僕は立派なうつ病だったのだ

仲瀬 充

僕は立派なうつ病だったのだ

●その1

握りこぶしの指が1本1本ゆっくり開かれた。

プハーッと息を吐いた瞬間に目が覚めた。


息苦しい夢だった。

誰かの大きな握りこぶしの中で僕は小さな虫けらのようにもがいていた。


外へ出ると世の中は夏一色だ。

空はやけに青いし雲はモクモクと増殖する。


散歩に出たことを後悔した。

力がみなぎるものは僕を萎えさせる。

公園の木陰のベンチに腰かけた。


休職中の僕は家賃さえ安ければよかった。

事故物件の部屋と承知の上で家族と離れて入居し、ひと月がたった。


内見の時、マンションの管理人は入口のドアを開けるとすぐに言った。

「ドアクローザーは新品に替えました」


「ドアクローザー?」

ドアがゆっくり閉まるための装置を管理人は指さした。


不動産会社の告知によればこの部屋は自殺が続いた。

二人ともドアクローザーにネクタイを掛けて首を括ったという。



●その2

「パパ、暇でしょ? 美緒をお願いね」

休職してしばらく後のことだった。


娘が扁桃腺を切除するので午後に病院に連れて行った。

入口の自動ドアが開いた瞬間から僕の心臓の鼓動は速くなった。


「パパ、大丈夫? 顔が青いよ」

手術を受ける小学3年生の娘に心配されてしまった。


妻はパートを終えてから病院に迎えに来た。

「パパ、大丈夫? 顔色が青いわよ」

娘と同じことを言われてしまった。


「総合病院はダメだ。得体の知れない人間や菌がウヨウヨいる」

娘を連れて来たついでに僕も受診するつもりだったのだ。

「じゃ、個人病院の佐川クリニックにすれば?」


翌日、妻が勧める自宅近くの佐川心療内科を訪ねた。

「よくいらっしゃいましたね。ここに来るだけでも大変でしたでしょう」

看護師の言葉に涙がこぼれた。

僕の辛さは誰にも共感してもらえないと思っていた。


しかし優しさは癒しにはなっても解決にはならない。

僕は涙ながらに佐川医師に訴えた。

「先生、どうして職場に行けないんでしょう。近頃は妻や子供と一緒にいても気が休まらないんです」


「そりゃあなた、病気だからですよ」

あっさりとした返事に涙が止まった。


「気の持ちようとか性格の問題だとか言う人がいますがとんでもない話です。うつ病は立派な病気なんです。威張ってもいいくらいです」

看護師はプッと噴きだしたが僕が感動して頷くと佐川先生はばつの悪そうな顔をした。


先生は気を取り直したように説明を続けた。

「体の病気やけがを考えてごらんなさい。骨折している人が何で俺は歩けないんだって嘆きますか? うつ病も同じことです。そしてね、病気だということは治るということですよ」


もっと早く病院に来ればよかった。

僕は立派なうつ病だったのだ。



●その3

薬を処方してもらって2、3日するともう半分治ったような気になった。

明日は職場に行ってみようか。

しかしまだとてもそんな状況ではなかった。


晩酌にビールを飲み始めた。

妻と娘は楽しそうに語らいながら食事をしている。

それを僕はビールを飲みながら見ている。


これこそ僕がうんと若いときから求め続けていた家庭団らんではないか。

それが現にいま繰り広げられているではないか。


なのにぞわぞわと落ち着かない。

眼前の光景なのに実在感が薄れていく。


この二人は誰なんだ、なぜここにいるんだ。

不安で居ても立ってもいられなくなる。


叫び出したい衝動に駆られる、出て行け!

その言葉はしかし目の前の世界を一瞬で破壊するだろう。


僕は歯を食いしばる。

しっかりしろ、自分の妻と娘ではないか!

目から涙があふれ出し僕は声を上げて泣いた。


佐川先生の勧めもあって家を出て静養することにした。

自宅からそれほど遠くはないマンションの一室を借りた。

それがひと月ほど前のことだった。


妻は手作りの総菜を冷凍して週に1度持ってくる。

合鍵でドアを開けた後の第一声は決まっている。


「生きてる?」

妻の無頓着さが逆に救いになる。


娘は妻よりも頻繁に学校帰りに立ち寄る。

「ママはどうしてる?」


「毎日のほほんとしてる」

言い草が面白い。


「のほほんか、よくそんな言葉を知ってるな」

「だってママ、自分でよく『のほほーん』って言ってるもん」


娘や妻の来訪は嬉しいが目の前に人がいれば落ち着かず疲れる。

「もうお帰り。ママが心配するから」



●その4

薬の処方かたがたカウンセリングのため定期的に佐川クリニックに出かける。

「暑い日が続きますがどうですか、調子は?」


「はあ、まあ何とか。あの、先生、近頃は子供の頃のことを思い出すんです」

「ほう」


「夏休みの午後に父と二人で昼寝をしてて僕だけ目が覚めたことがあったんです」

「はい」


「父はまだ寝てたんですが死んでいるように見えて泣き出したことがありました」

「感受性豊かな子供さんだったんですね。心細かったんでしょう」


先生は何でも肯定的に受け止めてくれる。

それでも、泣き出したのは自分が父を殺したのではないかと思ったせいだとは打ち明けられなかった。

父との確執は僕が長じるにつれてひどくなった。


父は弁護士事務所を開いていた。

東大在学中に司法試験に合格したことが自慢の種だった。


できそこないの僕は私大の法学部に滑り込むのがやっとだった。

2年連続で司法試験に落ちた時の父の言葉は忘れられない。


「お前のぼんくら頭は母さんの遺伝だろう」

自分が責められるよりも心に刺さった。


税理士に方向転換した僕を父は完全に見放した。

僕と父との不和を気に病んだのかどうか、母は早死にした。

母の死以来10数年行き来が途絶えていた父も2年前に亡くなった。


今僕は税理士事務所に勤めている。

学生時代の友人が親の後を継いでやっている大手の事務所だ。

縁故採用だが同僚の誰よりも成果は上げているつもりだ。


妻と娘との家庭生活にも何ら問題はない。

それなのに僕はなぜうつ病なんかになったのだろう。


「先生、父親と不仲だったことが原因なんでしょうか?」

「そんなふうに考えても何も解決はしません。うつ病は脳内の分子レベルの問題ですから肝心なのは薬の服用と休養です」


「どれくらいの期間でしょう?」

「2年間と言いたいのですが経済的な事情もあるでしょうからとりあえず数か月様子を見ましょう。奥様のほうは?」


「娘の話によればのほほんと過ごしてるみたいです」

「理解のある奥様ですね、それなら安心して静養できますね」


カウンセリングで気分が前向きになった時に職場への復帰を訴えてみた。

「焦りは禁物です。焦って復帰するほど再発します。うつの人は理屈よりも感情が過多なんです。誠実で周囲にも人一倍気をつかうので無理なことでも頑張ってしまいます。世の中はその反対のずるい人が圧倒的に多いんですけどね。私はうつの人が大好きです」


佐川先生の目がうるんでいるように見えた。

この先生はいい人だ、僕も久しぶりに気持ちのいい涙を流した。



●その5

マンションでの一人暮らしも3か月が過ぎた。

午前中は調子が悪く生活のリズムは宵っ張り型だ。


ソファーに座ると正面の壁の柱時計が目に入る。

実家にあったもので母が嫁入りの時に持ってきたというゼンマイ式の年代物だ。

夜中はすることもないままその時計の振り子や針の動きを眺めるのが習慣になった。


文字盤最下段の30分を過ぎると長針は上りにかかる。

カチリカチリと1分ずつ息も絶え絶えといった感じで盤面を上って行く。


極めつけは12時ちょうどだ。

何かを祈って合掌するように長針と短針が合わさろうとする。

そして長針が頂上の12の数字に到達した途端、長針はカクンと1分ぶん針が進む。


その動きは「こと切れる」という言葉を思い起こさせる。

僕もドアクローザーにぶら下がればこんなふうに、などという思いが頭をよぎる。


12時の針の動きを見届けると僕はトイレに立つ。

するとトイレの壁がトントンとノックされる。


部屋は6階の角部屋でトイレ側の壁はマンションの外壁だ。

事故物件は承知の上だから幽霊のノックに驚く僕ではない。

この部屋で首を括ったという二人は幽霊に取りかれでもしたのだろうか。


自殺した一人目はノイローゼの単身赴任者だったという。

ひょっとしたら僕と同じうつ病だったのかもしれない。


二人目のフリーターの青年は大麻を栽培していたと新聞に載った。

僕はそんな二人を合わせたような人間だ。

うつ病だしベランダにプランターも並べている。


と言っても大麻ではなくネットで注文した煙草の苗を植えているのだが。

順調に育っているのでもうそろそろ吸えるだろう。


2週間ほど天日に当てて干した煙草の葉を1枚手に取った。

オーブントースターでじっくりとあぶりハサミで切り刻む。


数日前に古本屋で昔のコンサイス英和辞典を購入しておいた。

この辞典の薄い紙は煙草の葉を巻くのにもってこいだ。

刻んだ煙草の葉をその紙で巻いて火をつけた。


煙草の栽培は罪にはならないがタバコにして吸えば違法だ。

禁断の行為が僕の病んだ精神に張りをもたらしてくれるかもしれない。


二口三口吸って僕は自作のタバコをキッチンのコーナーに捨てた。

いがらっぽいだけでとても喫煙にたえる味ではない。



●その6

娘の美緒が冷凍の総菜を家から持ってきた。

妻は風邪で寝ているという。

「じゃ、ママは今日はのほほんじゃないんだね」


美緒は頭を振った。

「のほほんだよ」

わけが分からない。


「ママは風邪で具合が悪いんだろ? のほほんとしていられないじゃないか」

「のほほんって何?」

「嫌なことなんかなくて気楽だってことさ」


「違うよ。ママが『のほほーん』って言う時はいつも泣いてるもん」

僕は頭を殴られたように愕然とした。


少し考えれば分かることではないか。

夫がいつ職場に復帰できるか分からない病を抱えて別居もしているのだ。


精神的にも経済的にものほほんとしていられるわけがない。

最も身近な人間の思いを察することさえ僕はできていなかった。


佐川先生の言葉が自虐的に思い出された。

何が誠実だ、何が周囲に気をつかうだ。


自分勝手にジタバタして他人のことは適当にしか考えてなかったんじゃないのか?

ちっぽけなプライドを捨てきれず自分をよく見せようとしていただけじゃないのか?


東京大学に入って父の望む弁護士になろう。

父が果たせなかった良き父親、良き夫になろう。

僕を雇ってくれた友人の期待に応えられる働きをしよう。


そんなふうにその時々でいつも背伸びをしてきた。

僕だけではない。


妻も「のほほーん」と自分に言い聞かせていた。

無理にも強く明るい妻であろうとしたのだろう。


「帰ろう」、僕はひとりごちた。

もう帰ろう、僕は僕に帰ろう。


思えば道を外れてずいぶん遠くまで来てしまったのだ。

大麻を栽培した青年はとうとう元の道に戻れなかった。

煙草を栽培した中年は何とか引き返せそうだ。


僕はマンションを引き払うことにした。

管理人に退去を申し出るついでに皮肉を言ってみた。


「家賃が安いのは助かりましたがやっぱり幽霊が出ますね」

僕はトイレの壁のノックのことを話した。


すると管理人は大まじめで打ち消した。

「それはポンプの音ですよ。他の階からも苦情が出たけどそんなに大きな音じゃないでしょう?」


トイレの壁の中に配水管が通っているパイプスペースがあるという。

毎日深夜に地下のポンプ室から屋上の給水タンクに水を上げる。

その時に水圧の関係でウオーターハンマー現象とかいうのが起こってトントンと音がするとのことだった。


実態が分かって僕は拍子抜けしてしまった。

思い込みというのは時として間抜けなものだ。



●その7

マンションを引き払う前夜、人に慣れるリハビリを兼ねて外食することにした。

揚げたての天ぷらが食べられる店に入ってカウンター席に座った。

ネタが揚がるたびにカウンターごしに皿に載せてくれる。


僕の後から店に入って来た老夫婦は椅子一つ空けて僕の隣りに座った。

仲居さんがお茶を運んでくると老夫婦の奥さんは小さなメモ紙を見せた。

仲居さんは少し驚いた顔で頷くとカウンターの中に入った。


仲居さんは老夫婦の正面にいる揚げ物担当の若い男性店員に言った。

「こちら定食二つ。そしてね、お二人は耳が聞こえないからゆっくりしゃべってくれって。唇の動きで読み取るんだって」


長い菜箸さいばしでカウンターごしに店員が老夫婦の皿に最初の天ぷらを載せた。

「エ・ビ・が・揚・が・り・ま・し・た」


店員は口を大きく開けて一音一音言葉を区切った。

口につられて目も見開かれる

老夫婦はにこやかに頷いた。


次のネタが揚がった。

「シ・イ・タ・ケ・で・す」


また店員が大きく口と目を開いた。

老夫婦も頷いて箸を伸ばす。


「こ・れ・は・キ・ス・で・す」

「シ・シ・ト・ウ・で・す」


僕は好みのネタを注文して食べていたのだが早めに会計をすませた。

これ以上居ると泣いてしまいそうだった。


人の世はいいところだ。

生きるっていいものだ。


翌日の昼過ぎにマンションを出て我が家に向かった。

玄関のドアを開けて一歩入ったところで立ち止まった。


大丈夫だ、緊張はない。

妻は「生きてたの?」と言わずに目に涙を滲ませて出迎えた。


夕方に風呂に入った後、晩酌にビールを飲むことにした。

僕の帰宅に合わせてビールを冷やしてくれていたのが嬉しい。


親子3人そろっての夕食は久しぶりだ。

妻と娘の表情も明るい。


僕はコップのビールを飲み干した後、目を閉じて自分の心を点検した。

大丈夫だ、不安も焦燥感もない。


妻と娘の会話が途切れた。

目を開けると妻が涙ぐんでいる。


「どうかしたのか?」

「ううん。ただね、何でもないこんな時間がずっと続けばいいなって」


「続くに決まってるさ」

これからは僕がのほほんと生きていけばいいのだ。


「クモ!」

娘が椅子をがたつかせて叫んだ。


ダイニングテーブルの脇の壁を小さな家グモが這っている。

妻が殺虫剤のスプレー缶を持ち出した。


僕はそれを制して手のひらを上向けて壁に付けた。

家グモはポトリと僕の手に落ちた。


クモをつぶさないように手を軽く握った。

そして窓を開けて手を外に出し、握ったこぶしの指を1本1本ゆっくりと開いた。

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僕は立派なうつ病だったのだ 仲瀬 充 @imutake73

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