ヒトデナシ共は矛盾したい!

玉虫色の蛇

第一章 激動の九日間

第一話 狼男は怒りたい!

月影に吠える者から

 この世界には、『怪物』が居た。


 この世界には、『怪物』を殺す者が居た。


 俺の家には、『怪物』が居る。


 俺の体には、『怪物』を殺す何かがる。


 数奇な運命が巡り合い、引き合う様につどった『怪物』は、果たして何を成し、どんな結末を描くのだろうか。


 その始まりは――、



 西暦2023年、5月12日、金曜日の七時半頃の事だった。


 鮮烈な橙色を放つ斜陽もすっかり落ち込み、藍色にも見える漆黒の夜が日本の空を暗影に覆い隠している。


 夜の帳に遮られる東京の閑散とした住宅街は一切の人気を感じさせない物であり、点在する住宅の窓から放たれる人工の光が人の存在を唯一知らしめてくれる物だった。


 そんな普遍的で静謐とする住宅街の道を脇目も振らずに必死になって蹴り付け、異常に高鳴る心臓の鼓動のままに荒々しく疾走する少年が居た。


 少年の名前は神喰かんじき 朔人さくと


“少しばかり変な事情”を抱え込んでいる事以外は、今年で高校一年生になったばかりのごく普通の一般学生である。


 高校生になってから一ヶ月も経ち、高校と言う新たな環境にも慣れて来ている。


 その反面、教室ではクラスメイトの大半は既にコミュニティを確立し、神喰はそれらのグループのどこにも所属出来ていない。


 神喰朔人は所謂、“ボッチ陰キャ高校生”である。


 それがどうだろうか。現在、彼は自身のキャラに見合わない程に必死になって、夜の住宅街を疾走している。


 短い黒髪を振り乱しながら疾駆し、その人相が悪く見える黒の両目を焦燥と恐怖に大きく見開いて、何かに追い立てられる様に疾走していた。


 ――否、追い立てられる様にではなく、実際に神喰は追い立てられていて、逃走している最中なのだ。


「クソ! クソ! クソ! 何でこんな事に!」


 神喰は胸を張り裂くと錯覚する程に大きく鼓動を打つ心臓に促されるままに苦境を叫んで、風を耳で切って疾駆する最中にチラリと背後を視界に映す。


 ――そこに在ったのは、人間の常識の埒外に居る異形の生命体だ。


 その姿は全体的に人のそれに似ているが、通常の生物とは致命的に乖離しており、存在している事を認めたいとすら思わない異形である。


 背は子供と見紛う程に低く、醜い犬に似た頭部、全身が体毛の無いゴム質の赤茶色をした皮膚に覆われている。


 不潔にも血肉と排泄物に塗れ、刺激臭のする臭気を放つ異形の生命体は五体で群れを成して、犬に似た顔面に付く口腔から覗かせる牙を剥き出しにして、よだれを垂らしながら神喰に迫って来ていた。


(クソ! ただコンビニに行きたかっただけなのに! 何だってこんな目に遭わなくちゃいけないんだよ!)


 神喰はそう恨めしそうに心の中で悪態を吐くが、理不尽で非現実的な現実は嘆いていても一切の容赦も無く迫って来ている。


 犬面の異形は手に生えた鉤爪を高々と掲げて、狩りの興奮を伴って更に疾走の速度を上げて行く。


 神喰と異形との距離がジリジリと縮まって行く中、神喰は眼前に見えた横合いの路地に方向転換、疾走の加速度を殺しながら路地に何とか入り込み、異形から逃走して行く。


 ――が、神喰は眼前に広がる光景に疾走の足を止めて、立ち止まってしまった。


「そうだ、ここ行き止まりだった!」


 その理由は難しい物ではなく、単純にこの路地の先は無く、壁が存在する行き止まりであるからだ。


(クソ! 中野区で十年も過ごしてたのに! こんな単純なミスを!)


 自身の愚かしさに舌打ちをして、胸を焦がす焦燥と喧しく鳴り響く本能の警鐘に従ってパッと背後に振り返れば、五体の異形が神喰の数メートル前まで迫って来ていた。


 異形は獲物にはもう逃げ場が無いと本能で察知したのか、狩りを楽しむ様に緩慢に神喰に歩み寄って来る。


 その犬面に下卑た気味の悪い笑顔を浮かべて、恐怖を与える様に一歩、狂気を振り撒く様にまた一歩と神喰に歩み寄って来る。


(マズイ……死ぬ。冗談じゃなくて、マジで死ぬ)


 確実に着実に迫り来る顕在化した死の代弁者を目の前にして、ガンガンと鳴り響く警鐘の様な死への恐怖とは裏腹に、どこか現実味の無い状況に現状の打破と言う思考を巡らせられずにいた。


 神喰の眼前にまで迫った異形の内の一体が、その人の様な手から生えた鉤爪を悠々と構える。


 カッと血潮が滾る様に白熱する思考。電撃の様に駆け巡る生への活路を見出さんとする思索により、神喰の出した打破の一手は、


「クソが! 死んでたまるかよ!」


 神喰は今日に何度言ったのか分からない悪態を叫んで、閑散とした雰囲気と惨憺たる瘴気を裂く様な裂帛の気合で異形に拳を振りかぶる。


 前方、反撃は来ないと踏んでいたのか、隙だらけにも鉤爪を高く掲げていた異形は、突然の獲物の反撃に面食らって、神喰の放つ渾身の拳撃を顔面に受けてしまう。


 飛び散る血液。拳が肉を穿つ快音が響き渡り、ドス黒い血液を鼻面から噴出させながら、拳撃の威力に少し後退してしまう異形。


 ――だが、そこまで。


 一体の異形を少し退けた所で、残りの四体をどうこう出来る訳ではないし、そもそも拳を食らわせた異形も致命傷には程遠い。


 ――簡潔に言えば、“死”である。


 血を撒いて後退した異形を置き去りにして、その他の異形は警戒の色を見せながら神喰に近付いて行く。


 そこには狩りの興奮や捕食者としての油断は無い。


 そこにあるのは確実に獲物を殺そうとする冷然とした殺意のみである。


 仲間を攻撃された怒りなのか、犬に似た牙を剥き出しにして接近して来る異形の鉤爪が、神喰の目と鼻の先まで迫って来る。


(……あぁ、今度こそ“俺の番”か……)


 妙に輝いて見える美しい三日月を仰いで、神喰は諦めた様に瞼を閉じる。


 煌々とした月光を放つ三日月に相反する様なドス黒い鮮血が空に舞い散り、皆既月食の様な鮮烈な紅を演出する。


 ――但し、鮮血を放ったのは神喰では無かった。


 異形の鉤爪が神喰に届かんとした瞬間、空から“影”が舞い降りる。


 比喩と言うには余りにも直接的で、例えすらも必要の無い。表現する方法がそれしか見つからない、正しく影が神喰と異形との間に降り注いだ。


 ――次の刹那、降り注いだ影から爆発的に発生する影で出来た触腕の様な物が、神喰に迫る四体の異形をバラバラに引き裂いてしまう。


 暴風かと錯覚してしまう程に荒々しい影の触腕が吹き荒び、異形は何も出来ずに鮮血と臓物をぶちまけながら、何かも分からない肉塊と成り果てる。


 瞼を閉じていた神喰が血肉を無造作に切断する異音に違和感を覚えて瞼を開くと、そこに居たのは人間と思われる男の存在だった。


 腰の辺りまで無造作の伸び、少し跳ねた漆黒の長髪。その現実の者とは思えない程に整った顔貌には、アメジストを思わせる紫紺の瞳が嵌め込まれている。


 その体格の良い長身を包んでいる装束は黒の物で統一されており、黒尽くめと言った印象を受ける。


 彼の一番の特徴はその身を包む黒のロングコートと、首から下げた紫の宝石が施された美しい意匠の首飾りであろう。


 そんな彼は冷たく鋭い印象を与える三白眼の目尻を柔らかく緩めて、チラリと神喰の方を一瞥して、


「怖かっただろう? 安心してくれ、もう大丈夫だ」


 意味の分からない状況に困惑し、全く理解出来ずに尻餅をついて戦々恐々とする神喰に励ましの言葉を送って、青年は神喰が殴り飛ばした異形と対面する。


「――『食屍鬼グール』か……獲物を一方的に嬲って狩り立てるのは、さぞや楽しかっただろうな。何とか言ったらどうなんだ? オレはオマエらの“お仲間”だろ?」

 

 鋭く目線を尖らせた青年の溢れ出る言葉に込められているのは、血潮が逆流するかの様な異形への怒髪天を衝く程の義憤である。


「――オマエは口も利けないのか? それとも声が小さくて聞こえなかったのか? 魂が薄汚れた『死なずの者アンデッド』に会話は荷が重かったか? それなら謝ろうか。すまなかった――」


 異形にジリジリと歩み寄りながら、人よりも少し鋭く伸びた犬歯を剥き出しにして、“憤怒”のままに言葉を吐き出す青年の凄絶な鬼気に耐え兼ねたのか、異形は体を恐怖にガタガタと震わせながら、犬と人の声を混ぜた様な醜い叫喚をあげてその場から逃走してしまう。


 異形は青年から完全に背を向けて、犬の様に四つ足を着いて神喰を追い立てる時よりも遥かに機敏に逃走して行く。


 異形が刹那の内と見紛う程の速度で疾駆し、路地から出ようとした所で――、


「――逃がす訳が無いだろうが」


 底冷えする程の冷然さと煮え滾る様な激情を混ぜた声音でそう告げると、青年の右腕が漆黒の霧や実体化した影と形容出来る状態へと変化し、唸りを上げた影の触腕が異形の右足首に伸びて掴み取る。


 そのまま異形は影と化した右腕に青年の方向へズルズルと引き摺られて行き、その後に起こるのは――、


「ヒッ――」


 神喰が異形に待ち受ける分かり切った結末に怯えて目を逸らすと、肉体が破裂し、血肉が飛び散るドチャッと言う惨憺たる水音が響き渡る。


 その後、まるで肉食動物が獲物を捕食する様な、血肉を裂き、骨を砕き、情け容赦なく咀嚼する気色の悪いグチャグチャと言う音が神喰の耳朶を打つ。


 テレビの電源を切ったかの様に唐突に一切の音が消え去り、耳を塞いで丸まっていた神喰は恐る恐る瞼を開いて立ち上がり、眼前に広がる光景をその瞳に映し出す。


 そこには、何も無かった。


 凄惨に殺害された異形の死骸や飛び散った血液の痕跡、路地に刻まれている筈の戦いの傷跡に至るまで全ての痕跡が消失していた。


 ――神喰の目の前に威風堂々と仁王立ちする青年を除いて。


 煌々と照る月光を背にした青年は、妖しく輝く紫紺の瞳で神喰を見て言葉を紡ぐ、


「怖がらせて悪かったな。出来る事なら、この出来事は忘れて“普通”の日常を過ごしてくれ」


 そこには異形を討った際の義憤の様な激情は無く、あるのは少年の行く末を案じる慈愛に満ちた温情である。


 青年はそれだけ言って、神喰から目線を外し、スタスタと路地を出る為に歩き出す。


(いや、意味が分からん……徹頭徹尾、全てが意味不明なんだが……)


 神喰は異形の凄惨の死の現場に居合わせた事実を置き去りにする程の無理解に襲われていた。


 『グール』と呼ばれた異形とは何か。男の人の正体は何か。死体は何故に消えているのか。挙げればキリが無い程の疑問の濁流に神喰は少しの間フリーズしていた。


 だが、それと同時に神喰には確かな実感があったのだ。


(……この人なら、俺の“呪い”が解けるかもしれない……)


 神喰は多少なりとも一般人とは違う人生を送っては来たが、戦闘の経験どころか喧嘩すら殆どした事の無い人間だ。


 そんな神喰の素人目でも理解出来る程に青年の雰囲気は異質な覇気に満ちており、恐らくこの地球上の人間では彼に勝つ事は出来ないであろう。


 神喰はそう思い立った瞬間、少し前に踏み出して、青年の背に声を掛ける。


「――待ってくれ!」


 神喰当人としては久しぶりに声を出したので、しっかりとした発声では無かったかもしれないし、声も震えていたかもしれない。


 だが、そんな神喰の消え入る様な声を聞いて青年は立ち止まり、神喰の方向に向き直る。


「何だ? 申し訳ないんだが、質問には答えないぞ。“コッチの世界”には踏み入らない方がオマエの身の為だ」


 青年は神喰の問い掛けを頑なになって一蹴する。


「そんな事は分かってる! 貴方の居る世界はこんなクソガキが踏み入るべきじゃないって事を! 少し触れただけでも理解出来たよ! でも! それでも!」


「――『それでも』、何だ?」


 神喰の必死とも言える魂の咆哮に、青年は少し目線を鋭くして問い返す。


 その射殺す様な紫色の三白眼に少し心が竦みつつも、神喰は声と心根を大きく奮わせる。


「俺の“呪い”を解いてくれないか!?」


 神喰の轟かせる心の底からの身を切る様な懇願に、青年は少し眉を顰めた後に、目を細めて、


「そうか……オマエも“コッチ側”だったと言う事か。それならば、オレの客になる訳だな」


「――! なら……」


 少し納得した様に言葉を紡ぐ青年の肯定的な発言に、神喰は期待の目線を向けるが、


「――だが、一つ問題がある」


 期待を寄せている神喰を一刀両断して、青年は問題とやらを挙げて来る。


(何だ? 金か? 客とか言ってたし……)


 神喰は正直に言って裕福な財政状況では無い為、それは勘弁願いたいと言う物だが、青年はほんの少し目を伏せて、


「――見ての通り、オレは『怪物』だ。オマエを殺そうとした『グール』と同質の存在、醜い化け物なんだよ。そんな存在をオマエが受け入れられるかどうか……」


 少々、青年から哀愁と感傷の色が漏れ出して来る。


 それは彼が『怪物』であるが故の人間との確執、その悲しみであるのだろう。


 そんな言葉を受けた神喰は、必死さに顔を歪めて、


「――“怪物”だとかどうでも良いから! 俺を救ってくれたのは紛れもない事実だし、俺の“呪い”について何か知れたらそれで良いから! そもそも、人外が仲間なんて今の創作界隈じゃ普通だし!」


 ――神喰朔人は所謂、“オタク”である。


 オタク特有の早口で捲し立てて、青年を置き去りにしつつ、青年の存在を受け入れる神喰を見届けた青年は、少し驚きに目を見張って、仕方が無いと言わんばかりに息を吐いて言葉を紡ぐ。


「……そうか。ならば、『怪物狩り』として、オマエからの相談を受けてやろう」


「マジで!? ありがとう! えっとぉ、お名前は?」


 神喰としても思いがけない肯定に驚愕しつつ、青年に名前を尋ねると、


「――アルカナムだ。短い間かもしれないが、よろしく。オマエは?」


 月光の満ちる閑散とした住宅街の路地にて、数奇な運命から出会った二人は名乗り合う。


「神喰だ。神喰朔人、よろしくな」

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