《黒い岩》のウシュラーラ Öšlāra Ődiša

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蒼穹 Nań'nā


 バザガーニ族は古の魔法の王国の末裔である。争いにより滅亡した先祖と同じ轍を踏まないために、彼らは神の名に鍵をかけ、魔法と文字を捨て、《白い砂漠》に幾つかの集落を作って暮らしていた。バザガーニとは【書かぬ者たち】を意味する。


 《黒い岩》は彼らの集落の一つで、砂漠の南方に位置する。かつて征服者が砂漠に映える宮殿を作ろうと考え黒大理石を大量に運びこませたが、戦が起こり実現されなかった、その廃墟を利用した村である。近くに大きな《行商人の道》が通っているので旅人がやってくることも多い。


 乾季の終わりの満月、村人たちは作りかけで打ち捨てられた集会所にやってきた。絲杉のように背の高い黒い柱が並び、天井が欠けて風にさらされた部屋は中庭のようになっている。砕けた胸像は歳月とともに輪郭を変えながら人々の生活を見守っている。

 みなで祭壇の周りに集まって、赤子の名付けの儀が始まろうとしていた。

 この儀式は祈祷師によって執り行われる。祈祷師の一族はみなレディヤ【鍵】と呼ばれ、一つの村に一人か二人住んでいた。彼らは例外として幾つかの文字、シンボルを記憶しており、それによって精霊と赤子の絆を結び、力を授けるのである。そして人は与えられた力の名を名乗った。

 この夏に生まれた赤子は三人。それぞれの家族は落ち着かなげに儀式を見守っていた。

 その母親の一人であるウシュレトは【橋】、人々の橋渡しを担う名を持つ──もっとも、この名を持つ者は多いのだが。ウシュレトが抱いているのは彼女の姉の息子、エルナンナである。

 エルナンナの母の力はケイレーと呼ばれていた。【車輪】とか【運命】という意味を持ち、戦の英雄などが持っているような名前だ。能天気なウシュレトに比べ、ケイレーは激しい性格で、糸紡ぎや機織りなどの仕事を嫌い、古の歴史や村の外の世界を知りたがっていた。近くで話を聞いている分には面白かったので、ウシュレトは姉のことが好きだった。


 ケイレーは夫のセヴラー【甕】をあまり気に入っていなかった。彼は悪い男ではないが平凡な人物だった。姉はもっと特別な、自分にふさわしい男を求めていた。

 二年前、ケイレーは夫を裏切りよその男を愛し、村から出て行こうとしているところを捕まった。

 姦通は死に値する罪である。しかしケイレーの行いが発覚した時、彼女は男の子どもを孕んでいたので、その罰は出産まで持ち越しとなった。姉は村の端に隔離され、ウシュレトは彼女の世話のためついて行った。許しがたいふるまいに村人たちは驚愕していたが、ウシュレトは姉さんディネーなら大昔の英雄譚みたいなことをするに違いないと思っていたため、驚きより納得というか諦めが優っていた。そして死罪を宣告されてなお、姉はどうにかしてこの状況を打開するとなんとなく信じていた。

 よその男については、何しろよそ者なので意見が分かれた。結局、彼らの子どもは自分の運命を選べないのだし、生まれた赤子は男と共にこの地を去ることが決まった。だが、男は子供の誕生を待たずに瓦礫の中で足を滑らせて死んだ。ウシュレトは見に行かなかったが、村人がゴルチャカに吸われた男の骸を確認した。

 ケイレーは産褥で死んだ。ウシュレトは悲しみと驚きを味わった──姉さんディネーがそんなことで死ぬなんて! もちろん彼女は出産が簡単だなんて思ったことはない(とはいえ、ケイレーは悪阻もほとんどなく、それで悪阻をちょっと舐めていたウシュレトは今回の妊娠で相当つらい思いをした)。彼女は、姉がそんなありきたりな死に方をするとは思っていなかったのだ。


 生まれた赤子の名はエルナンナと宣言された。【天罰】、もしくは【霹靂へきれき】を意味する。そんな名前は誰も聞いたことがなかったが、両親に降りかかった災厄こそが赤子の力であるとみなされた。


 バザガーニ族では親の同性のきょうだい、つまり父親の兄弟や母親の姉妹は親と同等であり、またその子どもである平行いとこはきょうだいとなる。

 姉が死んだことにより、ウシュレトは突然独り身の母となってしまった。決まり上、結婚したことのない女は子どもを育てられないため、彼女はセヴラーと結婚することになった。ウシュレトは誰とでも上手くやる自信があったので結婚相手にこだわりはなかったが、【天罰】を恐れて手を差し伸べる男なんて、そりゃあ姉さんに好かれるはずないわと思った。ともかく、悪い男ではないので彼女はありがたくその手を取ったのだった。

 セヴラーを含め、村の者たちはエルナンナを恐れていた。ウシュレトは姉の妊娠中一緒に過ごしていたことに加え、あまり深刻にならない性格だったので、こんなふにゃふにゃの赤子を怖がるなんてちゃんちゃらおかしいと内心思っていた。しかし周囲のピリピリした空気に負けて乳の出る女たちに声をかけるのが憚られたので、赤子は山羊の乳で育てねばならなかった。彼女は赤子をナンナー、【天】【蒼穹】と呼ぶことにした。特別な名を避けるとかそういう意図はなく、ただ省略しただけだ。バザガーニ族は名前がかぶることも多くみんなあだ名を持っていたので変わったことでもない。


 ナンナーが生まれて六ヶ月後、彼女自身も子を孕み、そしていまに至る。



 【鍵】たちの指が山羊革の太鼓を弾き、琵琶ウードの弦を爪弾く。彼らは歌わない。彼らが記憶しているものは災いを呼び起こすので、言葉にしてはいけないのだ。彼らが語るのは力の名のみ。

 やがて、ウシュレトとセヴラーの息子の力が宣言された。


「【ウシュラーラ】」


 ウシュレトは息子が自分と同じ力を得たことが嬉しかった。彼女は身近に特別な名を持つ姉がいたからこそ平凡な名に幸せを見出していた。力は色々なものと結びついて、弱い者は絡め取られてしまう。もちろん彼女だって息子は強く育って欲しかったが、人の器から溢れるほど強くならなくていいと思っていた。

 名前が決まったら、みなで名にまつわる歌を歌う。【橋】の力はよく現れるため歌の種類もいくつかあった。ウシュレトは夫に聞いた。


「私が決めてもいい?」


 彼が頷いたので、ウシュレトは言った。


「『水道橋』を」


 村人たちは少しざわついた。【橋】の名付けでこの歌が選ばれるのは珍しかった。ともあれ、よく知られた歌ではあるので、人びとは足を踏み鳴らし手を叩いて歌い始めた。


 《夜明けの丘》から響く楽の音

 白い石橋が琵琶ウードの弦のごとく伸びる

 水路から 水場から 

 その旋律が聞こえる

 地下水を呼ぶ者よ

 その声が絶えることのないように


 夕されば 星々が語る古の詩

 白い風がヴェールのごとく街を覆う

 没薬の煙に 香草茶の湯気に

 その言葉が記される

 月長石の眼の夜鷹よ

 その眼差しが永遠に我らに注がれるように


 夜も更けて 壁に踊る灯籠の影

 白い(澄んだ)地下水は静脈のごとく大地を廻る

 枯れた井戸が ひび割れた畑が

 汝の歌で目を覚ます

 汚れなき美の司よ

 欠けぬ望月となり我らを守りたまえ



 儀式が終わると、赤子たちを囲んで豪勢な晩餐会が開かれた。息子はこれだけちやほやされたら今夜はぐっすり寝てくれそうだなとウシュレトが考えていると、ナンナーがぐずりだし、周囲がそわそわし始めた。ウシュレトは少しいらいらした。まだ二歳半なんだからぐずるなんて当たり前でしょ!(※注:バザガーニ族は生まれた時点で一歳と数えるので、彼が生まれてから一年半である)

 彼女は夫に言った。


「ナンナーと外に行ってくるから、ララをよろしくね」

「ララ? あの子の呼び名?」

「さっき決めたの」


 ウシュレトは外に出て、賑やかな歌や音楽が遠のくまで歩いた。どうせララはまだ母親が近くにいるかなんてよく分からないのだし、今日は特にみんなが構ってくれるだろう。

 月の光の下、彼女はナンナーの命名の儀式を思い返した。その季節に生まれた子が彼しかいなかったのも良くなかったのかもしれない。人の集まりも悪かったが、力の名が宣言されるや否やみな恐れに口をつぐみ、そそくさと家に帰ってしまった。

 誰も彼のために歌わなかった。

 珍しい名付けがされた時、歌の得意な者が即興で一曲作ることがある。大抵は既存の歌の一節を利用したものだ。 「雷が出てくる歌なんてたくさんあるのに!」と思いながら、ウシュレトはひとりで息子に歌いかけながら家に帰ったことを覚えている。

 集会所から歌が祝いの響いてきて、ナンナーは出てきたばかりの黒い建造物を振り返った。彼は大人しい赤子だったが、歌を聴くと真似をしてあうあうとよく喋った。


「お前はきっと姉さんみたいに歌が上手くなるわ」


 彼の父親は鋭い印象の男でなんとなく近寄りがたく、ウシュレトはあまり話さなかった。ケイレーは男から文字を習っていて、村の年寄りたちは彼女を非難した。災いを呼び寄せる、と。

 男も美しい声を持っていた。姉は彼を【星】と呼んでいた。

 ウシュレトは小さな声で歌い始めた。



 運命ケイラーが星々を従えて歌う

 汝の足で進め 同胞はらから

 竪琴を持ち 薔薇の都へ向かえ


 我らの天幕は焼け 陽を遮らず

 我らの酒甕は割れ 渇きは癒やされず

 我らの太鼓は破れ はなむけの響きもない

 故郷に残るのは塵ばかり


 運命ケイラーが星々を従えて歌う

 汝の血を燃やせ 同胞はらから

 沈黙と契り 薔薇の都を慰めよ


 彼らの砦は崩れ 守るものもなく

 彼らの宝は毀たれ 輝くこともない

 彼らの井戸は毒され 涙も流さない

 月が照らすのは墓ばかり


 戦を連れ去れ 霹靂よエルナンナ

 忌まわしき者どもを裁け

 雨を呼べ 霹靂よエルナンナ

 大地から嘆きを拭い去れ

 我が弦に囁け 霹靂よエルナンナ

 【かの調べ】を奏でよ


 姉が好きだった凱歌だ──凱歌と呼ぶには悲壮感が過ぎるが。歌の一部は禁忌の神の名が含まれるため、不明瞭な代名詞に置き換わっている。

 歌に誘われて、ゴルチャカ(※2章参照)たちか寄ってきた。彼らは人の言葉を学ぶこともあるが、自分たちの言語は持たない。しかし発声自体は好きらしく、歌を聴くとでたらめに歌い始めるのだ。


「ふるるるるるる!」一頭のゴルチャカが言った。

「赤ちゃん!」別の一頭が言い、眼窩の翅をパタパタさせた。

「そう、ナンナーよ」とウシュレト。

「ナンナー」

「はちみつ、ある?」最初のゴルチャカが宴会の方を見て言った。

「たぶん。向こうで聞いてみて」とウシュレト。

「るんた」と歌いながらそいつは去って行った。


 もう一頭はナンナーがばぶばぶ言うのを真似して「ぱぱぱぱ……」と呟き、赤子は笑った。

 ウシュレトは黙ってそれを眺めた。ゴルチャカに人と同じような感情があるのか分からないが、人よりずっと優しい生き物だと思う時がある。


「おまつり?」ゴルチャカがウシュレトに言った。彼は多少人々の風習を覚えているらしい。

「そう、赤ちゃんに名前を付けるの」

「ナンナー」

「ああ……この子のじゃないのよ」

「ほー?」


 ゴルチャカは少し頭を捻って考えていたが、気にしないことにしたらしく、再びナンナーに顔を向けた。


「だ・だ・だな・だだん」ゴルチャカは聞こえてくる歌に合わせ、軽く足を踏み鳴らしながら口ずさんだ。

「ダナ」ナンナーが口真似をした。


 ウシュレトは笑みをこぼした。

 彼女はナンナーに囁いた。


息子パルハよ、お前はダナになったのよ」








●注

ウシュラーラ/ウシュレトは性別の違い。

ウシュレトのあだ名はシュシュ。

歌の中でケイレーではなく運命ケイラーなのは、基本的に男性名詞として使われるため。

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