紫陽花に翻弄される初心な男の話

 稲田の水鏡がすっかり緑に覆われる初夏のころ、ぼくは彼女のことを思い出す。とはいえ彼女は青々と素直に伸びる稲とは似ても似つかない。自在に色を変える紫陽花のような女性だった。


 ぼくの前に初めて現れた彼女は、淡い水色の紫陽花が似合う清楚な雰囲気を纏っていた。図書館で、たまたま同じ本を手に取ろうとしたというベタな出会いだ。そこで意気投合したぼくらは、会うたびに読書テラスのソファに隣り合って腰かけ、本の感想を語りあうようになった。鈴が転がるような声は心地よく、桜色の唇が紡ぐ言葉の数々は和やかながら軽妙に富む。彼女がこちらを覗きこむように小首をかしげるとつややかな黒髪がさらりと流れ、ふわりとサボンが香る。レトロな白襟のワンピースがよく似合う文学少女を前に、ぼくはあっという間に恋に落ちてしまったのだ。

 だから、偶然にも街中で彼女を見かけたときはショックを受けた。

 真っ赤なスカートの裾から煽情的なあしが伸び、歩くたびに高い位置で結われた巻き髪が軽やかに揺れる。大胆に露出した肩でいかつい男に寄り添い腕を絡める。石榴ざくろのような唇では情熱的な愛でも囁いているのだろうか。

 初めは自分の勘違いかもしれない思った。けれども、下がり気味の目尻にあるほくろと片方だけできる笑窪えくぼが、確かに彼女であると物語っていた。

 その日だけではない。図書館の外で目にする彼女は、そのときどきで雰囲気も隣にいる男もまるで違う。フリルたっぷりのロリータ服にツインテール、隣には気取ったサブカル男。体のラインを強調した黒のパーティードレスのときは、スタイリッシュなスーツを着こなす生真面目そうな男を伴って。またあるときはグラスコード付きの丸メガネに中性的なパンツスタイルで、世捨て人じみた無精ひげ男の隣を颯爽と歩く。

 情熱の赤、可憐なピンク、妖艶な紫、クールな青。そのどれもが彼女の素顔であり、あるいは何ひとつ本当のことなんて無かったのかもしれない。


 問い詰める気になどなれなかった。そうすることで、ぼくの目の前から彼女がいなくなってしまうことのほうがよほど怖かったのだ。

 しかし、ぼくのちっぽけな自尊心は溜飲を下げろとうるさくて、彼女を郊外の紫陽花園へと誘う。初めて二人で図書館の外へ出かけた。

 小高い丘の一面には盛りを迎えた紫陽花が咲き誇り、梅雨の合間の青空によく映える。大型の観光バスが到着すると、丘の裾野は観光客であふれる。その雑踏に紛れて、

「君は、まるで紫陽花のようだね」

 と、愛情に嫉妬と皮肉を混ぜた言葉を投げかけた。彼女は肯定も否定もせず、ぼくのよく知っている清楚な笑顔を浮かべた。その瞳の奥で彼女が何を考えていたのかはわからない。

 結局、彼女は僕の前から姿を消した。連絡先はすべて不通。その後何度図書館へ行こうとも、二度と会うことは無かった。


 あのとき彼女と訪れた紫陽花園に、ぼくはひとりで未練がましく足を運ぶ。丘を覆う色とりどりの紫陽花はあの日と同じように綺麗で、ぼくを魅了して離さない。

 雨上がりの青空は高く澄んでいる。湿った散策路を登り、丘の頂上を目指した。

 吹き抜ける風が汗ばむ肌に気持ち良い。観光客の雑踏は遥か下。上から見おろす紫陽花も、悲しいほどに美しかった。

 ひときわ美しく咲く淡い水色の紫陽花。その影から彼女が顔を覗かせるのではないかと無意味な期待が胸を支配する。葉の擦れる軽やかな音が、まるで彼女が耳元で囁いている声のように聞こえる。花に触れたところでひんやりと冷たく、顔を寄せても香りはしない。ここに彼女の面影などあるはずもないということはわかっている。それでも求めずにはいられない。

 ふと紫陽花の足元に視線を落とすと、名も知らぬちっぽけな雑草が風に揺れていた。それが手を振り別れを告げるようにも、また、激しくかぶりを振り未練を断ち切ろうと苦悩する様子にも見えた。ぼくはいつまで彼女の幻にりつかれているのだろう。




紫陽花の花言葉:移り気

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