私と花と君と
みとたけねぎ
プロローグ
未だに、夢に見る。
「ピアノコンクール小学生低学年の部、入賞、
自分の名前を呼ぶアナウンスの声。客席から舞台に上がる階段を踏みしめたときの軋む感覚。暗いホール内に差す、舞台を照らす温かな照明。表彰状を受け取ったときにもらえた、たくさんの人からの祝福の拍手によって流れた涙の味。
夢の中だけど、追体験のように、すべてが鮮明に映る。あのときの興奮も高揚も幸福も、全てが今、私の手の中にある。
「お母さん!」
この喜びをお母さんと共有したくて、声が弾む。
「私、入賞したよ! はじめてのコンクールで、表彰状もらえたよ!」
表彰状を高らかに掲げる手に力が入る。
早く。早く見て欲しい。この表彰状を、私のことを。
「ねえ一香」
だけどお母さんの目は、私を視界の端に一瞬だけ捉えた後、少し離れたところにいる、人と花束に囲まれた私と同い年くらいの女の子に向けられた。
「あっちの金賞を獲った子、同じ教室に通ってる子でしょ?」
「え? あ、うん」
「凄いわねえ」
このとき私は、まだのんきに信じていた。金賞はたしかにすごい。だから先にそっちを褒めて、そのあとに私を見て、入賞も褒めてくれる。頑張ったねって言ってもらえる、と。
「しかも通い出したの、同じくらいの時期じゃなかったかしら? ていうことはまだ始めて一年弱でしょ?」
「う、うん、そうだね……」
「教えてもらえる時間も一緒なのよね? 三十分を月に二回。それだけの指導量なのに、金賞を獲るなんて、才能あるのねえ。お母さん、思わず隣にいた人に話しかけちゃった。金賞のあの子、まだ始めたばかりなんですよ、って。それで金賞なんて、本当凄いですねえ、って」
「あ、あのお母––––」
止まらないお母さんに、表彰状は私の膝を向く。なんとか止めようと呼びかけるけど、音にかき消されて最後まで発することはできない。
ピアノの音。
私の耳だけに聴こえる、綺麗なピアノの音。
一音ずつ丁寧に打鍵される音が、集まり、重なり、厚みを増す。
やめて。鳴らないで。止まって。邪魔しないで。
耳を塞ぎたくて仕方がないのに、叫びたくて仕方がないのに、私の身体は凍ったように動かない。祈りは私に滞留する。ピアノは止まない。音は紡がれ、音楽へと変わる。
流れるのはいつも、私のじゃなくて、母が褒めた、金賞を獲ったあの子の演奏。
残酷なほどに美しい演奏。うるさい。心地よい滑らかな演奏。うるさい。母やみんなに、褒めてもらえた、認めてもらえた演奏。うるさい……。みんなに見放されることがない、存在。
うるさい!
不意に音が止んだ。祈りが通じたのだと私は安堵する。
しかし次の瞬間、母の口の形を見て思い出す。
いつもこうだ。私も母も、同じ展開をなぞるだけ。ピアノの音だって、展開通りに消えただけ。気づいたときにはもう遅い。止めることはできない。
「一香も次は頑張りなさいね」
何度も見ている夢だから、知っているのに。思い出したくないくらい記憶にこびり付いているのだから、分かっているのに。
私はこの言葉に引き裂かれる。
なんで。
どうして。
たしかに一番じゃなかったけど。
でも、私だって、はじめてのコンクールで、賞をもらったんだよ。
練習の成果、ちょっとは評価されたんだよ。
そんなに、頑張ってないかな。
だめだった?
私の演奏、感想を言ってもらえないくらいだめだった?
見向きもしてもらえないほど、だめだった?
私の頬には色もなく、味もしない、ただの透明な液体が流れていた。
それを拭う手は、小さかったあの頃の手ではない。月日が流れて、高校生になった、今の私の手。
さっきまで母の横に並んでいたはずの私は、今は対峙する位置で、二人を見つめている。
母と、幼い自分。
母に自分を見てもらえなかったことが悲しくて、辛くて、悔しくて。
本当は夢の中みたいに泣きたかったはずなのに。私を見てよと怒りたかったはずなのに。
その選択をしなかった自分。
「うん。次は……見てもらえるように、頑張るね」
母に向けたはずの言葉は、夢の中だと私の耳元で囁かれる。
狭く真っ暗な空間に、言葉だけが木霊する。
そうして私は夢から現実に戻る。
今でも夢に見る、この件がきっかけだった。
他人の私に対する〝期待〟が読めるようになったのは。
香りがするのだ。
花のような、ほのかな香りが、その人が期待することを、私に教えてくれる。
これが異能力的なものなのか、人間観察力が成せるものなのか、私にはわからない。
だけど、どっちでもいい。
またあんな思いをするくらいなら。
もう私を見てもらえない悲しさを呑み込まなくて済むのなら。
私は、この力を利用して、期待に応え続ける。
母だけではなく、私に関わる、すべての人の期待に、応え続ける。
誰にも見放されない、自分になる。
みんなが望む私を、演じ続ける。
それで私を、見てもらえるのなら。
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