婚約破棄ならお早目に
ひよこ1号
婚約破棄ならお早めに
花が咲き乱れる中庭で、砂糖菓子のように可愛らしく甘い少女の笑い声が聞こえる。
明るいミルクがかった茶色の髪に、大きく零れそうな瞳、やや垂れた目が愛らしさを強調していた。
右隣には王太子のレンダー、金の髪に青い瞳の王子らしい端正な美貌の青年だ。
左隣には騎士団長の息子のグラッド、黒髪に赤に近い茶色の瞳、精悍な男である。
更には大商人の子息マーティンやら、公爵家の令息のカミーユ、宰相の息子エルリックやら宮廷魔術師長の息子アンブロワーズまでいる。
なんとも凄腕の手練手管に、私は舌を巻いた。
いや、舌を巻いただけじゃないけれど。
内心は叫びだしたいくらい狂喜乱舞していた。
ありがとう!本当にありがとう!
私はオリゼー・オルブライト。
砂糖菓子の隣に居る王太子、レンダー第一王子の婚約者であり、未来の王太子妃だ。
ここまで言えば分かるだろう。
幼い頃からどれだけの努力と労力と時間を教育に費やされてきたか。
本当に、本当に、寝る間も惜しんで、家族との時間も最低限に過ごしてきた。
大好きな両親と兄達にもっと甘えたかったのに。
領地にだって帰りたかったのに。
糞が。
おっと、失礼。
私は由緒正しい公爵家の令嬢なのだから、うっかり言葉遣いが崩れないように、と心の中でも自分を戒める。
金に少しだけ夕陽色の橙を溶かしたような温かいブロンドと、翠玉のようなとろりとした緑色の瞳は、外交で訪れる賓客にはとても受けがいいのだ。
見た目だけなら、あの砂糖菓子にも負けていない。
いや、中身もだけど。
でもあの甘ったるい喋り方、すぐに被害者のように涙の出る瞳、軽く男性に手を伸ばす娼婦のような仕草には負ける。
だが、それでいい。
もう私はすごく我慢してきたもの。
そろそろ証拠だって積み上がってきたし?
もう終わりにしてもいいと思うのよ。
入学からこちとら待ち続けてきたんじゃい。
おっと、孤児院の子供達の口調が出てしまったわ。
殿下への恋心?
そんなもの初めて会って、言葉を交わして、あの光を集めたような金の髪と、青空のような瞳に目を奪われて。
婚約をホイホイ進められて王宮に上がるまでの話よ。
王子妃教育のあまりの辛さに、殿下が庭で遊んでいる姿を窓から見るだけで殺意が湧きましたけど?
あいつがいなきゃ、こんなに辛い思いをする必要なくない?
学ぶのは嫌いじゃないけど、いかんせん量が多い。
その上やたらと厳しい。
やれと言われて仕方なくやるのと、やる気でやるのは全然違う。
この顛末から分かるとおり、あのぼんくらは私よりも天才か楽してるかどっちかなのよ。
ふざけんな。
……もう猫を被るのは疲れてきたけど、まだ一匹くらいは頭に載せておきましょう。
私は一歩、中庭へと踏み出した。
私の後ろには、侍女と護衛の他に、派閥の令嬢達が付き従うように付いてくる。
第一王子派であり、王妃派とも呼ばれる派閥で、本来ならば第一王子の為に働くべき人間達なのだが。
実家や派閥と切り離して、若しくは実家ごと手中に収めている。
だって、あの体たらくを見て、王に押し上げるのが正しい?
そんな訳あるか。
長い時間をかけて、彼女達は翻意させてある。
翻意、というか、生贄にしようとしていました。はい。
家の意向と、彼女達の覚悟があるなら、是非王太子妃になって、と内密に持ちかけた。
今はもう手持ち無沙汰になっている、王子妃教育をしてくれた教育係を雇って、彼女達の家へと派遣する。
勿論その家の当主も彼女達も最初は喜んだ。
最初はね。
ついでに執務も侍女として近くに置いて、どんな事をするのかと見て学ばせた。
そんな事をしてたら、みるみるげっそりやつれていくのよ。
たまに訪れる王太子の傲慢さと、矮小さに、目が死んでいくのよ。
結果的に、一人も残らなかった。
何より、辛い教育を受けて仕える相手が、アレなのだもの。
だから、今日の催しを邪魔するような真似をする人物はいない。
殊更にゆっくりと、咲き乱れる花達を愛でながら、砂糖菓子とその取り巻きたちへと近づいていく。
周囲の人間達は、面白い見世物が始まるとばかりに足を止めた。
誰かを呼びに走る者も居る。
どうぞ、ご堪能なさってね。
「何か用か?オリゼー」
警戒するようにレンダー王太子が椅子に座ったまま、こちらを睨んでくる。
それ、婚約者に向ける目で合ってます?
まあもうすぐそうじゃなくなるので、いいですけど。
「婚約者を見かけたのでご挨拶しようと近づくのは、殿下にとって罪でございましょうか?」
小首を傾げると、ゆるく巻いた髪の一房がさらりと肩から零れ落ちた。
レンダー王太子は、小さく舌打ちして、溜息を吐く。
「いや。挨拶なら不要だ。下れ」
「もう一つ用事がございますの。そちらの……ピロウ男爵令嬢に」
名指しされるとびくり、と砂糖菓子が肩を跳ねさせた。
大袈裟な身振りに、周囲の殿方も更に警戒するようにこちらをねめつける。
隣に座っているグラッドに至っては、片腕をピロウ男爵を庇うように広げた。
襲い掛かる訳ないじゃない。
頭が沸いてるのかしら。
アリスが、ふるふると小動物のように震える。
「あ、あの、オリゼー様も私が平民だからって、差別するんですかぁ……?」
「何と傲慢な……!」
早速涙声になるアリスに、庇うように王太子がその肩を抱く。
「いえ、まだ何も言ってませんけれど?」
茶番劇に沈黙が降りる。
馬鹿なの?
何でも被害者ぶればいいって事じゃないのよね。
周囲では失笑する声も聞こえる。
それを聞いて、アリスは羞恥に頬を赤く染めて、口を引き結んだ。
一応、恥と言う概念はあるらしい。
「先走りのお涙頂戴茶番劇はお仕舞いでして?」
たっぷり時間を置いて問いかけると、王太子が椅子からガタリと音を立てて立ち上がった。
「貴様のそういう可愛げのない所が嫌いなのだ!」
極め付けには傲慢に、言ってやったとばかりに王太子は口の端を上げる。
この顔を見たら、王太子に対して恋してた令嬢達も少しは考えるでしょうね。
馬鹿は黙って座ってろ。
私は笑顔を浮かべて席を掌で指し示した。
「残念ですけれど王太子妃教育に「可愛げ」の項目はございませんのよ。どうぞ落ち着いてお座りなさいまし」
嫌いなのだ!って。
だから何?って感じなんだけど。
お前は食べられない野菜を前にした駄々っ子か。
今更笑いがこみ上げてきて、押し殺すのに手間がかかる。
「その点、可愛らしさにおいては、アリス・ピロウ男爵令嬢の足元にも及びませんわね」
その他はほぼほぼ私の方が上ですけど。
寧ろその抜けていて、浅慮なところが「可愛げ」であるなら、不要ですし。
私の微笑と、紡がれた「アリスの可愛さを認める」言葉に間抜けな声が重なる。
「えっ?」
「「えっ?」」
可愛いと褒めたのが意外だったのか、周囲の取り巻き男子とアリスはぽかん、と声だけでなく間抜けな面を晒した。
何かを考えているような静かな表情を見せたのは、アンブロワーズだけである。
私はにっこりとアリスに微笑みかけた。
本気で感謝を込めて。
ああ、本当に、ありがとう。
全て貴方のおかげよ。
「わたくしはアリス・ピロウ男爵令嬢こそが、レンダー王太子殿下の隣に相応しいと考えておりますの。どうか、わたくしの代わりにレンダー王太子の正妃の座に着いては頂けませんか?」
「えっ?えっ?」
慌てふためくように、アリスが忙しなく私とレンダー王太子を交互に見る。
レンダー王太子もレンダー王太子では?というように固まっていた。
あら?囲っているくせにそこまでの覚悟はしていなかったのかしら?
でも、それなら覚悟して頂けばいいのよね。
「レンダー王太子殿下も、勿論受け入れてくださいますわよね?こんなに愛らしいアリス・ピロウ男爵令嬢を正妃に娶れるのですもの。国王陛下と王妃殿下の説得くらい、なさって頂けますわね?」
それは、王家と公爵家の両家で結ばれた契約を切ると言う事に他ならない。
オルブライト公爵家が、王太子の後ろ盾から外れると言う事でもある。
途端にレンダー王太子の顔色が悪くなる。
馬鹿でも一応、損得の計算は出来るらしい。
「レンダー様ぁ……」
逃してはならないと思ったからか、アリスが良いタイミングでレンダーの腕にしがみつく様に見上げる。
流石ですわ、アリス様、と私は心の中で応援した。
愛する女性に、退くところを見せたくないと思ったからか、レンダー王太子は鷹揚に頷く。
だって、ここで退いたら格好がつかないものね。
中庭に集まった観衆も、注目しているもの。
「分かった。父上と母上の説得はしよう。その上でお前を側妃とすれば良いのだな?」
「は?」
思わず腹の底から低い声が漏れてしまった。
地獄からの使者かな?
自分でもそう思ったのだから、他者にはもっと酷く聞こえたかもしれない。
その迫力に、レンダー王太子が若干距離をとろうと仰け反った。
反対側のグラッドも、脅えた顔になっている。
「先程、わたくしの事を嫌いだ!と叫ばれましたけれど、わたくしもレンダー王太子殿下を嫌いでございますの。ええ、政略結婚ですら御遠慮申し上げたいほどですわ。お互い嫌いあっておりますのに、側妃とはいえ婚姻するなど、身の毛もよだちますわね?」
私の言葉を聞いて、アリスが嬉々として叫ぶように言った。
「そんなっ!酷いですオリゼー様!レンダー様の事を嫌いだなんて!」
御助力ありがとう。
名前を呼ぶ許可はしてませんけど、まあ、大目に見ましょうね。
アリス様のお陰で中庭中にその言葉が知れ渡ったのだから。
レンダー王太子はアワアワとしているが、アリスを止められないまま恥を晒す。
顔色も青くなったり赤くなったりと忙しい。
序なのでアリスに問いかける。
先程の王子の幼稚な嫌いだ発言をまだ聞いていなかった者も、耳を澄ませているだろう。
「では貴方はレンダー王太子殿下がわたくしの事を嫌いと言うのは、酷くないと仰るの?」
「そ、それは、それも、酷いですけれど……」
もにょもにょと言葉を濁すように、下を向くアリスに私は言葉で追撃をかける。
「噂どおりですのね。男性と女性に対しての態度が違うというのは。わたくしがレンダー王太子殿下に嫌いだと言われた時、貴方は笑って見ておりましたものね?だけどわたくしが嫌いという時は嬉々として責めるなんて、公平性に欠けること。これは平民がどうとか言う話ではなくってよ」
平民だから責めるんですね!と何でも結び付けるアリス令嬢の十八番を封じて見下ろす。
男性陣も思うところがあるのか、誰も突っ込まない。
おい、大丈夫か?
元から大丈夫ではなさそうだけど。
一人くらい庇って差し上げればいいのに。
その気概も技量もないのですか。
まあ、この辺でいいでしょう。
私は言質を取りつつ、中庭を去る事にしてお辞儀の態勢に入った。
「ともかく、婚約解消でご納得頂けたと存じます。わたくしは以降、王宮には参りませんので、どうぞよしなにお計らい下さいませ」
「卑怯だぞ……身分を盾にして、気を引きたいだけだろう!」
えっ?
私は思わずお辞儀の手を止めて、まじまじとレンダー王太子を見つめる。
そして首を傾げた。
「殿下はわたくしの気を引きたくて嫌いと仰いましたの?王太子という身分を利用して、婚約者として蔑ろにした挙句に、わたくしを側妃に縛り付けるおつもりですか?」
何度もわたくし、という言葉を強調する。
そこまで、わたくしを求めているの?と軽蔑した目を向ければ、レンダー王太子は慌てたように否定した。
「ち、違う!婚約は解消する!」
「それは、よろしゅうございました。わたくしも同じ気持ちですの。一刻も早く離れたいですし、二度と視界には入れたくございませんわ」
レンダー王子は私の言葉を聞くと、羞恥か怒りかで顔を真っ赤にしてこちらを睨む。
あらみっともない。
私は優雅にお辞儀をすると、中庭を後にした。
実際には、王太子妃教育ももう終盤だし、王太子妃として王妃や王太子の補佐としての公務も執務もこなしている。
だからこそ、王家が手放すかどうかは疑問なのだが、学生の間だからと王太子を野放しにしたツケではあるのだ。
勿論今日行動を起こす為に、父のオルブライト公爵とは相談済で、放蕩王太子の情報や証言も収集済。
王宮に与えられていた王太子妃専用の部屋から私物は一切引き払ってある。
まだ婚姻前で、正式には候補なのだけれど、実務をする為に与えられていた部屋だ。
あとは王都にある邸宅へと帰るだけ。
侍女と護衛騎士を同乗させて、ゆっくりと馬車は王城とは逆の方へ進む。
それだけで、私の心は解放されるのだった。
「お母様!」
「まあ、オリー!」
今か今かと玄関ホールで待ち構えていたのか、馬車から降りるとすぐに母の姿が見え、広げた両腕の中に私は飛び込んだ。
「やっとですわ、お母様。暫く傷心を理由に療養致します!」
傷心とは言ったものの、全然傷心ではなさそうな娘に母はにっこり微笑んだ。
「ええ、そうすると良いわ。わたくしも暫くお茶会はお断りして貴方と過ごします」
「まあ、嬉しい」
これだけの騒動を強行できたのは、父と母と家族のお陰だ。
王宮に行きたくないという娘を泣く泣く送り出し、何くれとなく様子を見に訪れて、手紙や贈り物も欠かさない家族だった。
離れていたからこそ、深まる絆というものも存在するのだ。
父は法務大臣として如何なく手腕を発揮し、国の中枢で権力を握っている。
長男は騎士として優秀だった為、家督を弟に譲って、同じく騎士科に進学していた辺境伯令嬢と婚姻を結んで、今や辺境伯となっていた。
次男は公爵家令息として公爵家の領地を滞りなく治めている。
婚約者は何と隣国のオーレンスの姫君だ。
留学中に見初められ、お互いに愛し合い結ばれたので、二人を題材にした恋愛小説が出るほどだった。
姫君はもう既に公爵領の邸宅に共に住んでおり、仲睦まじく暮らしているという。
結婚はもうすぐだ。
何も全てがオリゼーの為ではないが、小さい頃から嫌々婚約者の座に収まっていると知っている家族だ。
急いで地盤を固めるように、堅実に人脈を作って、公爵家の権力を不動の物にしたのは確かである。
巷の恋愛小説や他国の情勢を聞くに、卒業時に何故か婚約破棄される事が多い。
だが、そこまで待つ必要はあるだろうか?
王子に恋をしてるなら分かる。
心変わりを望んだり、氷のように薄い期待を持ち続けるのも。
とてつもなく、自分の心のど真ん中の美形なのかもしれないし、その地位にも魅力があるのかもしれない。
でも、婚約破棄してくると言う事は不実な男なので、中身はどうかしている。
将来的に苦労するのは目に見えているではないか。
そこも好き、という物好きならそれもまた理解可能だし、苦労してもいいの、という心構えならば止めない。
しかし、当てはまらないのにうだうだしている人間がいるとしたなら、洗脳されているか決断力がないかだろう。
そんな人間に決断や采配が山のように必要な執務をこなせるとは到底思えない。
大体情勢も読めずに婚約者以外と懇ろになる時点で、王族としての教育の低さが窺える。
そんな輩が国王の座に座ったら一体どうなるか。
それならば、いっそ国を捨てたほうが良い位の結果が見えるだろう。
今まで一度も苦言を呈さなかったのは、とにかく最短で王太子から離れたい一心だったからだ。
そもそもこんなに大変なら王室に入りたいなんて思わない。
キラキラして贅沢してチヤホヤされるのが王族ではない。
寧ろ、地味な事務仕事に奔走し、ギスギスした社交界や国交に精神を削られ、国庫を気にしつつ見栄えを良くしなくてはいけない綱渡りな作業を延々こなす雑用係だ。
もうやだ。
そう思っても、王室に入ってからでは遅い。
過去に戻れるなら、婚約した自分を小一時間説教するだろう。
何故、ギャン泣きしてでも拒否しなかったのだ?と。
とはいえまだ間に合う。
王妃教育はのらりくらりと躱していたからだ。
執務を滞らせがちな王太子の様な生き物を前に、王太子の補佐だけでなく、代理が出来るよう王太子教育を増やす事で難を逃れた。
王太子が頼りないのは、王妃も認めるところだからだ。
完全に代理を任せても大丈夫なように、と執務の合間に少しずつ牛の歩み、どころか蝸牛の速度で学んでいた。
王子妃教育や王太子妃教育では、わが国では国の暗部にまで触れない。
せいぜい国の中枢に関しての書類仕事止まりで、書類に至っては公式なもので誰の目に触れても問題ない体裁のものだから、国の機密だとしても貴族の秘密とは無関係だ。
つまり国から出るのは憚られるが、命の危険までは及ばないと言う所だろう。
だとしても、ここ10年近くの私への教育が無に帰するというのは王家にとって負担は大きい。
特に王妃は明日から大変な事になるだろう。
私が執務可能になってから回していた書類仕事が元に戻るどころか、王太子妃に割り当てられる執務の半分は王妃の仕事に上乗せされる。
勿論王太子もである。
私が手伝っていた王太子の執務に加え、王太子妃の執務の半分は王太子の仕事に上乗せだ。
ざまあみろ。
私は美味しい食事と甘い菓子を楽しんで、ゆっくりのんびり湯浴みをして、何も知らなかった子供の頃以来の幸せな眠りに就いた。
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