生きる彼女は死すべきか。

雨狐

或る生命体

上を見上げる。

暗い。

ただ暗い。


ここは海底。

私が唯一生きる場所。



この海底に来てから、何年経ったのだろう。

時計を見ることはおろか、太陽と月の入れ替わりを見ることさえできない私は、まるで人間が息をするように、小さく口を開けた。



毎日思い出すのは、あの日の出来事。

物心ついた時からずっと居た場所を捨てる決意をしたのは、私を囲う硬くて厚い壁が割れた時だった。


体がずるりと地面に落ちる。周辺に散った欠片に触れる度手が濡れて痛かったが、それ以上に一変したこの状況の方が不思議だった。

周囲を初めてまともに観察する。目の前には、開け放たれた部屋の扉。このまま進めば、私は自由になれる。直感的にそう思い、足を動かそうとした。

しかし、私はここで初めて、自分の体が想像とは違う形をしていることに気付いた。

足があるはずの部分には、いつか本で見た巨大な魚のようなヒレ。形はそれとは違い歪だったが、同じ役割のためにあるものであることは分かっていた。

私は体を起こし、自分の体を目と手で確認した。顔や手、胸、腹————上半身は人間だった。改めて足を見る。固い鱗がびっしりと並んでいる。人間のように二つに割れていない。手が届かないほどに長く、まるで腹の下から順番に信号が伝わるように、うねうねと動いた。形は、やはり歪な魚のヒレ。

私は、人魚だった。

自分の体が想像と違うことに驚かなかったわけではない。衝撃はあった。

しかし、それは悩むほど大きな問題でもなかった。

今、私は息をしている。腕が動く。あの壁から出ることができた。

生きられるのだ。

考えるべきことはそれだけだった。

腕を動かし、必死に体を引き摺って進んだ。

扉を出た先に見えたのは、左右に伸びる長い廊下。出口の位置は見当もつかない。

とにかく、見つかることだけは避けなければ。

私は静かだと感じた方向へ手を伸ばした。


廊下を進む途中、何度か人影を見ることはあった。しかし近くの壁や物のそばで息を潜めていれば見つかることはなかった。何度か隠れると、今度こそ見つかるのではないかと不安になったが、悉く見つからないため、むしろ本当に見つからないつもりになっていた。

自分が最初に居た場所からどんな道を進んできたかは分からないが、進み続けるうちに大きな部屋へたどり着くことができた。

その部屋には大きくて長い箱がいくつも置いてあり、中に何かが浮かんでいるのが見えた。中に入っている水が濁っているせいで、中で浮かんでいるものが何なのかは分からなかった。しかし中にいるのが私のような人魚や、人魚ではなくとも生きている何かならと思った。知る限り、私のような人魚は存在しない生き物だ。しかし現に私がいる以上、ここで生きている人もいるのかもしれない。

私は箱を手で叩いてみた。中から反応は返ってこない。

隣の箱へ移って、また叩いてみる。

「ねえ。聞こえないの?返事してよ。いないの?」

そこら中から鳴るピーピーという高い音が思考を妨げる。耳を塞ぎたくなる音だったが、それでも私は必死に箱を叩いて回った。

順番に叩くうちに、部屋の奥まで来ていた。既に疲労で意識がなくなりそうだった。最後の箱を叩こうと振り上げた手はべたりと力なく箱にくっつき、やがてずるずると地面に落ちていく。

限界だ。これ以上は、動けない。

その時、部屋の中が騒がしくなった。力なく振り返ると、扉の前に見慣れた白い悪魔が何人も立っていた。

「見つけたぞ!No.100だ!」

「早く捕まえろ!」

響いた怒号に、体が竦んだ。逃げる余力はない。しかし頭は、心は逃げたいと必死に叫んでいるようだった。

必死に体を動かそうとするが、悪魔たちは私が一歩動くよりも早く目の前まで来た。

「……捕まっ…………た……………………」

項垂れる私。近づいてくる悪魔たち。前髪の隙間から、悪魔の手が伸びてくるのが見えた。

その瞬間だった。

目の前に何かが倒れてきて、私と悪魔たちを分断した。

ゴトンと落ちたその中に、小さな穴が見えた。いや、それは口だった。だんだんと影がはっきりと見えてくる。何かの生き物だ。

その子は箱を内側から叩いて、必死に何かを言っている。

「…て……に…………にげ………………はや……」

逃げて!

その言葉を理解した瞬間、私は弾かれるように腕を動かした。体に活力が戻るような感覚。箱の向こうでは、悪魔たちが狼狽えている。

私は箱の中の子のことも忘れて、必死に部屋の奥へと逃げだした。

部屋の奥の窓が開いている。窓の前には何かが積んであった。

逃げられる。

私は必死に積んであるものにしがみつき、窓枠へ手をかけた。後ろから悪魔の声が聞こえる。

窓の外には、ただ広く青い光景が広がっている。

身を投げるように、私はそこを目指して落ちて行った。





『死ぬ前に、改めて日誌を書いている。

僕は明日、死刑になる。理由はいまだに納得していない。僕は正しいことをしたはずだ。自分が間違っていたとは到底思わない。


一年ほど前、憧れの研究所でずっと雑用をしていた僕に、初めてのプロジェクト参加の声がかかった。一も二もなく食いついたけど、今思えばそれも浅はかな行動だったと思う。

【生命体生還プロジェクト】

それが、僕の参加した研究計画の名前だ。

生命体を改良して、どんな環境下でも確実に生きられる。もとい死なない生命体を作り出すことを目的とした研究。第一回目の会議では、話半分に聞きながら、人類の発展に役立つ研究だと思い、胸を躍らせていた。

しかし、実際はそんな明るい研究ではなかった。闇市か、路上か、どこかは分からないがどこかで誘拐してきた身寄りのない子どもの体を無茶な移植と薬で弄り、生命力を底上げする実験だった。

実験の恐ろしさと、それを当たり前のように行うリーダーに何も言い出せなかった僕に言い渡された仕事は、失敗作の管理だった。僕には失敗作と呼ばれる子どもを収容する部屋——皆の言う、[失敗作倉庫]が与えられた。僕はそこで、失敗作となって追いやられた子どもたちを見ながら、研究に参加していた。

No.5の子はかわいそうだった。12歳くらいの少女だ。人間として生きていた頃の記憶を消されることもなく服を脱がされ、泣いて体を隠そうとするうちに、移植されたエラを自らの手で塞いでしまった。僕は必死に手を退けるよう訴えたが、自分の体を理解できていなかった彼女は手を退けられず、呼吸困難で呆気なく亡くなった。

知能があっては実験の妨げになるとして、それからは幼い子どもが用意されるようになった。No.22の子も、5歳にも満たない男児だった。彼は体を改造される度に記憶を改ざんされ、そのショックで知能もなくなった。思い出すことも、覚えることもできない。自分の状況さえ分からず、パニックになって体を延命ポットにぶつけ続けるうちに、頭を強く打って気を失い、そのまま亡くなった。

No.46。17歳の少女。暴れないように体を拘束され、移植を繰り返された。投薬でおとなしくなっていたが、職員が一度薬を投与する時間に遅刻したその隙を見計らって、体を縛っていたロープを首に巻き付け死んでいた。

No.63。10歳の少年。四肢を切り落とされ、改造されていく。自ら口に繋がれた酸素チューブを噛み切って壊し、溺れ死んだ。

多くの子どもが死んだ。当たり前のように命が亡くなっていった。

生き残った子どもは、僕の管理する部屋で延命ポットに詰められたまま、こちらを虚ろな目で見つめていた。僕はその視線に謝り続けるしかなかった。彼らを思うと遣る瀬無くて、しかしそう思うことさえ罪に思えた。僕も彼らを殺した人間の一人なのだから。

ある日、No.84の子が成功の兆しを見せた。実験の過程で知能は幼児レベルに落ちたが、おとなしく息をしている。移植した部位も正常に機能していた。しかし理性はほとんどなく、リーダーから失敗の烙印を押され僕の部屋へ運ばれてきた。小さな手と口で訴えられる。僕はこの時初めて、実験体となった子どもの主張を聞いた。

「どう、して……殺して……くれない、の?」

その言葉は、今でも夢に出てくる。

あの子は殺されたかったんだ。こんな地獄の苦しみの中で息をするくらいなら殺してくれと、僕に懇願するほどに苦しめられているのだ。

部屋を飛び出し、命を軽んじる実験を続行するべきではないとリーダーに訴えた。

リーダーはただ僕の主張が間違っているとだけ言い、僕は次の日にプロジェクトメンバーから外されていた。


以前と同じ雑用係になっても、プロジェクトの進捗の噂は耳にしていた。参加していただけあって、実験の内容や計画を聞けば求めている結果は理解できる。

最後に聞いたのは、No.100が成功したという話。意識は朦朧としているようだが、脳波は安定していて、生命活動も問題なくできているらしい。このままNo.100が人間として必要な知能を保有していることが証明されれば、この研究は成功に辿りついたと評される。

僕は、ようやくこの悪魔の実験が終わるかもしれないと、僅かな期待に胸を躍らせた。


No.100の覚醒を待つ日々が続く中、事故は起きた。

僕が管理していた部屋の装置が誤作動を起こし、突然停止した。その影響で、大元となっていたメインサーバー付近で爆発が起き火事になった。僕がプロジェクトから外されて以来、まともに管理されていなかったのだろう。

けたたましい放送が研究所内に響き渡った。周りの職員が出口を求めて駆け出す中、僕は気付けば彼らとは逆方向に走っていた。あの[失敗作倉庫]の窓を開けることにしたのだ。部屋の中では、稼働停止となった延命ポットの警告音が鳴り響いている。生きている個体は既にいなかったのかもしれない。それでも僕は縋るようにあらゆる場所に出口を作り続けた。生き残った誰かが出ていくことを望んで。



僕は、処刑される。

研究所の異生物は、僕が作った出口から海へと落ちて行った。出口を作ったことを、僕は自供した。だからこうして、今檻の中でこれを書いている。

自供してからは早かった。すぐに監獄へと入れられ、自分の処罰が決まるまで待ち続ける生活を強いられた。

ニュースは逃げ出した異生物の話ばかり取り上げていた。あの子は毒物を撒き散らしながら海を漂い、環境を破壊し続けているらしい。結果的には、この研究も僕の行いも、人類を発展させるどころか滅亡させる原因の一つとなったのだ。

僕は知っている。あの研究で、あの子の体内には血液に交じって毒が流れるようになったことを。実験の内容を告発すれば、毒物によって環境が破壊されている件はプロジェクトのせいになるだろう。しかし、今更告発しても、僕が異生物を逃がす原因となったことは変わらない。

僕は確かにあの子を逃がしてしまった。逃がしただけに、環境は破壊されている。

それでも僕は後悔していない。No.84の子が、No.100を生かそうと抵抗した姿を、この目で見ているから。そしてNo.100の彼女が、今その意思を継いで生きているから。

僕は間違っていないはずだ。少なくとも人間としては。

こんな命を浪費し踏み台にする実験が、人類の発展になどなるものか。

使い捨てた命で得る万能の命に、何の価値があるというのだ。

これからの未来でこの実験が役に立つくらいなら、人類など滅んでしまえばいい。

これは、人類が傲慢で神を怒らせた結果下った罰なのだ。

僕らは神ではない。人間だ。ただ生きただ死ぬだけの、不完全な人間だ。

不完全な人間であることが、僕が生きてきた意味だ。』






この海に落ちてから、私は自分に近づいた魚がのたうち回って死んでいくのを見た。私は、この海の中で死そのものだ。

自分の欲のままに逃げただ命を殺すだけの何かになった私は、果たして生きるべきだったのだろうか。

あのポットの中で抵抗して、私に逃げてと言ってくれたあの子は、今生きているのだろうか。

あの時、なぜ私は脱出できたのだろうか。

窓はなぜ開いていた?

なぜあの子は助けてくれた?

あの悪魔たちはどうして私を捕まえようとしていた?

あの場所は?

どうしてあそこにいた?

この体は?

この命は?


私は、何?



何も、分からない。理解できない。

いや。知りたくない。

何も知らなくていい。理解できなくていい。


私は、また息を吐くように口を開けた。

いつか、何もかも終わることを願って。

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