命が回った日だと思いますし、上手くいきすぎて怖い、とさえ実はちょっぴり思っています。


 本当は、どこかに落とし穴があるのではないか。ここまで親切にしてもらっているにもかかわらず、私は失礼ながらそんな不安を捨てられていません。


 とりあえず、私は怪しい者ではないと証明しなくては。説明下手ながらも、私はがんばります。


「いきなりやってきて婚約することになって恐縮ですが」

「お父様は、お義姉様にはお兄様と結婚してほしいって言っていたわ」

「はい、そうなって、私に不信を抱かれても当然だと思います。それでも」

「不信?」


 サワークリームをソースに混ぜながら——あ、そうやって食べるのですね、私は真剣に見ていました——ペネロペは素っ頓狂な声を上げました。それから首を傾げて、少し悩む素振りを見せ、私へ諭すようにこう言います。


「ねぇ、お義姉様、多分勘違いなさっているわ」

「え?」

「そうね……ごめんなさい、そこは話がかなり長くなるから、あとにしましょう。レーリチ公爵家の歴史なんて大して面白くもないし、それに肝心なことはただ一つよ」


 ただ一つ、それは一体。


 ペネロペはスプーンを置き、席を立ちました。つかつかとヒールを鳴らして私の横へ来て、自らレードルを手に持ち、私のライス入りボウルへとハッシュドビーフのデミグラスソース煮込みを注ぎます。ついでにサワークリームもたぷんと乗せて、呆けている私の前にさあどうぞ、と差し出しました。


「お義姉様は、レーリチ公爵家の四男『野蛮人バルバリカ』ヴィンチェンツォの妻にふさわしい女性よ。大丈夫、私が保証するわ。お父様だって同じことをおっしゃっていたもの。だから、自分を卑下するのはおやめになって」


 並べられている銀のスプーンを取り、ペネロペはそっと私の右手に握らせます。ペネロペの小さな手は温かく、しかしよくよく触れるとタコがいくつかありました。なんのタコでしょう。


 とはいえ、ペネロペがそんなにも私をレーリチ公爵家にふさわしい人間だと思ってくれている、それは恐縮を通り越して五体投地で顔を覗き見ることさえできないレベルのビビり領域に入ることです。


 今私が手に握ったスプーンだって、公爵家の紋章が入った銀細工のきちんと磨かれた逸品ですが、私の家は未だに漆塗りの木のスプーンを使っています。


 つまりですね、同じ貴族でも立場は全然違いますし、身分階級のランクが違うわけですが、それでも私はヴィンチェンツォにふさわしいのだと言っていただけるなにかがあるのでしょうか。残念ながら、私はそこまでの価値があるものを持っていない、そう思い、もやもやします。


 そのもやもやする私の頭の中の雲を払うように、ペネロペはぺちん、と私の背中を叩きました。


「だって、誰かのために自分さえ差し出せる人間が、悪い人間のはずないじゃない! 平民だって、ただの王侯貴族だって、そんなことはできないわ。そういう方なら、私は一緒にお食事したいと思えるの。お兄様だってお父様だって、そのうちみんなで一緒に細かいマナー抜きで美味しいものを食べましょう」


 私の目の前にある、ハッシュドビーフのデミグラスソース煮込み。湯気がまだまだ立ち込めて、お肉と玉ねぎとマッシュルームの細切りが溶けてくるサワークリームに飲み込まれていきます。


 私はスプーンでソースを少しすくい、口につけます。


 熱い熱い濃厚ソースの味の調和、栄養がこれでもかと詰め込まれているかのような熱量に、またお腹がぐーと鳴りました。


 ペネロペの真似をして、サワークリームを混ぜて、ライスと一緒に一口。


 ああ、これは——ひょっとすると、私は似たものを食べたことがあるかもしれません。


 故郷のスメタナを入れた赤大根のスープに、かちかちに固くなったパンを懸命に削いで浸して食べる。


 年に数回のお祝いの席で、大鍋からスープをよそってみんなで食べるあの瞬間を思い出したのは、味が似ているからではなくて、あのときの幸せを呼び起こされたからでしょう。


 戦地でどうしているかも分からない父や兄、これからそこへ行くヴィンチェンツォもここにいればいいのに。一緒にご飯を食べたいのに。


 そう思うと、涙が湧いてきます。


 我慢できなくて嗚咽を漏らす私へ、ペネロペはレースハンカチをそっと渡してくれました。

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