第4話
手に持った書類束を見つめ、黒髪黒目の護衛官は重く息を吐く。
「辛気くさいツラが似合うな、おまえは」
「生まれつきだ」
ノックもせずに入ってきた同僚を、いつもだったら口うるさく注意するところだが、今はその気力もない。
ガルディスは、クロースから書類をひったくるように奪って一瞥すると、そのままぽいと机に放り投げた。
「また金のことか。どれだけ睨んだって増えやしねえよ」
「だが、このままじゃ維持すらできない」
本来なら領地として与えられたこの一帯から納められる税で、城の運営を成り立たせていくことになる。けれど、長く前線だったこの地方の疲弊は濃かった。やっと復興の兆しを見せだしたばかりの街から、城を復旧し潤わせるほどの税を納めさせることは、現実的に無理だと思われた。
リルザはそれを公認した。新しい領主は、地力が回復するまでの間、極端に税率を抑えるとおふれを出した。この城の貧窮は、おかげですっかり深刻である。
「腹立つのが、それで株上げるどころか、なめられただけっつうのが……」
「この土地の人々は、仕方ないさ。リルザもわかってる。考えがあるんだろう」
「今は絶対なんも考えてねーぞ」
仕方ないと思いつつ、ぼやきが落ちる。
「今回は、だいぶ長いな」
リルザは完全に以前の人格を失ったわけではない。死に至る毒を盛られたものの、発見と処置が早く、正しかった。王族として毒への耐性をつけていたこともあり、若く体力のあった彼はしばらく寝込みはしたものの、そう期間を置くことなく以前の務めに復帰が叶う。
しかしリルザは毒を盛られたその時よりも、回復したはずの時期からおかしくなっていった。
時間や決まりを忘れ、寝過ごすようになった。会議や執務中にぼんやりとすることが増えていき、ろくな返答がこなくなり、皆がいぶかりだした中、ある日リルザは部屋中のものを叩き壊す。
その場面に最初に駆けつけたのは、クロースだった。荒ぶる心のままに壊された物の中で、自分を抱きしめてひざまづくリルザの姿が今も瞼裏に焼きついて離れない。
――リルザ。リルザ。
不甲斐なく震えそうになる自分を叱咤しながらその肩をゆすると、彼は額に玉の汗を浮かべたまま不思議そうにクロースを見上げた。
――クロース?
その時は、もういつものリルザだった。彼は自分の行動に自覚がなかったらしく、暴れた際に傷めたらしい自分の手や足に驚いていた。
それは、その時だけに収まらなかった。
やがて普段のリルザでいるときのほうが短くなっていく。今では時折、以前の彼に戻ることがある程度。クロース達は、そんなリルザを隠すように、新しい城へと移り住んだ。
「最後に起きていたのは、今年の税率を決めたときだ。晩秋だったな」
触れられない不安がある。言葉にしたら本当になってしまいそうに思えた。
リルザはもう、このまま戻らないのではないかと。
***
「つまんない……」
朝食を終えて、わたしは部屋のベッドでごろごろしていた。居心地についてはここ数日ですっかり改善して、満足している。自室として与えられたいくつかの部屋は、ろくな準備がされていなかったけど、日当たりだけはとてもよかったんだよね。気づいたときにはすっごくうれしくなった。
でもほかは何事もなく、何の変化もなかった。リルザ様からお声をもらえていないから誰ともしゃべれないし、あれから結局、食事はすべてひとりでとることになった。だだっぴろい階下の部屋に、わたしの分だけ用意された食事。朝も昼も夜も、呼ばれて、食べて、戻るだけ。
「どっか遊びに行こうよ。もう部屋の掃除はいいんだろ?」
華姫がうずうずしながら言う。確かに手を入れたいところはまだあるけど、あとはわたしひとりじゃ手に負えないことばかり。ここにはわたししかいないことになっているんだから、華姫に手伝ってもらって重たいカーテンを洗う、なんてことをするわけにはいかない。
「遊びにって、どこに? ここは青国じゃないのよ。ここじゃ、華姫と遊んでるとこを見つかったら、わたしも魔女として捕まっちゃうんだから」
「……それって、ボクはもう一生ユーラと外に遊びに行けないってこと?」
「うーん……里帰りしたときとか?」
「じゃあ里帰りしよう!」
「無理!」
即座の却下。華姫はぶうぶう抗議。そしてわたしは、いつもの無視。
息を吐きながら、またベッドで寝返り。
「……偶然でもいいから、会えないかなあ」
リルザ様の静かなまなざしや、ふくれた頬を思い出す。
リルザ様と会えたのは、あの夕食が最後。
掃除の合間にリルザ様を探してみているけど、見かけることすらできていない。務めは下がられているはずだし、城でゆっくりされてるのかと思ったのに。
もう何度も考えたことに飽きる。体を起こした。
「よし」
「お、どっか行く?」
「図書室の掃除をしよう」
「また掃除かよ!」
城をうろつくうちに、ぼろぼろの図書室を見つけたのだ。
場所はだいたいわたしの部屋の下あたり。これがまた立派で、造りもさることながら、蔵書の量も称賛に価するもの。なのにその立派な図書室は、長年放置されて訪ねる人すらいない、そんな荒れ具合。
本は好き。わたしはそう頭がいいわけじゃないし、難しくて読めないもののほうが多いのだけど、誰かの書いた文章を指でたどりながら、何度も繰り返し読むのが好きだ。
だから、あそこを掃除するのはきっと楽しい。荒れたものが元の姿を取り戻すのは、気持ちのいい作業だと思う。
「そうだ」
どうせならと、裁縫箱を取り出し、それから衣装箱をかきまわしていらない布を見繕う。裂いて、縫い合わせていく。
「なにやってんの、ユーラ」
「ずっと思ってたのよ、掃除しやすい服が欲しいなって。あの図書室、ここと比べ物にならないほどひどかったし」
「……ちょっと待てよ。まさか、そんなの着るのか?」
「どうせ誰も見てないもの」
この部屋の掃除は、不便でも、それなりに見栄えのする服のままでやっていた。もちろん誰かが訪ねてきたときのため。だけど見事にだーれも来ないんだ。クロース殿が規則正しく、食事に呼びに来るだけ。
長方形の布を半分にたたんで頭の部分をくりぬいて、脇を縫い合わせて。ズタ袋みたいなエプロンの出来上がり。白いシャツの上にかぶる。
「こっ、乞食みたいだぞ!? 街のヤツだってもうちょっとマシな格好してるだろ!」
「失礼ね、そこまでひどくない……と思うんだけど」
一着だけ持ってこれたズボンを合わせる。実家では結構履いていたんだけど、緑の女性ってズボンを履かないのよね。だから家を出るとき、家族や侍女に緑では絶対に履くな、そもそも持って行くな、って怒られた。
全身を鏡に映して、すそとか直してみたりして。……確かに、これはちょっとあれかも。あはは。
「だめだ、だめだめ! ボクのユーラがそんなみすぼらしい格好!」
「華姫、うるさーい」
余った布で、髪を覆える簡単な帽子を作る。編んでまとめているけど、汚すとあとが面倒だからしっかりかぶった。華姫の非難は無視無視。
さあ、大掃除第二弾、開始。
だいぶほこりを出したとき、ずっと手伝ってくれていた華姫が伸びをした。
太陽は天頂から少し西にいる。もうお昼だ。
「そろそろ休憩しよっか」
華姫がぱっと顔を輝かせる。
「ボク、外に出てくる! こんなとこずっといたら干からびそうだ」
言うが早いか、彼女は空を蹴り、その姿はあっというまに見えなくなってしまう。
「いってらっしゃい」
掃除ばっかりやらせちゃってたけど、彼女は誇り高き魔の眷族様だってことを思い出す。華姫との付き合いはもうすぐ10年。特殊な事情を持つ彼女がわたしの元にいてくれるのは、もっぱら彼女の好意だ。
かたまりはじめた腰を伸ばして、わたしも一息。日当たりのいい場所を探して、床にじかにすわった。
掃除中に見つけてきた本をめくる。抜いてきたのは、緑国の歴史の本の一巻と、この地方の民話集。
民話集の方は、副題で思わず手に取った。「バン・シー他」とあったから。
――バン・シーが泣いてるよ。
リルザ様は確かそう言った。
バン・シー。女の妖精で、別名泣き女。死が近づいた人間のそばで泣き、その死を知らせると言う。
あの時、誰か泣いていた?
そんなことはないと思う。泣き声なんてなかった。リルザ様には何が聴こえていたんだろう。
思いを馳せるには、彼はまだまだわたしから遠すぎる。
民話集は面白いものもあれば、物語の運びがあまりに今の時代と違って、読みづらいものもあった。
いくつか読み進むうち、心地良い疲れと日差しがわたしをまどろませていった。
***
誰かの泣いている声がする。
誰かが泣いているのに、おれはそれを見つけられない。
誰かの泣いている声がする。
見つけられないのなら、もう聞こえなければいいのにと思う。
見つけられないのは、相手が妖精だからかもしれない。
バン・シー。見つけて、その衣に触れれば、願いが叶うと言う。
それなら、おれは見つけてはいけない。
白い霧の中を歩く。
泣き声はどこまで歩いてもついてくる。どこまでも。
この耳がつぶれて聞こえなくなればいいのに。
それなら、おれの耳はつぶれてはいけない。
水のにおいに足を向けた。
霧の中に何かが見えた。地面に横たわる、あれは人か。
それとも、醜く、みすぼらしいと言われるバン・シーなのか。
あれは誰だ。泣き声が聞こえない。
死を報せるのをやめたのか。
誰かが死んだからか。
あいつが死んだからか。
つみびとは顔と声を奪われてころされた。
あの人間に首はついている?
息をしている?
***
唇に何かが当たった。
わたしはずいぶんと驚いたのだと思う。浅い眠りから乱暴に抜け出して、目を開けて、そして悲鳴を飲みこんだ。
わたしをのぞきこんでいた、青褐色の目。
無造作に切られた濃い色の髪、上等だけれど、くたびれた白の上着。
なにを言おうか、混乱しているうちに、リルザ様はわたしの唇に当てていた指先を引き上げた。体を起こす。
「生きてた」
……息を確かめていたの? 彼のつぶやきは、ひとりごとだったのだと思う。静かなこの場所、この近さだから聞こえる小ささだった。
起き抜けに飛び上がった心臓が、まだ休まらない。
名を呼ぼうとして、ひるんで止まる。
彼は手で自分の頬に触れ、その手を見た。それから頬をぬぐう。全部の動作が、とても静かだった。
「なにをしているの? そうじ?」
こくこく、大げさにうなずく。
「おまえひとりで?」
あんまり、表情がない。目にもあまり力がなくて、目の不自由な人のそれに似ていた。
口調はやさしい。どことなく、舌足らず。
「ひどいなあ。だれに言われたの、クロース?」
あれ?
なんで怒ってくれるんだろう。わたし、リルザ様にとても歓迎されてなかったと思うんだけど。
ひょっとして、わたしが誰かわかっていない?
ふくらんでいた気持ちが、一気にしぼむのがわかった。そうか。だから、声をかけてくれたんだ。
「くち、きけないの?」
やさしい問いかけに、否定しようとして、でも今はそういうことにしておこうと思い直す。
こんな状況でも、わたしが返事をしたら『夫が妻に声をかけ、妻は応え、夫婦と認め合った』ということになってしまうかもしれない。こんな、だましたようなかたちはいけない。
「おなか、すいてない?」
へ?
彼はわたしの答えを待たず、どこに持っていたのか小さな包みを床に広げ始めた。
野菜がたっぷりはさまれたサンドイッチと、お肉の燻製。綺麗な黄色のオムレツに、デザートらしいイチゴ。とてもおいしそう。
「ホプタスのオムレツは最高なんだ。この燻製は、ドド爺の得意なやつ。イチゴは朝摘んできたんだって言ってた」
ずいっとわたしのまえに押しやる。
「たべていいよ」
彼はわたしをじーっと見つめている。戸惑ったけど断ることも考えられなくて、指先をエプロンで拭ってから、食べやすく切られたオムレツの一切れを口に放りこんだ。……おいしい。
甘い味つけのやわらかなオムレツが、すっと癒すように胃に落ちる。
そんなわたしを見ていた彼は、更にお弁当をわたしに向かって押し出してくる。
「ぜんぶたべていいよ」
あわてて首を振っても、彼は引かない。
「おれ、あんまり食べないんだ。持って帰るとまたホプタスが悲しむし、クロースにも怒られるし」
一瞬、かわいそうな使用人に食べさせるためのやさしいうそなのかと思った。
少し考えた後、わたしは両手にひとつずつサンドイッチを持ち、片方を彼に突きつけた。
「なに? おれ、いらないよ」
わたしはサンドイッチを下に戻し、そっぽを向いてみせる。
「……おれが食べないと食べないってこと?」
返事をせず、じっとそのまま待つ。彼は観念したようにサンドイッチを手に取った。
思わず笑う。自分の分のサンドイッチを手に取った。
イチゴも半分こして、お弁当はきれいになくなった。
食いしん坊のわたしには全然足りなかったけど、気持ちはいっぱいだ。だって、リルザ様とお昼を食べてしまったんだもの! わー!
でもこのお弁当。ひとり分にしては少ない。女性用にも足りないくらいだ。
王族にお弁当なんてのも変だけど、もし持たせるなら、それこそたっぷり詰め込むと思う。残して捨てるよりも、足りないほうが問題だもんね。
リルザ様の生活を知らないけど、多分、昼食の時間には現れないんだ。
だからお弁当を持たせる。でも彼は食べず、捨てもせず、そのまま返す。だからこれを作った人は量を減らしたんだろうけど、王族つきの料理人にそうさせるってことは、それだけ長く繰り返されたんじゃないかな。着丈だけが合って、ゆるく余ったリルザ様の服を見る。
その彼が食事をしてくれた。妻の(認められていないけど)わたしとしては快挙じゃないだろうか!
ひとり悦に入っていると、彼はこてんと床に寝転がった。え?
わたしがあわてているあいだにも、顔を隠すように、体を小さく小さく丸める。苦しそうな様子はない。まさか、寝ちゃうの? こんな場所で、タイミングで?
邪魔するわけにもいかないし、どうしていいかわからなくて、ただぼけっと見守る。
リルザ様は、ゆっくりと呼吸を静かにさせていった。
物音が消えていく。これまで目がとらえていなかった、光に舞う埃が現れだす。自分にだけ聞こえる自分の呼吸の音が、とても無粋。彼の静寂を破ってはいけない。
向けられた背が愛しい。少し悲しくもなった。今のわたしが、みじめじゃないとは思わない。
でも、嬉しいんだからしかたないね。
リルザ様。
わたし、ずっとあなたに会いたかった。
立ち上がり、華姫に大不評のエプロンを脱ぐ。少し離れてほこりを落としてから、リルザさまにかけた。足りないなあ。これじゃもし冷えても、彼をあたためることはできない。
お弁当のかごを包み直して、その場に置く。掃除用具をまとめて、そっとその場をあとにした。
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