思い出の潮風食堂Ⅱ

南瀬匡躬

∞第一話 アジフライと思い出のフライパン

∞第一話 アジフライと思い出のフライパン


 ここは東京の葛西。東京駅の地下深いホームから千葉の臨海地区を行き先にする電車に乗ると辿り着く。水族館や海の公園で有名な場所である。

 その町の一角に、ごくありふれた、そして小ざっぱりした町のキッチンがある。和洋折衷のそのメニューは懐かしさや飾らない家庭の雰囲気を出しながらもどこか上品に仕上げている。


 外観はどこにでもある普通の食堂。内装もこざっぱりして貼り紙一つ無い木目基調のシンプルさ。小上がりにある時計がらの座布団と衝立ついたて、そして店奥にある神棚が目に入る配置だ。食器と調理道具を除けば、客の目に触れる場所には、物がほとんどない。

『潮風葛西丸』と白抜きで記された藍染めの前掛けと大漁旗のデザインされたTシャツ、黒のゴム長で厨房に立つ店主の名前は青砥一色あおといしき。今から五年前、彼は親の食堂を譲り受け、今の場所に店舗を移転させた。もともとは船宿だったが、今、船の仕事はごく近い岸辺の沿岸漁で、店の分だけを調達する程度の漁師業のみである。


 ちょうどその五年前のお話、オープンしてまもなくに起こった不思議な夢の出来事が今回の第一話である。


「一色、オレ、お前に預けたいものがあるんだ」

 彼の店の二階、居住スペースとなる部屋の一角に彼の寝所しんじょがある。一人暮らしの気楽さから、彼にとっては自由を満喫できる悠々自適な世界である。寝室で布団を被って熟睡する一色。その晩に親友の伊豆海暉いずあまきが夢枕に立った。そして預け物を伝えている。


「なんだよ、早く言えよ」

 夢の中の一色は、同じ料理人仲間の彼のもじもじした態度に業を煮やしている。らしくないのだ。

「まあ、あとで分かるさ、じゃあな」

 彼はそう言って軽く手を振ると滑るように、みるみる小さくなって一色の視界から消えてしまった。

 瞼に差し込む朝の光。仕込みの時間になると自然と目が覚める。日の出直前の午前五時を回ったあたりだ。

「なんだ、夢か」

 夢を見た彼は、無二の親友である海暉のもじもじした態度が不思議に思えたが、所詮は夢の中のこととあまり気にしなかった。電話連絡するまでもないと思った。


 そして仕込み、開店、ランチ、ディナーと新米店主は不慣れながらも、なんとか日課をこなしてその日の仕事は終わりかけていた。結局何もなく、夢のことなどすっかり忘れかけていた。

 閉店の三十分前。高層マンション群となり、ベッドタウンと化した近年の葛西の商店街は、午後八時を過ぎると人通りも少なくなる。仕事帰りの会社員は繁華街の飲み屋さんへと流れて、商店街に向かう人はほぼ皆無。近所の人が歩いている程度だ。


 大きなスーツケースを転がして、店に入ってきたのは、二十代中頃の細面の美女だった。旅行か何かだろう。花柄のフレアスカートに、白いブラウス。よそ行き風のしゃれた服装でテーブルに着く。春の薄手のハーフコートを自分の横の席に丁寧に畳んで置いた。

 長い髪はさらさらで、スカーフを外した瞬間、彼女の周りに春風のような香水の良い匂いがふわっと広がった。

「いらっしゃいませ!」

 一色の妹美和は急いで、水を持ってテーブルに向かう。美和はアナウンス専門学校の二年生。学費を立て替えてもらう代わりに、店で手伝いをしているのだ。

 メニューを渡すと彼女は、見開きの写真付きの料理を確認して、

「アジフライ定食をお願いします」と言ってからメニューを返した。


 一色はその注文をありがたく思った。得意料理の一つだからだ。

 昨晩ゆうべ夢に出てきた親友の伊豆海暉と一緒に改良を加えた代物なのだ。


 肉厚のアジフライに、和辛子、キャベツ、アサリの味噌汁、そしてご飯を膳にのせて美和は彼女の前に置く。

「どうぞ、お待たせしました」


 彼女はそのアジフライを見て、少しだけ口元が緩む。好物なのだろうか? 遠目に見ながらも、一色も初めての客に興味津々だ。

 醤油を少量かけて箸を割る。磯海苔をまぶしてちりばめたサクサクの衣を箸で上品に割いて一口、口に運んだ彼女。

 カウンターの影から見ていた美和は驚いた。

 その、一見、怜悧れいりにさえ見える切れ長まつげの瞳の奥に潤む物が光っていた。

『泣いている?』

 そう思ったが美和は声にはしなかった。

 そっと一色の方を向いて見ると、彼も同じ事を思ったようで、頷くだけでそれ以上言葉に発することはなかった。

 彼女は一口目を飲み込むと、手ぐしで前髪を左に流して、厨房にいる一色の方を向いて一礼をした。

「ありがとうございます。一色さん」


 その言葉に驚いたのは一色だ。彼女は自分を知っている。知り合いなのか? という疑問。心当たりがない。これだけの美人、面識があれば、覚えているはずだ。

「あの、どこかで……」と、おそるおそる訊ねる一色。

 その不思議顔に愛嬌があったのか、彼女は少しはにかみながら、

「ふふ」と軽く笑った後、

「私です。零香です。覚えていないとは言わせませんよ」と悪戯っぽい笑顔を作った。

 一色はふと考えて、

「海暉の妹の? 伊豆半島の先端の?」とやはり慎重に返す。

 すると彼女は嬉しそうに、

「そうです。伊豆半島の先端に住む、その妹の零香です」と頷く。

 以前会った頃は、まだお下げの少女で、海暉の後ろから恥ずかしげに顔を出す彼女のイメージしかない一色には、こんな大人になった彼女の姿を分かるはずもなかった。


「この磯海苔をあえた衣、上品な香りに仕立て上げるための紫蘇の葉の包み揚げ。兄のアジフライと全く一緒。お兄ちゃんを思い出してしまいました」

 彼女の言葉に、一色はあの夢の謎が解けた。

『予知夢か』と一色の悔しさがにじむ。


「思い出すって……?」と訊ねる一色。

 彼女は吹っ切れたような顔で、気丈に振る舞い、

「はい、先の台風の時で、仕入れの途中でした……」と息を詰まらせるのを避けるように、そこで言葉を止めた。語尾は聞こえなかった。悲しみを堪えるために言葉を止めたのだ。そして思い返せば、その台風とは夏のことで一年近く前の話だ。

 そして彼女は続ける。

「何の連絡もしないで、ごめんなさい。一人で供養して、店や家の中をいろいろ整理していたら、兄の手紙が出てきて、もし自分に何かあれば、一色さんに相談しろ、って書いてあるのを見つけまして、報告も兼ねて今日東京に出てきました」

「あいつ……」と、一瞬、万感、積年の思い出が一気に走馬燈のようによぎる一色だが、今この時点で感傷に浸る暇などない。


「いや、まずは零香ちゃん、これからどうするの? あいつと、伊豆には海暉と兄妹二人きりだったよね、身内縁者は」と眉をひそめ、心配そうな面持ちの一色。

「東京に来て働くことに決めました。遠縁が一家族だけいるんです。この葛西の近くに。それで同じ地域に住んでいて、東京の事情に詳しい一色さんの意見をアテにして、今ここにいるって感じです」と穏やかな笑みを浮かべる。

「オレを頼ってくれてありがとう。歓迎するよ」と一色。


 最後のお客をお送りした美和が暖簾を仕舞って扉を閉める。

「アニキ、鍵も閉めちゃうよ」

「うん、頼む」

 そう言いながら思案に耽って、腕組みをしている一色。

 手際の良い閉店準備を始める美和に、

「なあ美和。ちょっと彼女に閉店準備の段取り教えてあげてくれる」と言う。

 美和はぽかんとして、

「いいけど、まだ彼女の了解とってないよ」と立ち止まった美和。

 向きを変えて、一色は、

「零香ちゃん。仕事が決まるまで、ウチでバイトしながら面接を受けに行くと良いよ。葛西は結構、東京駅や品川方面に出やすいよ」と提案した。

「良いんですか?」

「遠い親戚より近くの他人ってね」と笑う一色。

 そして「親戚とは穏やかに、たまに合うくらいがちょうど良いよ。突然来られても困ると思うよ」と加えた。

「本当にいいんですか?」

「うん」と一色。

 さらに一色はカウンターに手を置いて、寄りかかりながら、

「あとね、君の持参金が底をついて路頭に迷ったら困る。あいつに申し訳が立たない。持参してきた金は、自分の衣食住が必要になった時に使いなよ。当面はウチで面倒を見てやるから」と言う。

「アニキ、格好良いじゃん!」とグーサインの美和。二十歳そこそこの元気な娘の感想だ。

 そして「なあ美和。お前の部屋、貸してやってくれよ。ここにオレと二人じゃ、申し訳ないから」と立ち止まっている美和に言う。

「当たり前じゃん。アニキと一緒の部屋なんか一番危ない」

「なに!」

 拳を振り上げるジョーク・ジェスチャーを演じる一色。

 笑いながら美和は、

「零香さん、ウチにおいで。ここから五分とかからない場所だから。マンションの一室で田舎の人には手狭に感じるかも知れないけど、よければ、どうぞ。私も海暉さんにはご馳走になったりしたんだ。恩がある」と快く受け入れた。

 それを聞いた一色は、

「オレに対する評価には少々言いたいこともあるが、とりあえず美和。ありがとう」と彼女を受け入れる姿勢に礼を言った。

「おうよ。その代わり時給あげろ」と傍若無人な物言いで、牽制する美和。

 零香はクスクスと笑うと、

「いいわね。ウチのお兄ちゃんともよくふざけ合ったんだ」と懐かしそうな顔をしていた。

 そして「一色さん、本当にありがとう。お仕事が決まったら必ずこのご恩はお返しします」と律儀な言葉を入れる。

「いや、夕べね、夢枕にあいつが出て、『お前に預けたい物がある』って言っていた。君のことだったんだね。ちゃんとお預かりしないとね、親友の妹さんだから」

 美和は「一足先にお願いしに来たのね、海暉さん」と言う。

「うん」

 一色は納得の表情だ。


「そうだ。お土産があるんです」と零香。

「なに? わさび漬け?」

 定番、伊豆半島特産品のお土産かと思う一色に、

「ううん。それもあるけど、これ」と鞄から取り出した品をテーブルに置いた零香。

 それはホットケーキ用の小さなフライパンだった。未使用のまま、鋼色はがねいろに輝いている。

「これって、あの時の?」

「はい、私が妙に一色さんに懐いちゃって、お二人に同行して北伊豆ドライブに行ったとき。梅園見て、来宮神社きのみやじんじゃをお参りした帰りに、熱海の道具屋で食品サンプルのおもちゃを買ってもらったら、兄がふざけて、私のまねして『オレもこれほしい、一色にいちゃん買ってー!』って駄々こねて、一色さんにねだったパンです」と笑う。

「まだ持っていたの? あいつ。しかも使ってないじゃない」

「使わずに神棚の横に置いて一緒に拝んでました。あはは」と吹き出す零香。悲しみよりも思い出は強いということを、この表情で見せてくれる彼女。

「なんで?」

 親友の奇妙な行動に一色は首を傾げている。

「親友にもらった守り神って言ってました」

 一色はその言葉に、目頭を押さえて明後日あさっての方を向いた。女性二人に涙を見られたくなかった。真の友情を目の当たりにして感無量だ。何気ない日常の中にまで、一色の存在を同居させてくれていた彼のその心意気に熱い思いがこみ上げる。

 そして暫く瞬きを繰り返して、涙を隠すと、

「よし、オレもそのフライパンを神棚の横に置くぞ。ずっとあいつと一緒だ」と言って脚立を持ち出した。


 最後のあさり汁を飲み干すと零香は、

「一色さん、美和さん、本当に私なんかがご厄介になっちゃっていいんですか?」と訊ねる。どこまで好意に甘えて良いのかは、難しい判断箇所だ。

 脚立に乗りながら、そんな零香の懸念を払拭するように、一色は、

「なんなら美和がこの春には社会人になっちゃうから、その後ずっとここで働いてくれてもいいよ。こんな小さな店だけど零香ちゃんさえ嫌じゃなければね」と笑いながらフライパンを棚の上に置いた。


 あの時の友情の証となったフライパンは、一色と零香の二人が夫婦めおととなった今もそこにある。まるで海暉の化身のように。この店と実妹と、そして今では親戚となった親友に言葉をかけるように、彼のフライパンは毎朝、朝陽を受けながら輝いている。

              了

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