三ツ目鬼門ーみつめきもんー

褥木 縁

纏屋書店の裏噺 参章 【三ツ目鬼門ーみつめきもんー】

 蒸し暑い夏の夜、川岸を1人歩く男の姿がそこにはあった。


「やっぱり深夜の散歩は少し涼むにはもってこいだな。」


 タバコを吸いながらそう呟く、夏といえども深夜、丑3つ時を過ぎようかというこの時間帯には暑さに当てられむせせび鳴く蝉も静かに時を過ごす穏やかな夜だった。


 半袖短パンで歩く姿はどこにでもいる中年のそれと言った感じだろう。

 川から目を離し前を見ると目の前から1人の人物が歩いてくる。


「この深夜に、俺以外に散歩するもの好きもいるんだなぁ…、まぁ俺も人のことは言えないか。」


 少しづつ距離が近くなる、それと雲にかげりが差していた月明かりが顔を出しその人物を照らし出す。

 銀が混ざり合った狼を想像させる頸まで伸びた髪、そこから顔を覗かせる棒銀のピアス、右手には長く光沢のある煙管が挟まれている。細身に羽織った黒のカーディガンには、綺麗な黒鳳蝶が舞うように彫り描かれていた。


 そしてその顔がはっきり見えてくる。


 目鼻立ちが恐ろしく整った女性にも、男性にも見える妖艶な美人が月夜に映る。特に惹かれたのは長いまつ毛をのせたその二重瞼の大きな眼。

 日本人はおろか、欧米人でもごく稀な白銀に輝く金剛石にも似た綺麗な瞳だった。


 それがツキアカリを纏った様にキラキラと光を弾くゆっくり近づいてくるが、真夜中で薄暗いせいか残像がゆらりゆらりと、地に足ついていない様にさも幻でも見ているのかと錯覚するほど不思議な写りをした歩き方だった。


 その人とすれ違おうとする所まで近づいた時、甘く鼻を擽くすぐる紫煙が漂ってきた。軽く抱擁された様な不思議な感覚がし、ふと振り返る。


 するとその人と肩がぶつかってしまった。


「あっ!すみまっ……」


 身体の胸あたりからお腹、両腕も一緒に力が抜けていく、腰は砕けた様に下に落ちていき、足は支えが効かなくなって地面に眠る様に倒れた。


 まだ働いている頭と意識でなんとか呼吸をしようとする。すると喉と肺はいつも通り、いやいつも以上にちゃんと勤めていた。呼吸の全てが深呼吸の様になって力は抜けているが心地のいい安心感が襲う。


 霞む目を凝らしても靄もやがかかった様に周りはぼやけている。するとその御仁がこちらを向き、声をかける。


「おや、すまないね。中の怪群に当てられたみたいだね。今はそのまま沈む意識の向かう通りに落ちるといい。あとは任せておくれ。」

 その言葉を耳にした後、ゆっくり意識が黒に堕ちた。




 ◯




 次に目を開けたのはとある古民家の一室。9畳程の畳部屋の隅、男の身体は横になっていた。部屋の中は薄暗く、部屋の各隅に蝋燭が灯を放っている。中奥に一本立っている蝋燭の灯が中央にいる人物を照らし出す。そう、さっきすれ違った恐ろしい程に整った目鼻立ちの美人だ…。


 卓上で巻物らしい紙に紺のインクを染み込ませた、これまた小洒落た月の模様が1つ彫られたガラスペンで書き物をしている様だった。サッと、起き上がり声をかける。


「す、すみません急に倒れてしまったみたいで…」


 それを聞いた店主はふと顔をあげ、こちらを向く。


「おや、起きたのかい?先程はすまなかったね、まだゆっくりするといい、まだ剥離したモノが君に戻りきってはいないから」


 そういうとその人は和やかに笑った。その笑顔は見るととても安心できる様な柔らかい笑顔だったが、雰囲気は安心とは程遠い不気味なものだった。


「い、いえ、もう動けるので…」


 そう言って立ちあがる。この家は少しばかり不思議、いや不気味だ…。夜も遅いだろう早く帰りたい。そう思い、早々と脚を動かし畳部屋を後にする。


 続く廊下の両端には巻物の置き詰められた棚が高々と真ん中を歩く者を狭窄きょうさくする様に存在感を放っていた。棚の雰囲気、現代では眼にすることも少ない巻物の群れに何処か惹かれ脚の動きを緩め見渡す。


 すると奥から持ち主、いやここの店主であろう。あの美人の声が耳をくすぐる。


「おや、脚がお遊びの様だ。いいよ、好きなだけ見ていくといい…君は呼ばれるかな…。」


 と、嬉しそうに咽喉を鳴らして笑っていた。その笑みの奥に期待を見た気がした。


 ゆっくり右上から巻物を見ていくと、上。赤に茶を混ぜ込んだような赤銅色せきどういろに光って見える巻物が1つ…。それがとても気になってふと手に取る。それを見ていた店主が関心を向ける様に一言。


「ほう、君はそれを取るのか…いいね、中々のより抜きをするものだ…。いいよゆっくり読んでいくといい」


 その飛んできた言葉を受け取ると同時に巻物が私の体を使い自分を開けていると錯覚するかの如く自然とその文字の世界に引きり込まれていった。




 ◯


 春も終わる頃…別名、星華と呼ばれる喩えてたとえて言えば、金銀砂子きんぎんさじの妖麗な夜絵やえの中の星群ぐんせいにも似た小さい花達が、近場から飛び散ってきた火の粉にかかりその身を燃やす、つぐもりの闇夜。


 少しずつ燃え広がる華が囲むのはかつて江戸の三箇寺が1つ泉岳寺。所々に火花が舞い遊ぶ。その寺のはるか上空には円を作り、取り囲むように間を開け青と黄色が混ざり合った不気味な怪火あやしび煌々こうこうと灯りを放ち、下を嘲笑あざわらうかのように燃えていた…。


 その怪しいの劫火に影を落とす2つの身姿が向かい合っている…。片や細身で狼を思わせる毛先に銀が混ざった黒髪、黒鳳蝶が舞うようなカーディガンを羽織り、たたずむ、妖艶な雰囲気を纏う美人…。


 相対する人物はハイライトの様に白髪が混じるかき上げた髪、細く骨に皮が乗っているだけのような白い腕。初老にしては背筋が伸びた天邪鬼を思わせるような容姿のお洒落巧者しゃれこうじゃが向き合っていた。


 先に口を走らせたのは店主の方だった。


「不知火か、君好みの怪異だね。よく見つけここまで扱えたものだ」


 その言葉には笑いが混ざる。その男が口を開く。


「そうですね先生。だが、好き好みはあれど、扱い似合うのはそれこそ貴方だとお思いなのですがね」

 男は淡々と返す。店主が喉を鳴らしながら嬉しそうに笑ったあとらす。


「かつての話だよ。にしても【知らぬ写り火、3つ目に消えて】とはよく言い作ったものだね……訝禍山いぶかざん。」


 するとその2人を包み隠すように空を覆う極夜きょくやの様な黒橡くろつるばみから星混じりの闇夜が、降り注ぎ燃え叫ぶ泉岳寺ごと覆い隠した………。


 ◯

 ある夏の夕刻、黄昏時に一軒の古民家の硝子戸が音を立てて口を開ける。その戸を開いたのは老舗の骨董品店の老亭主だった。


「よぉ、"纏言者てんげんもの"よ。ちょっと小耳に挟んだ噂があるんだ。」


 其れを聞き巻物に囲まれたこの古書店、"纏屋書店まといやしょてん"の主人が月の模様が彫られた硝子ペンを書斎に置き、入り口に立っている老店主の方にくびを向けた。そして白々しく言葉を酌み交わす。


「おや、久しい御客人だ。物語達を読んでくれる気になったのかい?"老弁天ろうべんてん"」


「その名で呼ぶのはお前様ぐらいだろうよ。」


 "それはお互い様だろう"と店主が嗤う。骨董品店の老店主が両棚の巻物に一瞥いちべつしながら硝子戸を閉めようとすると声がかかる。


「いや、開けたままでいいよ。この時間帯の空の顔と光の遊び方は好きなんだ。」


「また粋な物言いだな、その物言いは、よすがにしているその身姿みすがた人品じんぴんか?」


 静かに俯きほくそ笑む。

 呆れたように老店主が続ける。


「それにお前様の語り文かたりぶみ達に呼ばれた事なんてないよ。んだのはお前様だろう。じゃなきゃここの戸にも触れることすらも叶わなかったろうよ」


 ありったけの皮肉を詰めたような物言いだ。


「ここ最近、泉岳寺辺りを中心に流行病のように広がっている言霊があるのは聞きているだろう?」

「あぁ、泉岳寺…車町の方だね、また懐かしい出所だ…。」


「その街の名で呼ぶ者はもういねぇよ、覚えてる者がいるのかも計り知りえねぇ。今は"港区"。金と人と思惑が跋扈ばっこする地域だ。」

「あそこら辺は昔からそうだろう?あまつささえ"大火"の舞台となった所だしね…。」


 そのまま古書店の主人が"噂"について触れる。


「その言の葉なら耳に残っているよ。【知らぬ写り火、3つ目に消えて】だね…。それがどうかしたのかい?」

「昔、纏言衆てんげんしゅう末座すえざに紛れてた少年がいただろう?お前様がよく気に入っていた…。」


「あぁ、いたね。"訝禍山"の事だろう。私の可愛らしい子。」

「可愛いと思えるのはお前様ぐらいだよ、纏言者。わしは初めて顔を合わせた時からと言うもの畏怖しか抱いた事はないと言うのに…。」


 歳が刻まれた溝の多い顔が不快に歪む。


 最近車町、今で言う東京の港区周辺で発火元不明の火事が多発し、小さな騒ぎになっていた。ただ火事ならここまで噂として流れ移る事もないだろう。


 噂の元凶は青火とその火事で燃やされた人の死体の異常さだった…。俗に言う野次馬たちの視線が、火を踊らせながら朽ちていく建物の上空でいくつかの青い怪火がその目に写り、額に目のような模様があり、尾に黄色い火のついた白毛の犬が走り消えるのを見たのだと言う…。


 後日上がった亡骸からは逃げ惑った痕、恐れ、恐怖がまるで無く普段の生活のまま焼かれ死んでいった様な不思議、いや不可解な惨状だったという。れが怪火事件に色を憑けていた。


 その中で老亭主が、一際大きく取り上げられた2つの回禄かいろく

 三田警察署と東禅寺とうぜんじ、その2つの火事場だった。

 老亭主が腕を組み直し、その惨状をつらつらと語り写していく。


「警察署の方は倒壊こそなかったものの中は全焼、働いていた約70名は焼けただれて、亡くなっていたそうだ。1人は卓に向かい機器と面を突き合わせながら、1人は窓から空を見上げて黄昏ながら、皮膚を溶かされ臓物が焼き落ち、遺体はほとんど眼球裏から焼けて黒くなってたようでな。まるで九相図の【青瘀相しょうおそう】を体現したかの様な惨状だったらしい。」


 そして、"老弁天"と呼ばれた老主が続く。

「んで、もう一箇所…東禅寺だ。」

 それを聞く古書店の主人の片方の眉尻が上がる。


 "いつだね"それを聞いた老主は"そうだ"と返し続ける。


「あそこの寺は浄土宗だ…【南無阿弥陀】…。あれを口語りながら本尊ほんぞんの釈迦如来像を円で囲む様に座禅を組んでる状態で焼け墨になっていたらしい。あの炎に灼かれたんだ…。浄土宗の果て、【天国あまつくに】には行けないだろうよ、可哀想に…。」


 そう話す顔からは何処か物悲しい雫が数滴つたった様に見えた。

 あ、それとなと付け加える様に続く。


「やはり東禅寺からも3つ目の尾に火を付けた白毛の犬が走り去ったらしい…。」


 この2つの回禄には、不吉な繋がりがあった…。2人の表情を笑顔と不快に歪ませたのはその燃えた二箇所の佇んでいる場所にあった。

 骨董店の老亭主が懐から小さな地図を取り出し広げる、大帝都東京の地図だ。そして指を這わせて口を開ける。


「気づいているだろう。泉岳寺を中心にえ置き、陰陽風水の黄泉八門よみはちもんべると鬼門と裏鬼門に当たる方角だ。」


 そしてその二箇所の回禄から走り去った3つ目の犬、その二匹の走り向かう先は同じだった。泉岳寺だ。

 上空で見られた怪火と3つ目の白犬…。店主が被せるように言葉を紡ぐ。


「十中八九"不知火"だろう。」


 骨董店の老主の方眉がピクリと痙攣する。


「不知火。聞いたことはあるがただの"鬼火"の類じゃねぇのかい?」


 咽喉を鳴らしながら店主は首を振る。


「まぁ、色々と気心惹かれる事が多いね。ここまで広がったんだ。そろそろ覗きに行っても良い頃合いだろうさ。」


 そういうと老弁天と呼ばれる老主の呆れ声も聞かぬうちに、黒鳳蝶に纏われ纏屋の女店主の姿はもうそこには無かった。老主が人も居なくなった畳座たたみざに向けて大きな言葉で静寂を切る。


「あの少年が今回の首魁しゅもうらしい。その文言も…そして其れに言霊を乗せたのもな!」


「それなら尚更私にとっては佳話かわになるだろうさ…。」


 そう姿無くそれを言い放つとまるで部屋どころか家自体が笑ってる様に全体から咽喉を打つ様な笑いが老主を包み込んで消えた。



 ◯




 "春眠暁を覚えず"と有名な言葉通りに寝静まった夜明けのこの街に1人の男が影を落とす。人も、金も時間さえも今は眠ったままだ。歩きながらその男は周囲の建物と空の境を見渡して1人でに口を開く。


「久方ぶりに足を運んだのはいいものの。雰囲気、外観はだいぶ変われど、やはりここに寄り憑き住まう人間の本質はわからないみたいですね…。」

 そう呟く男。その態度は酷く落ち着きを纏い、飄々とした薄い顔色とは打って変わって何処か釈然としない落とし所のない笑顔を浮かべ口角が上がる。どこか楽しそうだ。


 摩天楼のようにそびえ立つビル群のガラスが、目覚めの悪そうな太陽の薄暗い明かりを反射して、所々さながら星のように弱い光を放っていた。その男は立派なビル群や、高級住宅街には目もくれず足を動かす。


 しばらく歩き、都心の中に荘厳そうごんな雰囲気を纏いながらも周りをも包み込んで、馴染み佇んでいる寺院の前で足を止める。そう日本三ヶ寺が1つ、泉岳寺が目の前に万丈な趣で居座っていた。

 相対して男が柔らかい物腰の触りのいい声高な喉でまるで寺に意志があるかのような語りで言葉を紡ぐ。


「貴方も永らく眠っていた様ですね。そろそろかつての回禄の災禍中になった町を、人を、もう一度炎獄の中へ。」


 そういうと、語るお洒落巧者の後ろ。右下から頭を辿たどり円を描くように青火が数個発火する。その姿は宛ら"古籠火ころうか"を思わせる身姿に変わっていた。その青火が泉岳寺に向かって周りの透き間を巻き取らんばかりの勢いで飛び迫る。


 ジュッ…水に埋まる赭玉せきぎょくのような捻り消された鈍い音が響く。まだ薄暗い暁光ぎょうこうの中、放たれ走る青火は朝に混じる薄暗い夜を纏めたような闇に喰われて消えた。


「不知火が、"消された"…。」


 すると同時にその男のすぐ後ろから甘く、紫煙混じりの声がする…。

「君が不知火と口にしてしまったら名堕ちじゃないかな?」

 その声が続ける。


「やぁ、訝禍山…久方ぶりだね。見た目は随分変わった様子だが纏う雰囲気は昔と変わらない。安心したよ可愛い子。」


 その"訝禍山"と呼ばれる男は、驚くこともなく飄然ひょうぜんとした口調と態度で言葉を返す。


「先生は変わらないようですね…。いずれ伝わると思ってはいましたがまさか顔まで出してくださるとは。」一言。言葉を交じ合わせた瞬刻しゅんこく。男の周りに円を描くように青火が並び燃える。


 その炎に炙られ妖艶な声が漏れ出ている朝闇が霧散する…。弾き別れた黒が距離を取り、男の真正面でさらに 大きく、人1人を軽く呑み込まんばかりの黒が漂い集まってくる。その黒霧が集まり数十匹の黒鳳蝶へと形を変える。


 その蝶が飛び交う中、纏屋書店の白銀の店主が姿を覗かせたその身姿を見るなりいぶかしい男が驚いた表情で言葉を口にする。


「まさか、まだそのカーディガンを羽織って頂いているとは意外ですが嬉しい限りですね。」


 纏屋の店主が纏う黒鳳蝶のカーディガン。常人が着ると狂気に堕ち、頭の中を有刺鉄線でなぞられるような苦痛と怨嗟に耐えかねて自我が崩壊する。と噂が廻る曰くの付き過ぎている呪物と呼ばれる物の一種だった。


「君が嘗て悪意を纏わせ作ったカーディガン、私の元へ来るまでに廻った3人は無惨な愚肉となって誰にも知られずに朽ちていったよ。」


 店主は嫌に笑う。その笑みを見ながら訝禍山が残念そうに聞く。


「その悪意と一緒に先生もそろそろかくに移っても良い頃では?」


「煙たがられている身だからね。それになんせ君の悪意は実に心地のいいものだからね。」

 "それに"と口が続く。

「私を"視たがる者"もいないわけでは無いからね。その時このカーディガンがあると何かと便利なんだ。」

 "にしても流石だね"と言葉が続く。


「不知火の起源は、"知らぬ火"。元々は出所がわからない不気味な怪塵火かいじんびの事だ。不知火に燃やされて恐怖に包まれないの者はいないんだよ…。不知火の燃え種はあらゆる炎、火、焔に向けられる、根幹に触れる程の"恐怖"だからね。」


 だけれど燃やされた人々の中からは恐怖が全く持ってすくい取れなかったね。と店主。そう言うと先刻黒いもやに包まれ消えた青白い焔が、店主と訝しい男の間から顔を覗かせる。


 すると黒鳳蝶のカーディガンを纏う店主を"先生"と呼んだ初老の男は眉尻を上げ、"どうぞ"と言わんばかりに眠る泉岳寺の方を指差す。それを見た店主が一言。


「これは君の物語だ、私にも魅せておくれ。可愛い子よ。」


 と嬉しそうに問いかける。その男は、白髪混じりの長い髪を全てかきあげ頭頂部後ろで縛り、後ろ髪は波打って首元で跳ねている。青白いその顔は整っているようで、骨張っている容姿は何処か数多の書籍や絵画に描かれている人心を見透かす鬼を想像させる。


 少し冷える季節の後夜ごやと呼ばれる時刻、肌寒いのか白い襟付きの襯衣しんいに黒のネクタイとスーツ。宛ら今から起こる惨劇を見守る為の喪服というような風貌だった。そのお洒落巧者が青火から泉岳寺の鈴緒すずおに目を映す。


 すると間にあった青火が地を舐める様に這い、鈴緒に燃え移り上部の本坪鈴ほんつぼすずを焼け落とす。ゆっくりと赤と黄色の滑め舌の様な炎に包まれていく泉岳寺からの火明りが店主と男の横顔を照らす。炎を横目に店主、詠狡疑が話す。


「逃げずに命を焼かれた人々…。」


 その要因は別にあった"3つ目"いや、大衆名は"ぬりかべ"其れの概念化だ。ぬりかべの元の起こりは【塗り替え】。妖魔、妖怪として、伝わる口伝通り具像が其処に居るなら害を及ぼす怪異じゃ無い。

 ただ、起源の"塗り替え"を概念化したならどうだろう。これほど厄介なものは無い。


「君が使ったように、人間の認知や常識、潜在意識の【塗り替え】それをするだけで、今にも町を飲み込まんとする怪炎の大舌を眼前に置かれても助けも呼ばず命を火に焚べる…。」


 すると泉岳寺で不知火が燃え舞い遊ぶ。火が本坪鈴を落とすのを見たのも束の間、地を這う火が四方の隅角すみづのまで鬼火を走らせ鬼瓦を焼き、鳥麩とりふすまを辿って最上から見下ろしていた3つの紋章を中心に焼き崩した。


 宛ら四大精霊が1つ、沙羅曼蛇を彷彿させるようなまるで意思があるような不可思議な炎だった。


 空気と擦こすれる火の音や、焼き倒れていく仏閣の建造朴けんぞうぼくが乾き裂ける音も混ざり、まるで泉岳寺が悲鳴をあげているようにも聞こえるようだった。


 火に包まれる泉岳寺を背に二人の影が向き合っている。纏屋書店の店主、詠狡疑が煙管を咥える。すると泉岳寺の方を指差し、人差し指を右方向にくるりと回す。


 すると不知火が店主の方に蜃気楼のように揺れながら迫り、煙管の火鉢に降り立った。ジリジリと赤い口を開き熱を纏い紫煙を作る。ゆっくりと1回、煙を燻らし紫煙を吐き一言。


「いい焔だね…。」


 その瞬刻、泉岳寺の屋根の中央で空を見上げていた3つの紋章が一斉に3方向へ火を纏いながら弾け飛び、周囲の建物に移り火が降り注ぐとほぼ同時。南西から厭魅えんみ混じりの嫌な風が吹き荒れる。


 すると煙管から下町訛りの様な口調が飛ぶ。


「よぉ旦那。この風。南西、裏鬼門の方角から来る奇怪な風。この感じは…"攫い風"にも似たような…嫌な風だ。」


 薄い翡翠ひすい色を放つ煙管の羅宇らうを見つめ、詠狡疑が返す。


「おや風来坊、私には心地の良い風に感じるがね。苦手なら流離さすらっても良いものだけれど、君も物好きだ。」


 其れを聴くと羅宇から色が消える…。そのかえでを掴むように取り込み、飛び火した民家、店屋、公園を中心に全てを飲み込まん勢いで燃え広がって行く。建物の窓が割れ、家が崩れ、人を焼く。だが人の悲鳴や逃げ惑う姿がまるで無い。


 家路を急ぎを歩く人は火に燃える建物を見ても表情1つ変えずに、燃えている街へ足を動かし消えていった。


 窓が割れ、部屋中が火に囲まれている中、布団の上でゆっくり目を瞑り焼かれていく少女。


 夜泣きの赤子をあやしながら、二人して燃える母子。


 人々を燃やしながら、その悪火わるびは日本橋の方まで即座に走っていく。誰一人からも恐怖、怖気の類が全く感じられない。街人の姿は、畏れを煽り、迫る魍魎すだまの類いより異様で不気味だった…。


 それを見た二人……。


 不気味に北叟笑ほくそえむ、異端が1人。方や満足気にうっとりと惚れる男が1人。笑いながら、その燃え盛る情景に見惚れていた。


 この情景が、詠狡疑が足を運んだ理由、そして不知火を当てた訝禍山の目論もくろみ。


 そう、大江戸三大火災が1つ"庚虎かのえとらの大火"の再現である。すると纏屋書店の店主が声を掛ける。


「良いものを見せてもらったよ少年、君がここまで出来るようになるとは、私の誇りだよ…。」

 嬉しそうに語る詠狡疑へ"少年"と呼ばれたお洒落巧者は言葉を返す。


「先生にそう言ってもらえるのは心踊りますね。」


 それを聞くと店主は"お互い心もとうに喰ったと言うのに"と鼻で空気を叩き、妖艶に目線が下がる。すると人が築き上げた叡智の結晶たるこの街を嘲笑うように全てを白紙に戻す。


 燃えた灰燼かいじんからでる人の血肉を焼き、煮える血潮混じり黒煙が2人の鼻をくすぐる。その臭いを吸い込むと詠狡疑が背を向け、火柱と化した泉岳寺を後にする。


 訝禍山はまだ泉岳寺に身を向け、見惚れていた。そして禍々しい血煙ちけむりを2人して深々と吸い込み。


 詠狡疑は不気味に天を見上げ。

 訝禍山は地を舐めるように、顎を引き、上目で泉岳寺から港区を眺め。

 2つの異形は同時に言葉を紡ぐ。







「これは良い……。文明焼尽ぶんめいしょうじんのいい匂いだ…。」




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次章

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