アオイユキ

Phantom Cat

1

 最後にかまくらを掘ったのは、もう何年前になるだろうか。


 子供の頃のとある事件がきっかけとなって、それ以来僕がかまくらを掘ったことは一度もない。しかし、最近娘がどうしてもかまくらの中に入ってみたい、と言って聞かないのだ。


 大学の四年間以外、生まれたときからずっとこの豪雪地帯に住んでいるが、今年は雪が少なく1メートルくらいしか積もっていない。いつもなら当たり前のように2メートル以上積もるのに。まあでも、かまくらを作るには十分だろう。


 昨日、家の庭に雪を積み上げて僕の胸の高さのドームを作り、水をかけておいた。そして今日は快晴。放射冷却で見事に表面が凍っている。

 スコップでドームに横穴を開け、さらに居住スペースを掘り抜く。それほど大きなものではないので、一時間ほどでかまくらは完成した。


 居住スペースは大人二人が余裕で横に並んで座れるくらいの広さ。そこにアルミのレジャーマットを敷いて、早速腰を下ろす。


「ふぅ……」


 こうしてかまくらの中にいると、気づくことがある。


 雪は、青い。


 そう。雪は白いだけじゃない。実は青く見えることもあるのだ。これはたぶん雪国に暮らした経験がなければ分からないだろう。決して空の青が透けているわけではない。曇りの日でもそうなるのである。


 なぜそうなのか。子供の頃はその理由が分からなかった。それは僕が物理に興味を抱くきっかけとなり、大学で物理学科に進んだ僕は高校の物理教員となって今に至る。


 もちろん今ならその理由も明らかだ。ヒントは、青く見えるのはかまくらの天井や壁、ということ。それらを構成している雪の中を透過してきた太陽光は、赤い波長成分が氷の分子に吸収されている。だから結果的に青い光しか見えない。これはダイビングすると海の中が青く見えるのと同じ理屈だ。ちなみに空が青いのは全くメカニズムが異なる。あれは空気分子などのレイリー散乱によるものだ。それはともかく。


「……」


 こうしていると、思い出す。


 初恋の、あの子。


 僕が初めて自分で掘ったかまくらの中で、隣にいたのはその子だった。そして彼女は、こう言ったのだ。


%%%


「ねえ、しょうちゃん。わたしの目がおかしくなっちゃったのかな?」


 そう言って、由希姉ゆきねえは不思議そうな顔をぼくに向ける。「姉」とは言うものの、彼女とぼくは同学年だ。それでも実際のところ四月生まれの彼女と三月生まれのぼくは1才近く離れている。向かいの家に住んでいる彼女は、物心ついた頃からぼくよりも背が高く体も大きかった。しかも、最近さらに彼女の背が伸びたようだ。一緒にいると、やはりどう見ても姉弟だった。


「え、どうしたの?」


「なんか、かまくらの壁も天井も、青く見えるの。雪だから白いはずなのに」


「……」


 確かに、由希姉の言う通りだった。


「ぼくも、青く見えるよ」


「よかったぁ……」彼女が胸をなでおろす。「わたしの目がおかしくなっちゃったのかな、って思ったよ。でも、しょうちゃんもそう見えてるのなら、わたしがおかしくなったわけじゃないんだよね?」


「たぶんね」


「なんで青く見えるんだろうね」


「そんなの、わかんないよ。曇ってるから、空の色が透けてるってわけでもなさそうだし」


 初めて掘ったかまくらは、子供が二人密着して座るのが精一杯の広さ。そして……ぼくは、由希姉とのその距離に、ドキドキさせられていた。


 由希姉は女の子。そして、ぼくは男の子。いつからそんなふうに意識するようになってしまったんだろう。たぶん、この気持ちは……好き、ってことなんだと思う。


「だったら、おじさんに聞いてみてよ。それで、わかったらわたしにも教えて」


 眼の前の由希姉が、ふわりと笑う。ぼくは昔から彼女のこの笑顔が好きだった。彼女の言う「おじさん」とは、ぼくの父さんのことだ。中学で理科の先生をしているから、確かに父さんなら知っているかもしれない。


「うん。いいよ」ぼくも笑顔を返す。


 いつも仲良しで、頼りになるお姉ちゃん。これからもずっと由希姉と一緒にいられたらいいな。でも、この町では中学も一つしかないから、少なくともあと五年くらいはそうなるはずだよな。


 その時のぼくは、そんなふうに思っていた。


---


「おはよう、しょうちゃん。わたりに行こうよ」


 冬の終わりの、よく晴れた日曜日。由希姉がぼくの家の玄関にやってきた。「凍み渡り」というのは、この時期のよく晴れた朝にしかできない、雪国の楽しみの一つだ。


「え、そんなに凍みてるの?」


「うん。もう、カッチカチだよ」


 2月も下旬になると雪はあまり降らなくなり、日中の温度が上がって積もった雪も解けては凍りを繰り返し、シャーベットのようになる。そして、晴れた夜は放射冷却で一気に気温がマイナス2〜3度になるので、次の朝は雪がカチカチに凍っているのだ。そんな雪は、その上を普通に歩けるようになる。真冬ならカンジキがなければ足が潜ってしまって、とても歩けないのに。


「そっか、それじゃ、行こうか!」


「うん!」由希姉が笑顔になった。


「母さん、ぼく、由希姉と凍み渡りに行ってくる!」


 居間を振り返って声を上げると、母さんの大声がすぐに返ってくる。


翔馬しょうま! あんまり遠くに行っちゃダメだよ!」


「分かってるよ!」


---


 そこは、まさに異世界のようだった。


 とは言え、もちろん道から見ればそれは見慣れた雪景色だ。でも今は田んぼも畑も山も、夏ならとても歩けないような深い草むらや小川さえも、堅く締まった分厚い雪の下になってしまっている。そしてそこからの景色は、いつもならまず見ることができないものばかりだ。


 テンションが上がったぼくらは雪の上を飛び跳ねるように走った。道なんか完全に無視して、棚田の真ん中だろうがなんだろうがかまわず突っ切り、家の裏山をひたすら駆け抜ける。どこまでも、どこまでも行けそうだった。しかし。


「はぁっ……はぁっ……由希姉、ちょっとタンマ」


 さすがに息が切れてきた。両ひざに両手をついて、ぼくは激しく白い息を吐き出す。


「なによ、しょうちゃん……だらしないなあ。もうへばったの?」


 苦笑いしながらそう言う由希姉も、少し息が荒くなっていたようだが、ぼくのように動けないほどじゃないらしい。まったく、体力あるよな……


「ま、いいわ。かなり上まで来たもんね。ここでちょっと休憩しようか」


「うん」


 ぼくらは並んで雪の上に腰を下ろす。真っ青な空。眼の前には大雪原が広がっている。冷たいかすかな風が、ほてった頬に心地よい。


 そこは、裏山のほぼ頂上だった。デタラメに走ってきたけど、まだ僕の家が見える範囲だ。この先、山を超えてその向こうに行ったりするのはさすがにダメだろう。


「ねえ、しょうちゃん」


「ん?」


「しょうちゃんはさ……わたしのこと、どう思ってるの?」

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