第10話命の差
しばらく駆けると、ズズン、と再びの空震が発した。
それと同時に、バキバキ……と立木が裂ける音が発し、俺は嫌な予感がした。
「な、なんだ……!? なんか滅茶苦茶ヤバそうなヤツがいるらしいな……!」
「ほほう、この世界の神から聞いてはおったが……これはこれは。バンジ、心せよ」
「わかってます! これはどう考えても普通じゃなさそうだ……!」
短く応じ、倒れた木を何本か飛び越した先――土が剥き出しになっただけの山道にへたり込んでいる小柄が見え、俺は目を瞠った。
腰が抜けた、というのはこういうことを言うのだろうか。尻をぴったりと地面に押し付け、蒼白の顔で震えているその人物は、駆け寄ってきている俺のことも意識の中に入っていないらしく、側に開けている森の奥を凝視している。
「ちょっと、そこの人! 何がありました!?」
俺が駆け寄って大声を浴びせかけると、はっ、とその人物が俺を見上げた。
その瞬間、俺は次に続くはずだった言葉を忘れてしまっていた。
この人――女性だということはわかっていたけれど、これは……。
色素の薄い金色の髪に、強い怯えの色が浮かんだ琥珀色の瞳。
愛らしく、なおかつ清廉さを感じさせる整った顔立ち。
僧衣というのかなんというのか、正しい名前が思い浮かばない、純白のローブ。
この状況下でなければ、しばらく見惚れたかもしれない、とんでもなく綺麗な女性――。
歳の頃からすれば二十歳前後、大学生ぐらいか、と、そんなことを考えたその瞬間。
バキバキ――という、例の立木の裂ける音とともに「それ」は現れ、俺は振り返った。
「ッ――!?」
そこに現れたものを見て、俺は前の人生から通算して初めてとなる「戦慄」という感情に震えた。
まず、ぬっとばかりに頭を木立の上に突き出した「それ」は、形から見れば間違いなくクマであった。
だが、常識的ではないのは、その巨大さ。
目の前に現れ、木立をいとも簡単に押し退けながら現れたその獣は、パッと見ても300kgはありそうな体躯である。
どう頑張ってもせいぜい150kg前後、マタギたちが120kgぐらいのツキノワグマを「滅多にない大物」と呼ぶことを考えても、その大きはまさに常識外――獣というよりは怪物といえる巨獣だった。
割って入ったはいいが、そのあまりの巨大さに足が竦んだ俺の背中に、震える声が発した。
「ゴライアス・ベア……!」
はっ、と俺が肩越しに振り返ると、女性がまたも口を開いた。
「こ、こんな巨大な個体、初めて見た……! この個体が村人を何人も襲って……!」
ちくしょう、しかも立派な人喰いグマかよ。
通常、津軽海峡より南、いわゆるブラキストン線以南の本土に生息するツキノワグマは、極めて草食性が強く、猛獣のイメージとは裏腹に温血動物の肉を食べることはまずない。
だが山が荒廃した最近では徐々に雑食傾向が強くなっており、それと共に養魚場の魚やカモシカを喰うツキノワグマも出てきてはいるが――人間を襲って喰うとなると、ツキノワグマというよりヒグマに近いのか。
いや――通常のクマには角なんか生えていないし、サーベルタイガーのような、こんな長くて鋭い牙も生えていない。
やっぱりコイツは俺の常識などなにひとつ通じない、異世界の猛獣であるらしかった。
俺は背中に背負った村田銃を抱えると、装填レバーに手を伸ばした。
落ち着け、クマなら地元の秋田で何頭も仕留めてきた。
今回も同じことを繰り返すだけなんだ。
そうでなければ――俺と、この背後にいる女性は、どうなる?
俺が殺気を湛えてゴライアス・ベアとやらに立ちはだかった、その瞬間。
「だっ、ダメです! ゴライアス・ベアに手を出さないで!」
鋭い悲鳴が女性の口から迸って、俺はぎょっとした。
なんだ、このクマに人質でも取られてるってのか?
俺が思わずそんな馬鹿げたことを考えたのと同時に、女性が尚も叫んだ。
「ゴライアス・ベアは唯一神デミュアスのお遣いの魔獣――! 手を出したら私の村に呪いが降りかかります!」
――それは、あまりにも意外な一言だった。
決してそんな場合ではないのに、俺は背後の女性を振り返った。
「は――!? だ、だからってどうすんだよ!? こんな化け物、戦わないとどうしようもないだろうが! あんた、このまま喰われるつもりなのか!?」
まさか、という意志を込めた俺のその一言に、ぐっ、と唇を噛んだ女性は――更に信じられないことを言った。
「……村のみんなのためなら、仕方がありません。もし神の怒りを買ったら、私一人の問題ではなくなってしまうから……!」
その言葉を聞いた瞬間、は、と俺は思わず絶句してしまった。
唖然としている俺の前で、ごくっ、と、白い喉首を鳴らして唾を飲み込んだその女性は、両の手を組み合わせてその場に跪いた。
「……おお、偉大なる唯一神デミュアスよ、私は貴方様が遣わした裁きを受け入れます。どうぞ、罪深き我を裁き給え……」
あまりの事態に呆然とするしかない俺の前で、女性は震える声と共に、眼の前の狂いじみた大きさの獣に向かって頭を垂れた。
「おっ、おい、あんた何やってるんだ!? 」
「唯一神デミュアスの
「ばっ、馬鹿なこと言ってるなよ! 相手は獣だぞ! そんなこと頼んだって意味があるわけが……!」
「それでもッ!」
女性が悲鳴のような声で絶叫し、俺の反論を遮った。
「それでも、私にはこうするしかないの……! 魔獣一頭の命は一億の人間の命よりも重い、それが神の定めた命の価値だから! 私の、私の命でもっと多くの村人たちが助かるなら、私の命なんて安いものなんです……!」
戦おうとも、抗おうともせず、あまりにも呆気なく、自分の生を諦めてしまった女性を見て――。
俺の中に、はっきりとした怒りが燃えた。
――いいがバンジ、山の獣はよ、みんな山の神さんからの授かりもんなんだ。
――
――軽いっつうごども、重いっつうごどもねぇ。
――だがら、決して命っつうものは、
――ちゃんと手を合わせで、美味い美味いって喰って、食べられることに感謝して。
――撃たれてくれてありがとう、おらに食われてくれてありがとう。
――そうやってなんぼでも感謝すれば。
――そうすれば、山の神さんはまたなんぼでも授けでくれるべしゃ――。
何度も何度も聞かされた爺ちゃんの教えが耳の底に木霊する。
そう、命は平等だ。
安いも、軽いもない。
ましてや、獣と人間の間に命の差を設けている存在が――神などであろうはずがなかった。
「――すったなごど、あるわげねぇべしゃ」
思わず、俺の口から標準語が消えていた。
はっ、と顔を上げて俺の顔を見た女性を、俺は遠慮なく怒鳴りつけた。
「誰の命が安いってな!? それ、
思わず、俺がコテコテの秋田弁で怒鳴りつけると、女性がぎょっと目を見開いた。
俺は尚も声を張り上げた。
「んだてば
何を言ってるかわからないだろうが、とりあえず俺が激しく憤ったことだけは伝わったのだろうか、女性がぎょっとした表情で俺を見つめた。
俺はもう女性が何を言っても無視することにして、化け物に向き直った。
「
俺は滅茶苦茶な理屈を捏ねて、グルルル、と不機嫌な唸り声を上げて近づいてくる怪物に向き直った。
これが異世界の怪物だとしても、クマである限り、急所は同じ。
ツキノワグマなら白い月の輪状の模様がある胸、そして頭。
だが村田銃はライフルなどと違ってライフリングを削ってあると聞くし、この半トンはありそうな怪物を相手にするこの場合、分厚い頭蓋骨を貫通できるかは甚だ怪しい。
ならば――撃ち抜くべきは、心臓のある
俺は装填レバーを引き下げて戻し、弾丸を薬室に装填した。
魔法があるこの世界では必要な動作ではないが、そのガチャリという金属音は、今からこの一撃に命を預けるのだというマタギの覚悟の音なのである。
「グオオオオオオオオオオオオ!!」
臓腑を揺さぶるような咆哮を上げ、魔獣熊がぶるりと毛皮を揺すって立ち上がった。
俺は足を肩幅に開き、銃床に頬を押し当てて、照門から照星を覗き、その向こうに魔獣の絶対的な
俺は祈るような気持ちとともに、引き金を引いた。
村田銃の銃口から、まるで流星のような青白い光が迸った。
それは真っ直ぐ、凶獣の胸に向かって空中を疾走し――半秒にも満たない間に、凶獣を貫いた。
シュパアッ! という、およそ銃のものとも思えぬ音が後から発し、凶獣の身体がびくん、と痙攣した。
「んな――!?」
女性の悲鳴が背後に聞こえたが、俺は構えを崩さなかった。
お使いの獣として今まで絶対的な強者の余裕に浸っていた魔獣熊には、あまりにも意外な一撃だったのだろう。
一瞬、何が起きたのか測りかねたように硬直した熊が、己の足元に広がっている血溜まりを呆然と見た。
と――そのまま、力を失った熊の頭がぐらりと揺れ、その巨体が地面に崩れ落ち――湿った音を立てて地面に転がった。
数秒、間があった。
俺は慎重に、村田銃の筒先を構えたまま、凶獣に近寄った。
毛が萎れていた。
掌も開いている。
間違いなく――絶命したものと思われた。
「ふぃー……勝負、勝負」
俺は、小さく「勝負」と口にした。
それはマタギとクマとの「勝負」が決着したことを、マタギ仲間と、その獲物を授けてくれた山の神様に告げる呼び声――つまり、ゲームセットを告げる一言だ。
冷や汗を拭い、近くで事の経過を観察していたアズマネ様に視線をやると、うむ、とアズマネ様が頷いた。
「ご、ゴライアス・ベアを一撃で……!? そ、そんなバカな……!!」
ふと――背後にいた女性がそう言い、俺は背後を振り返った。
女性は悲壮な悲鳴を上げ、両手で頭を掻き毟った。
「ご、ゴライアスベアを、お使いの獣を殺すなんて……! ああ、なんてことを!! 私を助けたばかりに、あなたは唯一神の教えに背いた! あなたには魔獣の呪いが降りかかってしまう……!」
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