〜まんが猫の妙術〜

矢門寺幽太

第1話 とける心

猫の世界にも「サムライ」と呼ばれる者どもが居た。

 爪と呼ばれる刀を研ぎ、牙と呼ばれる脇差しで、獲物の息の根を止めた。

ネズミだろうとイタチだろうと毒蛇だろうと、どんな獲物もたちまちこの爪に切り裂かれ、組み敷かれては牙でとどめを刺す。

猫の世界の武芸者である。

 ある猫は長大な刀法や早業を極め

 ある猫は大小二刀を使いこなし

 ある猫は無手にて勝つ妙義を極めた。


そして、これらの武芸の道には一つの真理があり、まだまだ先があり、果てしない修行の道が伸びている事に気づく者は少ない。


 〜〜猫の妙術 序章「とける心」〜〜


昔のことである。

武者修行らしき若猫であろうか。長い刀を持ち、庭先に平伏し、必死に何かを懇願(こんがん)している。


その相手はと言えば、縁側で日なたぼっこをしている老猫である。

老猫は元最強のサムライだったと聞くが、今では刀も持たず殺気も威厳も感じられない。


のどかな庭先には花が咲きはじめ、小鳥はさえずり、小春日和の暖かい日差しが庭先を包んでいた。


さて、老猫の手前の庭先の地べたには若武者風の若い猫が這いつくばり、老猫に向かって何か必死に問いかけているのだが、

老猫は無言であった。話を聞いているかも分からない。まるで心ここに在らずといった印象を受ける。


若い猫が必死に語りかけるが、やがて老猫は、ウトウトと眠り始めてしまった。

若い猫はその姿を呆然と見ていたが、

やがて若武者猫は、青ざめた顔でヨロヨロと立ち上がり、夕暮れの道をトボトボと去って行った。

若武者の堂々とした巨躯(きょく)が小さく見えた。


老猫との対話はもう三度目だった。

誠心誠意、何度も術の極意を尋ねたが、また何も教えてもらえなかった。

話を聞いてすらいない様にも感じる。

ますます剣の迷いが深まる気がした。


…だが。あの老猫の周りには確かに「ネズミが居ない」のだ。


若武者猫は修行に修行を重ね、壁の向こうはおろか二軒先のネズミの気配を察する事ができた。

「間違いない。ネズミは居ない」

いったいどの様な方法を使っているのかは解らないが、これはあの老猫の“力”に違いない。

わからない。

その方法が全くわからないのだ。


以前の自分は若さと剛力にまかせて大太刀を振るい相手を圧倒していた。

その頃、この老猫の噂を聴き付け、ぜひ立ち合いをと所望(しょもう)しに来たのだが、あの姿を見て呆気にとられ「噂はデタラメである!」と憤慨して帰ってしまった。


その後、全国の道場を歩き周り、時には現地の若者たちを指導し、負け知らずで帰郷したのだが、まさか地元の無名の剣士に惨敗した。

「自分が求めていたのはこの人であったか!」と、ばかりに弟子になる事を所望したが、その師範の答えは

「我、いまだ『かの老猫』には及ばず」であった。


まさかと思い、再び『かの老猫』に会ってみれば、またあの調子で眠りこけていた。

だがその時初めて気づいたのだ。

(この一帯にはネズミの気配が無い?!)

驚きだった。

なんとかその秘術を学ぶべく懇願したが、それも虚しく、再び師の元へ参じ、弟子入りを懇願した。


そして我が師との長い修行に入る。

今までの剛力や早業を捨てて、ただジッと向かい合い『機』を見て真っ直ぐ打ち込む。

ただそれだけの稽古であった。

不思議なもので打とうとしても打てず、避けようにも動けず、ただ毎日剣を構えながらジッと睨み会っていたつもりであったが…気づくといつの間にか道場の外まで退がり出てしまっていた。

師はピシャリと道場の扉を閉めた。

そのたびに自分の考えて来た剣法のデタラメさを思い知った。


やがて夏が過ぎ、冬を越し、幾歳月(いくとしつき)が過ぎた。

やがて師は自分に皆伝の允可を渡しこう言った

「我が教えられる事はもう無い。なお向上極意を望むなれば『かの老猫』の元に参学すべし」


そして三度目の今日。『あの風景』を見て愕然とした。

初めて我が師の教えが理解できた。

そして改めて困惑した。


そこには闘争も無く、勝負も無く、

ただ暖かい陽射(ひざし)と穏やかな日常だけが広がっていた。

ここは、まるで全てが『かの老猫』の創り上げた世界であるかの様に自然でのどかだった。


「何も無い……何も」

あの老猫に向かい合う度に、まるで自分の“剣”が全て否定されている気がした。


『かの老猫』との三度目の出会いもまた、何も得る事も無く終わった。

むしろ迷いが深まった気もする。

今まで教え導いてくれた師に対しても申し訳無い気持ちがあった。


若い猫は虚しい気持ちのまま河川沿いの土手に登る。

大河沿いのこの港町は土手の上がそのまま街道の街並みになっていた。遠くの川面を高瀬舟が帆を張って進むのが見える。


若武者猫はまた長太刀を腰に差し、身を正した。

猫のサムライとして生きてきた自分の姿に戻った。

(自分には剣の道しか無い)

これが自分自身の生き方である。

若武者猫はそう考えていた。


若武者猫は一段と高くなった街道沿から、夕陽に輝く江戸川を眺め、フッと息を継いだ。

夕陽が世界を赤い色に染めていた。

虚しく空っぽな空虚な心に赤い世界が飛び込んで来た。

関宿は広大な利根川と江戸川の分岐点である。

一面に広がる大河の水面は黄金色にキラキラと輝いていた。

まるで世界が水の上の様だ。


若武者はふと足を止め、その夕陽の美しさに心を奪われた。


この一瞬、我を忘れ、自分自身がこの赤く輝く世界と同化していた。

そしてハッ!と気づいた。

『無心』


若武者猫は後ろを振り返った。

赤く染まる田園に影が長く伸びていた。

東の空は薄暗く青く。そこに大きな丸い月が昇っている。

今、歩いて来た道はすでに暗い。

真っ暗な闇に見える。

だが若武者の目にはあの闇の中に確かな道があるのを感じた。

闇の中に世界はあり、月は全てを照らす。


若い猫は闇に消えゆく黒い道の奥を見つめ、やがて跪(ひざまず)き、闇に向かって深く一礼をした。



〜〜猫の妙術「序 解ける心」〜〜 完

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