赤月の懸かる夜

 そこは、数多のビルが天蓋を衝く様に乱立しているビル街にポツンと控え目に存在している、二階建ての事務所の前であった。


 例によって、その周辺には人の気配と言う物を微塵も感じる事が出来ない。


「――流石、イタラ=クルクエス様だな。その結界術を分けて貰いたい」


 そう感情の機微が分かりにくい独特な声音で言葉を発したのは、手中にあった魔の羊皮紙を使用したルヴニールであった。


 その未知の言語が記述されている羊皮紙に魔力を込めれば、それは役割を果たしたかの様に灼然とした火炎に包まれて焼失した。


 それを合図にビル街を取り囲む様に大規模な結界が展開される。


 これにて、開戦の準備は整った。


「――カルティスト共、我からの餞別だ。ありがたく受け取れ」


 ルヴニールが切れ長の鋭い灼眼を事務所に向けてそう言い放つと、ルヴニールの手中に空間を暴力的に支配する燐光を放つ紅炎が立ち昇り、それが事務所に向けて轟音を立てて放たれる。


 ――瞬間、凄絶な魔力を迸らせる紅炎が事務所に容赦なく叩き付けられれば、刹那に光が瞬いて、蒼穹の天蓋を衝く様な火柱が事務所全体を呑み込んで行く。


 一気に空間を紅に染め上げる極大の火柱は、凄絶な爆音と壮絶な爆炎を伴って事務所を吹き飛ばして、周辺にも致命的な破壊を敢行して行く。


 その周辺を溶解させながら顕現する破壊の体現は遂にその勢いを弱めて行き、光が消え失せたその場に立っているのはルヴニールだけでは無い。


「――人の事務所を急に爆破するとか、『ホコタテ団』ではどう言う教育してるんですかねぇ? まぁ、この状況を仕組んだのは僕なんですけどね」


 壮絶な爆炎による噴煙や黒煙を纏う疾風で吹き飛ばして、悠然とした様子でその場に立っているのは、一人の男であった。


 その人物は整った顔貌に明暗の暗い短い茶髪を持っており、怪しく輝く黄金の瞳は糸の様に細められている。


 その身長は平均よりも低く見えるが、その体格は確かな研鑽の跡が見える恵まれた物だった。


 紫紺の色をした格調高いローブを身に纏った人物は、その軽薄さを孕んだ不気味な笑み浮かべて、ルヴニールに名乗りを上げる。


「――八坂飛乃です。ここら辺一帯の『空虚なる黄昏教団』を束ねている者です。いやぁ、まさか人質が居るかもしれない建物を爆破するとは……思わず笑いましたよ。ねぇ、ルヴニールさん?」


 礼儀正しく礼をして名乗りを上げた八坂と言う男は、正気を失った慄然とした狂気を持つ瞳でルヴニールに問い掛ける。


「……失念していた。ここにサントが居たら、マスターに殺されていたな。だが、その言い方だと、ここに神楽愛咲は居ないんだな」


 正直、かなり致命的な失念であるが、ルヴニールのいつもの調子を一切崩さない。


「……あぁ、そんな名前でしたね。その通り、ここに目標はありません……フフッ、僕は運が良い。まさか、目標のルヴニールが自ら来てくれるとは……まぁ、『八咫烏』の介入は予想外ですけどね……チッ、間が悪い」


 濁流の様に吐き出される八坂の言葉であるが、それを鼻で笑ったルヴニールが堂々と言い放つ。


「――御託は良い、サッサと話せ。不愉快だ」


 怒りと不快感に眉を顰めるルヴニールの語気の強い言葉に、八坂はつまらなさそうに、


「はいはい、貴方みたいな魂が薄汚れたアンデッドに対話は荷が重いですか。なら簡潔に。『ホコタテ団』、厳密に言えば神喰朔人かルヴニール、貴方達は僕達の組織の人間を殺害しました。その“お礼”に神楽愛咲を利用して、貴方達をここに誘い込ませて貰いました。理解出来ましたか? ――組織の人間を殺してただで済むと思っているんだったら、甘いのは貴方の方ですよ」


 その軽薄さを孕む不気味な笑みを完全に消して、ドスの利いた底冷えする様な低い声で威圧する八坂に、ルヴニールキョトンとした顔をした後に少し含み笑いをしながら犬歯を見せて凶悪な笑みを見せる。


「――ハッ、貴様らは猿の様な出来の悪い烏合の衆だと思っていた。まさか、仇討ちなんて人間みたいな事が出来るとは。悪い、認識を改めさせてくれて助かるよ。ありがとう」


 残酷な嘲笑を伴ったルヴニールの八坂を虚仮こけにした声が響く。


 その声音に秘めているのは、脳を衝く義憤の感情である。


「――貴方、ムカつきますね」


 ――瞬間、八坂が腰に差した長剣を抜き放って、ルヴニールとの間合いをゼロにしていた。


 八坂が刹那の内に間合いを詰めて、ルヴニールに暴風の様な銀閃を放つ。


「――『神様の言う通りエヴァンジル』」


 吹き荒ぶ銀閃の嵐をルヴニールは唐突に手の内に出現する長剣で対応する事にする。


 ――それは、命を奏でて綾なされる、生と死を謳う超越の剣戟だ。


 八坂の放つ凄まじい斬撃の嵐を、ルヴニールは冷然とした無表情を張り付けながら、次々と打ち落として行く。


 鋼が打ち合わされる甲高い金属音を鳴り響かせながら、互いの一挙手一投足が死へと至る苛烈な剣戟を展開する。


 八坂の大気を鋭利に切り裂く横薙ぎの斬撃、それをルヴニールは長剣の刀身で受け止めて、金属音を鳴らして弾き飛ばした後、よろける八坂の間隙に左の拳撃を打ち込む。


 凄絶な轟音を鳴らして炸裂するルヴニールの拳撃に、八坂は凄まじい膂力に後方に吹き飛ばされて、毬の様に跳ねて行く。


 口の端から血を流した八坂が体勢を整えて目の前を見ると、既に八坂に追い縋ったルヴニールが長剣の銀閃を放つのを目撃する。


 その胴を斜に切り裂こうとする銀閃を刀身で受け止めた八坂は、余りの威力に後ろに後退りしながらも、ルヴニールの長剣を弾き飛ばして、致命的な隙を見せるルヴニールの胴を袈裟に切り裂く。


 夥しい程の鮮血を噴き、胴を袈裟に斬られて仰け反るルヴニールに、返す刃でその喉元を切り裂いた八坂は、そのままの流れで蹴り付けて距離を離す。


(これは銀の剣か。再生が上手く行かない……)


 ルヴニールは吸血鬼、邪気を持ったアンデッドである為、銀などの聖なる物体で攻撃されれば、通常よりも高いダメージを受け、再生能力が低下する。


 胴と喉を切り裂かれたルヴニールは蹴られて八坂との距離を強制的に離されるが、そんな事をお構いなしに八坂の元へ突貫を仕掛けようとするが、


「――言ったでしょう? おびき寄せたって。罠は仕掛けて然るべきですよ」


 八坂の凶悪に歪む口元から放たれる言葉に従って、彼を中心に凄絶な魔力が吹き荒び、卓越した魔術が展開される。


 八坂を中心に世界の理が致命的に歪んで行き、それは確かな意味のある感覚として昇華して行った。


 それは八坂を中心に展開される結界の類であった。


(……体が思うように動かない。これはデバフの類だろうか。直接こちらを襲撃をせず、ここに誘き出した意味はあったと言う訳か)


 ルヴニールは自身の体に異常な重さを感じる。

 

 その異質な重量によって、ルヴニールの体は思うような行動を妨げられていた。


 当然ながら、この結界を展開した八坂はこの影響を受けていない。


(ただでさえ今は日光が出ている……この結界と合わせて力が出しにくいな)


 ルヴニールは一般的な吸血鬼ではない為、日光が致命傷にはならないが、力が出しにくくなってしまうのは事実である。


 ――ならば、どうするか。


「どうですか? 僕からのプレゼントは? 日光も相まってキツイ――」


「――黙れ、我を雑多な吸血鬼と一緒にするな」


 八坂の嘲笑った様な言葉を半ば中断させたルヴニールは、何かを言おうとする八坂を無視して、異質な魔術を発動させる。


「――『暗夜に落ちるクレプスキュル』」


 ――次の刹那、燦々とした日輪が懸かる天は、黒いインクをブチ撒けたが如く黒色に染まっていた。


 ルヴニールが魔の詠唱を唱えて、左手の指先に発生する赫々とした光を天空に向けて放ったと思えば、一気に蒼穹の水色は黒の色に塗り返されていた。


 暗闇に落ちるビル街には一切の日光は差さず、日輪の代わりに天に存在しているのは、血で染まった様な紅の満月であった。


 皆既月食の暗夜に落ちたビル街には、心に影を差す暗澹とした暗闇が満ちていた。


 その常軌を逸脱した魔術の発動に、八坂は流石に面食らって目を見開いてしまっているのだが、直ぐに微笑を取り戻す。


「……本当に腹立たしいですねぇ……ぬか喜びをさせるとは……」


 八坂は偶然にも結界のデバフと日光が重なり、存外の幸運に身を震わせて喜んでいただろうが、その要因の一つはもう既にルヴニールが排除してしまった。


「驚いていないで、サッサと掛かって来い、空っぽニンゲン。貴様の在り方は醜い。我は人間の意志の力を何よりも信じている。貴様にはそれが無い。我は弱くても、悩みながらでも、未来へ進もうと奮起するマスターを肯定する。それが、我が貴様と戦う理由だ」


 深い闇夜の深淵に、ルヴニールの紅の瞳が炯々と光を放つ。


 ルヴニールは妖しい輝きを放つ紅の満月を背にして、長剣を優美に八坂へ構えると、


「――貴様の悉くを否定してやる」


 ――次の刹那、鈍い肉体の動きを置き去りにする様にルヴニールは疾駆する。


 像が掻き消える程の凄まじい踏み込みで八坂に接近したルヴニールに、先程の斬撃による負傷は無い。間合いがゼロになった瞬間、ルヴニールは八坂に乱反射する様な連撃を伴った銀閃を浴びせ掛ける。


 八坂の瞳には、乱舞する銀閃を捉える事は出来ない。


 だが、八坂は天性の勘を働かせて、迸る銀閃の乱舞を受け、弾き、穿ち、逸らし、暴風の如き連撃を耐え抜いた後、壮絶な膂力の籠るルヴニールの長剣による斜斬りを刀身で受け止めると、卓越した技巧で長剣を捌く。


 受け流す様にルヴニールの長剣を逸らした八坂は、生じる大きな隙に鋭い長剣の斬撃を見舞う。


 銀の閃光を纏う縦の斬撃が躍り掛かる。大気を鋭利に両断しながら迫る銀閃が、後退りするルヴニールの体を縦に切り裂く。


 顔面から胴に掛けて縦に裂かれたルヴニールの鋭利な傷跡から、心臓の鼓動に従ってドス黒い血液が噴出するが、その血液が生物の様に不気味に流動して、八坂に濁流の如く襲い掛かる。


(血液操作、確かに雑多な吸血鬼とは訳が違うみたいですね)


 視界を覆い尽くす血液の濁流を纏う烈風で吹き飛ばすと、八坂は眼前から姿をくらましたルヴニールを見つけようと周囲を見渡し始める。


(どうせ、不意打ちをしようとしてるんでしょうねぇ。考えている事がバレバレですよ)


 そう思案した八坂は上空より大気を裂いて接近して来る短剣の存在を感知、少し驚きながらもその短剣を弾き飛ばして、上空に目を向けると、


「――上を向いたな」


 凛然とした声が響き渡った瞬間、突如としてルヴニールが八坂の目下に出現する。しゃがみ込んで長剣を構えるルヴニールが横薙ぎの銀閃を放つと、一瞬だけ回避が遅れた八坂の両足を浅く切り裂く。


(何故、下に? ナイフは真上から飛んで来た筈……)


 困惑する八坂が両足から血を流しながら飛び退くと、ルヴニールは寸分の間も置かずに世界の理を改変する一節を諳んじる。


「――『エヴァンジル』」


 その魔の詠唱に呼応して、ルヴニールの左手に短剣が出現、それを強靭な膂力で投じて来る。


 その短剣は八坂の眉間に狂いなく迫って来る。それを長剣で弾こう構えを取った八坂を嘲笑う様に、短剣が不可思議にその軌道を変えて、八坂の脇腹に突き刺さる。


(軌道の変化……! 先程の『エヴァンジル』とか言う異能、魔力の高鳴りを感じなかった……権能ですか……忌々しい)


 ルヴニールの保有する権能、『エヴァンジル』。


 自身の抱く幻想を現実世界に引き出す事が出来る。


 早い話が物体生成能力である。


 自身が思い描いた物体を現実に顕現させる事が可能であり、その発生させた物体には独自の簡単な命令を一つ下す事が出来る。そして、この権能によって生成した物体は、ルヴニール自身の意思によって消失させる事が可能である。


 先程の上空から降って来た短剣は『エヴァンジル』によって作り出され、ルヴニールが軌道を設定して投じた物であった。


 そして、彼女の持つ“とある魔法”によってその姿を消し去っていたのだ。


(この権能、見た感じは単純な物体生成系の異能ですかね。そこまで脅威にはならないと思いますが……)


 そう長々と思索をした八坂は、両足が不自由な状態を好機と見たルヴニールの接近を躱す為、左手の手中に吹き荒ぶ烈風を発生させる。


 八坂は急激に凄絶な瓢風を発生させる魔の烈風を左に薙ぐと、それは不可視の刃となってルヴニールを襲う。


(風属性か……!)


 空間を鋭く切り裂いて迫る風の刃を防ごうと、左腕を割り込ませたルヴニールだが、その結果として彼女の左腕は鋭利な音を立てて切断されてしまう。


 ルヴニールの弱点は、聖なる物体や聖なるエネルギーの他にも存在している。


 それが風属性であった。


 怪物には種族として持っている弱点の他にも、その個人が持っている場合がある弱点も存在するのだ。


 紅の血管や黄白色の神経を覗かせて切断される左腕から鮮血が噴出するが、ルヴニールは痛みを一切感じていない様に走り出す。


 その疾駆の最中、ルヴニールはクルクルと空中に舞う切断された左腕を流れ出した血液を操作して捕まえると、そのまま左腕の断面まで引っ張って行って、完全に左腕を癒着させて欠損を再生させた。


 そのまま距離がゼロになる。


 ルヴニールの銀の閃光を纏う斬撃に八坂は長剣を打ち合わせて受け止めて、そのままルヴニールの押し込む膂力を利用して距離を離す。


(やはり、肉体の鈍化が深刻だな。更に我の弱点である風属性の保有者。これでは奴を八つ裂きにする事が出来ない)


(状況はこちらが有利。どうやら、風属性の効き目が良さそうですね。本当に僕は運が良い。このままその胸骨を叩き割って、心の臓を引っ張り出してやりますよ)


 稲光の様な逡巡を互いに終えれば、状況は苛烈に動き出す。


「――『エヴァンジル』」


 ルヴニールは権能発動によって左手にワインの瓶を出現させると、それを八坂に向けて投じて、空いた左手を眼前に翳す。


 ――瞬間、ルヴニールの左の掌に灼然とした凄まじい輝きを放つ、凄絶な熱量を伴った紅炎が顕現する。


 空間を紅に染め上げる業火を携えたルヴニールは、美しい弧を描いて飛来して行くワインの瓶に業火を射出する。


 凄絶な熱量に周辺を焼き溶かして行く業火がワインの瓶に命中すれば、壮絶な燐光が瞬いて、凄まじい爆炎が発生する。


 ――次の刹那、途轍とてつも無い爆炎と爆音が立ち昇る。


 煌々とした爆炎が周辺のビルを次々と吞み込んで行くので、それに巻き込まれまいと八坂は魔の疾風を纏いながら超越の劫火から逃走して行く。


 致命の劫火が遂に鳴りを潜める。明瞭になった視界に映るのは、ビル街の一角が焦土と化して無為な更地となっている惨澹とした景色である。


(さっき、ワインに火炎を当てる意味はあったんですかね?)


 ビル街の車両が幾つか残っている道路に警戒を持って立ち尽くして、周辺を索敵する八坂。


 再度、ルヴニールはその姿を消していた。


 だが、姿を晦ましたルヴニールの行方は、直ぐに知る事になる。


 ――瞬間、音も無く唐突にルヴニールの像が八坂の背後に出現する。


 それを即座に察知した八坂は、振り返り様に担う長剣を強く振り切る。


 凄まじい魔の烈風を纏う超速の長剣が振り抜かれ、背後に立ったルヴニールの胴を横に薙いで、その体は軽い手応えを伴って完全に両断された。


 ――だが、長剣に肉体を二つに両断されたルヴニールの像は不気味に揺らぎ、眩い白光が瞬いて完全に消失する。


(この異常な手応えの無さ……幻影魔法!)


 愕然とする八坂の眼前で完全に消失したルヴニールの幻影、致命的に晒した八坂の隙を刈り取るのは、待っていたと言わんばかりに背後に這い寄る卓越の吸血鬼。


 その凄絶な鬼気を放つ気配が何かをする前に、再び八坂は振り返り様の銀閃を放って、愚者の浅慮を後悔させようとするが、その腹積もりは意味を成さない。


 玲瓏たる銀閃が背後の人影の首を薙げば、クルクルと宙を舞ってその首が断頭されてしまった。


 ――だがしかし、その断頭されて宙を舞う頭部は白光を放って消失する。当然、頭部と泣き別れをした胴体部分も。


「これも幻影!」


 身を焼かんばかりの焦燥に駆られて叫んだ八坂は、次に躍り来るだろう斬撃を予期して背後に銀閃を放つが――、


 ――次の刹那、八坂の苦し紛れに放たれる鈍い銀閃は、背後に立っていたルヴニールの“幻影”を完全に切り裂いていた。


「――相手が予期しているタイミングで攻撃すると思っているのか? 間抜けが」


 ――玲瓏たる声音の声が響いた瞬間、八坂の胸部から銀の閃光を瞬かせる長剣が飛び出して来る。


 それは、八坂が長剣を振り切ったタイミングで背後に出現したルヴニールが、八坂の背中に長剣を突き刺した事による。


 胸部から長剣の切っ先が飛び出した八坂の鋭い傷からは、心臓の鼓動に従って凄まじい鮮血が噴き出して来る。


「――グッ! まだ……!」


 命の淵源が一切の猶予を待たずに八坂から流れ出す。


 未だに尽きない戦意に抵抗しようとした八坂であったが、ルヴニールはそれに取り合わず、長剣を捩じって八坂の胸部を滅茶苦茶に破壊して、そのまま長剣を左に薙いで心臓ごと八坂の胴体を切り裂いた。


 その後に八坂の背を蹴り付けて、距離を強制的に引き離せば、ルヴニールは完全に八坂の命脈を絶ったと思い、言葉を発する。


「後悔したか? クズニンゲン。結局、有利な状況に誘い込もうと、最後の最後の詰めが甘いとは……無様な最期だな」


 残酷な色に満ちるルヴニールの紅の眼光が八坂を射抜く。


 煌々とした輝きを放つ紅の満月が懸かる暗夜の底、八坂は両断され掛けて、半分程に千切れた胴体を空虚に眺めると、


「……認めましょう。貴方は確かに強い。田辺君と新井君では貴方の足元にすら及ばなかったでしょうね。その一点のみ、認めましょう。ですが、それが僕の信心の歩みを止める事は無い」


 胸部から壮絶に血液を垂れ流して、その紫紺のローブに醜い色を付ける八坂の炯々とした眼光は、諦めの境地には無かった。


「――『ヒーリング』」


 八坂の静謐な声音の魔の一節により、彼の体に醜く刻まれた傷が不気味にボコボコと蠢き始めて、余りの熱量に血の色が混じった紅の蒸気を噴き出して、彼の肉体は完全に再生する。


「――『ヒーリング』か、面倒な事を……これだから、異能戦いのうせんは自己再生系魔法が必須の消耗戦だと言われるんだ」


「そんな風説はどうでも良いんですよ。仕切り直しに付き合って貰いましょうか」


 ――刹那、八坂が狂気に炯々と輝く瞳を見開いて、更にボルテージを引き上げる。


 瞬きの内に間合いがゼロになる。八坂が放つ超速の斬撃をルヴニールは後ろに仰け反って回避するが、その後に八坂は左の掌に轟々と吹き荒ぶ烈風を発生させる。


 八坂は一気に周辺にヒビを入れる凄絶な旋風を携えた左手をルヴニールの腹部にピッタリと当てると、反応出来ないルヴニールを置き去りにして魔術を発動させる。


 ――瞬間、ルヴニールの腹部にて万物を容赦なく切り刻む旋風が炸裂する。


 爆発的に拡散する烈風にルヴニールの腹部は滅茶苦茶に切り刻まれて行く。


 ルヴニールは壮絶に鮮血を垂れ流す腹部を庇いながら、即座に後ろ飛びに烈風から逃れて、世の理を改変する一節を諳んじる。


「――『エヴァンジル』」


 ルヴニールは再び、左手に出現するワイン瓶を八坂に強靭な膂力を込めて投じる。


「一芸特化! 芸が無い!」


 八坂がルヴニールを心の底から嘲笑いながら、凶悪な笑顔を張り付けてワイン瓶を長剣で斬り飛ばす。


(『ヒーリング』を持つ奴を殺すには、一撃で再生不可能なダメージを与えるか、その頭部を破壊して魔術行使を阻止するか、容易なのは……後者)


 臓物を垂れ流す程の腹部の裂傷を何とか再生させたルヴニールは、刹那に距離を詰めて来る八坂の狂喜を伴った銀閃の乱舞を長剣で全て払い落として、次に八坂より繰り出される頭部を破砕しようと迫る致命の刺突を長剣の刀身で受け止めて弾き飛ばす。


 互いに距離を離した瞬間、ルヴニールは三度みたび、ワイン瓶を手の内に出現させて、強力無比な膂力を以て投じる。


 クルクルと美しい軌道を描いて八坂に飛来して行くワインの瓶、それを八坂は辟易とした様子で斬り飛ばす。


「だから、つまらない――」


 ――刹那、悪態を吐く八坂は、ワイン瓶から放たれる赫々とした灼熱の劫火に上半身を焼かれていた。


 八坂がワイン瓶を切り飛ばした瞬間、その内部が一気に燐光を放ち始め、急激な爆炎を発生させていたのだ。


 その灼然とした紅炎に右上半身を完全に焼き尽くされた八坂は、焼き爛れてドロドロになった右半身を呆然と眺める。


(……これまでのワイン瓶はこの為のブラフ……まさか、最初の方から……?)


 だが、八坂は狂信者である以前に、一人の戦士である。


 彼には戦士として負けられない矜持があった。


「まだ……負ける訳には行かないんですよ! 『ヒーリング』!」


 自己再生の魔の詠唱を八坂が唱えれば、凄絶に焼け爛れた火傷は即座に治癒されて完治するが、その隙を刈ろうとルヴニールが寸暇の間も与えずに接近する。


 鋭く命脈を絶とうとするルヴニールの頭部を目掛けた刺突を翻して躱した八坂は、後ろ飛びに距離を取って風属性魔法を放とうと左手を翳す。


 それを見たルヴニールは四度よたび、左手にワイン瓶を担ってそれを投じて来る。


「もう! 見飽きましたよ!」


 美しく弧を描いて飛来するワイン瓶が、八坂に近付く前に放たれる風の刃が斬り飛ばすと、そのワイン瓶は白光を放って消え去ってしまった。


 そのワイン瓶は空間を支配する程の凄まじい光を放って、不可思議にその像が揺らいで消失する。


 ――ルヴニールの描いたプロット幻想は、狂いなく八坂の命運を掌握していた。


(これは……奴の幻影魔法……!)


 壮絶な白光に視界を奪われる八坂は、地に接する程の低姿勢で疾駆して、懐に飛び込んで来たルヴニールの刺突を躱す事が出来なかった。


「――戦闘において肝要なのは、如何いかに無力な物を切り札に見せるか。良い勉強になったな」


 ――八坂の命を司る心の臓は、懐に飛び込んだルヴニールの長剣によって刺し貫かれていた。


 八坂から一拍遅れて噴出するドス黒い鮮血、醜悪にあやを付けるそれを体に浴びながらも、ルヴニールは長剣を胸から引き抜き投棄して、右手に出現させた短剣で即座に八坂の側頭部を打ち抜く。


 ゴリッと言う頭蓋を破壊する凄絶な音を鳴らして、八坂の側頭部に短剣が突き刺さる。


 脳漿と血液を頭部から夥しく噴き出した八坂は、そこまでして漸く仰向けに地面に倒れ込んだ。


「喋れるのならば、最期に教えろ。『イル=ミドースの招来』の呪文について」


 紅の月光を反射している八坂の虚ろな瞳、その光が徐々に鳴りを潜めて行く。


 今際の際に立たされた八坂は、もう既に魔法を構成する事が出来ないらしい。


「……そんなの知りませんよ……少なくとも……僕達はね……16年前……僕達が引き起こしたイル=ミドース様招来……俗に言う『よんよん事件』で『八咫烏』に僕らは殆ど殲滅されましたから……あるとしたら……千代田区にある本部です……」


 頭部を破壊されて死の淵に立たされているとは思えない程に長々と言葉を発した八坂は、最期に嫣然とした微笑を浮かべる。


 それは避けられない死に直面した事による、厭世の諦観では決してない。


 それは自身の生涯を悔いる事も無く泰然と死を受け入れた、そんな悟りの境地であった。


「……認めましょう……貴方の勝ちです……言い訳も出来ない……さぁ……情報は伝えましたよ……ルヴニール……貴方はこれから沢山の惨禍に弄ばれるでしょう……その渦中で徒花と化して死んでください……あぁ……千善……イル=ミドース様……ごめんなさい……」


 そう息も絶え絶えな言葉を言い終わると、八坂の瞳は二度と光を反射する事は無くなる。


 一気に静まり返る静謐な戦端にて、ルヴニールは八坂の瞼を右手で優しく閉じさせる。


「……八坂飛乃、貴様は死んで然るべきヒトデナシのクズニンゲンだ。だが、我は前言を撤回し、その零れる様な主への敬虔な信心、その一点のみに溢れんばかりの敬意を払おう。『空っぽニンゲン』などと言った非礼を詫びさせてくれ」


 八坂が担っていた銀の長剣、本来は忌避感から触れる事すら出来ないそれを強靭な精神を以て彼の胸に抱かせたルヴニールは、彼の亡骸の前で深々と礼をする。


 それは、人間の意志の力を何よりも信じ、同じく神を信仰していた過去を持つ“元人間”から贈られる、彼への最大限の弔いであった。


「――『幸運を。死に行く者より敬礼を』」


 そうルヴニールは持ち得る精一杯の敬意を払って騎士の様に礼をすれば、八坂の亡骸は玲瓏たる紅炎に静かに包まれて行く。


「――結局、最期まで奴を後悔させる事は出来なかったな」


 紅の満月が懸かる闇夜に、紅炎の明光と徒煙あだしけむりは果ても無くどこまでも立ち昇って行った。

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