第1章 物言う花
午後はいつものように歴史教師マイヨール・ポナがテッサの話し相手に離宮を訪れた。この半月、ガーランド訓練生は兵站部と船体補修に駆り出され、教師の仕事は休業だ。
教師と領国主は離宮周辺の庭園を散策した。テネ城市を見下ろすテラスでテッサは「帰りたい」とつぶやいた。
「領国府が心配ですか、テッサ嬢」
「いいえ。紋章人の監視が嫌なのです。彼女は『彼』ですから落ち着きません」
「あら、カレナードは間違いなく乙女ですよ。
かつて彼女は『彼』に戻るため、アナザーアメリカ最大の禁忌、すなわち女王に自分の全てを捧げる禁忌を犯しました。彼女は船底から吊られる試練を生き延び、左手の甲に女王の紋章を刺青され、紋章人と呼ばれ、厳しい律法の下に生きるヴィザーツになるために、そして女王との関係にとても苦しみました。 最初の1年間に数度死にかけたわ。
でも、女王は彼女によって救われ、彼女もまた女王によって救われた。もう一人前のヴィザーツです。『彼』が気になるのですね」
少女の潔癖さだけでないと、テッサは言葉を探した。
「それもあるが……圧力だ。まるで女王が……女王が2人いるというか、彼女にそういう得体の知れないものを感じる」
「何かありましたか」
「彼を男女となじったら、ものすごく怒ったが、すぐ別人になった。あれは演技だろうか」
マイヨールは微笑んだ。
「どちらも彼女です。紋章人のことで悩む必要はございませんよ。もうすぐ情報部副長が領国府の最新ニュースを持ってきます。それが終わりましたら、入浴なさいませ」
テッサはマイヨールの腕にしがみついた。
「バスルームに紋章人を入れないで! 着替えも自分でする!」
「結構ですよ。女王もやっと一息つける時間です。紋章人は女王の物言う花ですから、今日はここに来ないかも」
「物言う花? 女王から私をかばったのに?」
トペンプーラは長めの黒髪を後ろで束ね、小包みと共に来た。テッサは彼の理知的な状況報告と明るさが気に入った。
「ご安心下さい。ミセンキッタ中央領国府の混乱収拾はひと月が必要デスが、テネ城の修復は始まりました。城下の各区も落ち着いています。貴女には今しばらくガーランドに留まっていただきマス」
トペンプーラは襟を正した。つるりとした彼の頬に黒子が一つ乗っていた。
「さて、領国主殿。玄街の水面下での活動について申し上げて良いものか、迷うところデス。貴女が知る必要がございますれば説明の用意を整えますが」
テッサは初めて領国主らしい態度を示した。
「ローザ・ルルカの件を気遣ってくれましたか。お心遣いに感謝します、トペンプーラ殿。私個人は未だに信じがたいが、領国主として省みるべき案件です。ガーランドを降りる日までに、また御足労をかけてよいでしょうか。女王が許すなら、こちらから出向いてもいい」
「では、カレナード・レブラントに命じてくだサイ。彼女とワタクシにはホットラインがありますから」
テッサはますますカレナードが分からなくなった。
「彼、いえ、彼女はそれほどの人物ですか。女王の特別な人だから?」
副長はきっぱり言った。
「女王と関係ありません。マダム・カレナードはワタクシの知己です。そして、彼女は彼女自身も知らない使命があるのです。ワタクシの勘がそう告げるのです」
彼は小包みを開いた。中からテッサ愛用のブラシ類と室内履き、筆記用具と茶碗が現れた。
「テネ城から持って来てくれたのですね。御礼申し上げます、副長殿」
「これは紋章人に頼まれたのデス。ワタクシ、毎日船を降りていますので。身の回りの品があれば慰めになります。他にご要望があれば賜りましょう」
「浮き船は訓練生にさまざまな学問をしていると聞いた。私はアナザーアメリカンだから資格はないでしょうけど、もっと勉強できれば嬉しい」
「どの辺をお望みですか?」
「私はアナザーアメリカ全体をもう一度学び直したいのです。領国主は広い視野が要ると思って。主に歴史と地理です。創生伝説の頃からもう一度……なぜ私たちの世界は
「マイヨール女史が適任でしょう。そうそう、紋章人は3000m以上を飛んで生還したことがあるのですヨ」
「え……」
少女領主はブラシを手にした。馴染んだ柄の感触と紋章人への警戒が入り乱れた。彼女は入浴し、湯上りにブラシを使った。春の宵を眺めようと離宮を出た。庭園から女王の女官は消えていた。1人になって考えた。
「ローザは、グウィネスは私をどうしたかったのか。操りやすい領国主を育て、ゆくゆくはミセンキッタを玄街の国にするつもりだったのか。彼女を信用した私が愚かなのか。彼女はいい教師だった。私を慈しんでくれた。あれが偽りと思えない」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます