異世界放浪屋台

生姜寧也

1:豚骨ラーメン(白の国・第3の都市)

 かまに突っ込んだ鉄の棒をクルクルと器用に回し、溶けたガラスを巻き取っていく金髪の女性。頭には布を巻いて汗の飛散を防いでいるが、それでもなお頬を伝い落ちる雫が、炉のぼんやりとした赤に照らされ、キラキラと輝いていた。ヴァレッタ・グレイン。このガラス工房の長を務める女性だ。齢28にして、そして女だてらに、ここまで登り詰めたことからも分かるように、この工芸の街でも一、二を争うガラス職人である。


 取り出した鉄竿を作業台の上(鉄板を立てて固定した物で、置いたまま竿をクルクルと回せる)に乗せて、水に浸しておいた木製のブロックを使い、竿先のリンゴのように赤いガラス塊を成型していく。ある程度まで形を整えると、ヴァレッタは鉄竿の手前側の穴に口を寄せ、


「ふううううう」


 息を吹き込んだ。竿先のガラスの塊も小さく膨らむ。

 コロコロと竿を転がしながら熱を逃がしてやる。赤橙色のガラス塊が少しずつ透明になってくる。そこで再びヴァレッタは窯へ。先程と同じように鉄竿を中に突っ込み、溶けたガラスを巻きつけていった。


 作業台に戻ってくると、また先程のブロックを使って成型。息を吹き込む。

 工房の中の熱気は凄まじく、ヴァレッタは自分の二の腕で両頬の汗を二度、三度と拭った。

 ガラス塊が冷め始めたところで、今度は鉄の火バサミを使ってガラスの先っぽを一段細くする。ビンの口の部分を作っていくのだ。その神経を使う作業の合間に。


あねさん!」


「……」


 工房の入り口に人が立っていた。ヴァレッタは振り返らない。声の主が誰だか分かっているからだ。


「ジョーイ! 何度言ったら覚えるんだ? 作業中は話しかけんなって言ってんだろうが! この鳥頭!」


 そばかすの青年、ジョーイは最近工房に弟子入りしてきた見習いだ。そしてこれがまた一等覚えが悪く、クビにしようか否か、ヴァレッタも目下検討中である。


「す、すいやせん。けど」


 大方、他の先輩に取り急ぎ伝令を頼まれたのだろう。嫌な話だが、ジョーイならもうこれ以上の失点はないだろうし、ヴァレッタも半分くらい諦めている節もあるため、怒られながらも話を通せるという算段か。


「……はあ。言ってみろ」


 ヴァレッタは再度、窯へ。鉄竿を突っ込み、今度はガラスは巻きつけず、単純に先っぽのガラス塊を熱していく。


「それが、その……珪砂けいしゃの納入が遅れるって連絡が」


 非常に言いづらそうにジョーイが口にした内容は、ヴァレッタを更に不機嫌にさせるに足るものだった。ふう、と怒気を孕んだ溜息に、見習の青年は背筋を伸ばす。


「なんだ? 我が国の鉱夫は緑の国にでも行って珪砂を採ってんのか?」


 緑の国とは、ここ白の国から一番遠い場所に位置する国家だ。

 もちろん、そんな事実はあるハズもなく。この国の鉱夫は、主に自国の第7の都市にある珪砂鉱山で採掘をしている。つまりここ第3の都市までは陸路で二日程度だ。八日前に発注した分が、まだ届かないとなると、これはもう自分への宣戦布告ではないかと、そんな風にさえヴァレッタは思う。


 熱し終えた棒を窯からそっと引き抜き、そのままガラス塊を下へ。重力で垂らし、長さを作る。ある程度のところで再び棒を水平に持ち、作業台へ。


「あの……荷馬車の事故だそうで」


「オーケー、オーケー。二週間ぶり三百回目くらいか? 今すぐ業者を替えろって伝えてこい」


「は、はい! そ、それと」


「まだ何かあんのか!?」


「ひっ。あの……赤のマナタイトも船の座礁で……」


 ヴァレッタは天を仰いだ。それでも手先は木のブロックを巧みに操り、棒を回しながらガラスを成型しているのだから流石であった。






 クソッと悪態をつきながら、ヴァレッタは道を歩く。ちなみに工房はもう、今日は閉めてしまった。いくら彼女の腕が立とうが、材料がないのでは商売あがったりである。

 純白の化粧レンガの道をトボトボと歩きながら、自宅への道を辿っていた、その時だった。キラッとした光を、視界の端に捉えた。


「んん?」


 振り向いてみると、そこには男が一人。変わった形の屋台を組み立てている。長方形の木製台座の上に四本の木の棒が突っ立っていて、そのテッペンには三角屋根が乗っていた。屋根からは赤い布がぶら下がっていて、何か書いてある。白の国の言葉ではなかった。それどころか、ヴァレッタの記憶が確かなら、あんなに角ばった字は、どこの国の文字にも無かったハズだ。


「あ」


 ヴァレッタの視線に気付いたのか、男が振り向いた。歳の頃はヴァレッタと同じくらいだろうか。面長な顔立ちに、やや細い黒目と黒髪。


(珍しい色だね)


 少なくとも、この国では全く見かけない色合いだ。

 ヴァレッタは興味を惹かれ、その男と屋台に近づいていく。と、そこで。違和感を覚えた。彼女以外の誰も、この男にも屋台にも視線を向けないのだ。進路上に屋台があったハズの少女とその母親は、スッと自然な動作で道路の真ん中へ移動して、そのまま歩き去ってしまう。男と屋台が見えていて避けたという感じでもない。

 少女は好奇心旺盛な年頃らしく、道行く様々な物を指さしながら歩いている。それが、あんなに珍しい風体の男がやってる屋台を無視して、何も言わずに母親共々、迂回して通り過ぎるなんて……


 何かおかしい、と思った。

 訝しむヴァレッタを他所に、男は屋台を完成させた後、その内側へと入る。そして次の瞬間、更に不思議なことが起こった。男の背後、何もない空間が突然パッと輝き、そこへ男が入っていったのだ。そして後には輝く長方形。空間が切り取られて、そこだけ光っているかのようだ。摩訶不思議な光景。


「ギフト……かね?」


 世にも珍しいが、こういうギフトもあるのかも知れない。彼女が授かった『肺活はいかつ』などという地味で数も多いギフトではなく、とても希少な類の。

 

 彼女がそんな考察をしているうちに、男は光の長方形の向こうから戻ってきた。両手で椅子を持っていた。屋台と同じく木製のようだが、座部に丸い布が敷かれている。ふっくらと膨らんでいて座ると柔らかそうである。


「……」


 男が改めてヴァレッタを見た。いざなわれているのかも知れない。アゴに手を当てて思案。と、例の光る長方形の先から良い匂いが漂ってくる。嗅いだことのない匂い。その正体は全く分からないが、街一番のパン屋の焼きたてでも、こんなに食欲をそそられたことはない。

 ぐうう、とヴァレッタの腹が豪快に鳴った。六時間程度で切り上げたとはいえ、仕事あがり。しかも普段よりイライラで多くのエネルギーを消費した。腹も減ろうというもの。


(……なんか怪しいけど)


 美味そうな匂いには勝てない。フラフラと吸い寄せられるように、ヴァレッタは屋台の傍までやってきた。


「いらっしゃい」


「ちょっと訊ねたいんだが……ここは、なんだ?」


「見ての通り屋台だな。異世界屋台・一期一会」


「いせかいやたい……いちごいちえ……?」


 顔をあちこちに振るヴァレッタ。よく見れば赤い紙で出来た丸いミノムシのような物も、屋台の端にぶら下がっている。それにも文字が書いてあるが、やはり読めない。


「暖簾に書いてあるのが一期一会。店名だな。提灯ちょうちんには商い中」


「???」


「まあ文字通り一期一会。名前は覚えなくてもいいよ」


「そう、か?」


 全く得心いかないが、ヴァレッタは頭を使うのは好きではないので、お言葉に甘える事とした。


「異世界って言ったけど、アンタもしかしてマレビト様かい?」


「いや。まあ強いて言うなら、だな。今はもう神気もない、ただの料理人さ」


 ここ白の国では特に、異世界からの来客を神気まといしマレビトとして崇める信仰がある。だが男は決まり悪そうに首を振っていた。そういう扱いは好まないということらしい。


「……それより、今日はラーメンだけど、どうする? 食ってくかい?」


 男は話題を元に戻す。恐らく屋台の本懐、提供する料理の話なのだろうが……ヴァレッタは再び首を傾げた。


「らーめん?」


「ああ。豚骨ラーメンだ。つっても分からんよな。まあ……不味かったらお代は取らないことにしようか。取り敢えず試しに食ってみないか?」


「へえ」


 不味ければカネは要らない。相当な自信だ、とヴァレッタは興味を惹かれる。


「それじゃあ貰おうかね。そのラーメンとやらを」


「はいよ。ちょいとお時間を。座って待っててくれ」


 先程、柔らかそうだと思った椅子の座部にある布の塊。そこに尻を乗せると、


「お、おお」


 と感嘆の声が漏れる。彼女の部屋のベッドより遥かに柔らかい。持って帰りたい、と本気で思った。そんなヴァレッタの様子に苦笑を残し、男は先程も入った光の長方形の中へ。一度すぐに戻ってきて、水の入ったガラスのコップをヴァレッタの前に置く。どうもサービスらしい。そして男は、もう一度光の中に消える。

 それから五分ほどして、男が戻ってきた。手には珍しい形の器。すり鉢の大きい版、といった形状。材質は違えど食器も作る職人としては、そちらも気になるところだが……それよりも遥かに興味をそそられるのは、その中身。


「なんだろう。煮詰めた肉に、更に甘いのと塩辛いのを混ぜたような香り……」


 彼女の持てる語彙では形容しがたい。だがとにかく、


(美味そうだ)


 舌鼓を打った。


「白の国の住民なら箸は使えるな?」


「当然」


 ヴァレッタが笑いかけると、男も小さく笑い返して、箸を出してくる。木の箸だ。ヴァレッタはそれを掴んで両手で持とうとして、


「ん? これ、くっついてるぞ?」


「ああ、割り箸っていうんだ。貸してくれ」


 男が箸の塊をヴァレッタから受け取り、左右に軽く引っ張った。パキンと軽い音を立て、箸の塊はキレイに二つに割れ、一本一本の箸となった。


「す、すごいな。割り箸。この木の屋台も寸分たがわず設計された上等品だし……アンタ、名のある木工屋なのか?」


「いやいや。これは俺が作ったモンじゃないよ。俺が作ったのは、それだけ」


 男が提供台の上の器、その中身を指さす。

 ヴァレッタもその中身を改めて見つめた。茶色と白のスープ。表面がやや泡立っており、その上に輪切りにされた青野菜、細長い茶色の茎のような物。そしてそれらを隅に追いやるように、茶色い肉の厚切りがデンと中央に鎮座している。更に器のふちとスープの間に差し込むように立てられた黒い板状の海苔も目についた。


(げ。海苔だ。アタシこれ苦手なんだよな。雑味が多くてジャリジャリしてるし)


 ヴァレッタはその板状の物から視線を外し、店主の顔を見上げた。


「どれから手を付ければ良いんだい? というかコレは飲むものかい?」


 スープに海藻などが入った物を時々食べるが、その時はほとんど飲みながら食べているヴァレッタ。だが、こうも具材が多いと、飲みながらというのは不可能だろうか。

 案の定、店主は首を横に振る。


「まあ、そうだなあ。スープの中に沈んでいる麺から掬いあげて食べてみたら良いんじゃないか」


「めん?」


 言われてヴァレッタは箸をスープの中に沈め、中を掻いてみる。すぐに黄色く細長い物が何束も現れた。


「なんだコイツは……見たこともない」


「小麦を練って作った食べ物だ。こっちの世界にもスパゲッティに近いのが、緑の国の一部地域にあるが……」


「スパ毛……?」


「いや、忘れてくれ。とにかく美味い食べ物とだけ認識してくれれば良い」


 ヴァレッタは頷く。それくらいシンプルな方が彼女としても楽だ。それに、もう腹が限界だし、先ほどから立ち昇る湯気が良い匂いを撒き散らして仕方ない。


「それじゃあ、早速」


 箸で掴まえた麺を、付属のスプーン(底部が船のように長くて大きい)に乗せ、口の中に放り込んだ。

 途端。


「!?!?」


 ヴァレッタは目を白黒させる。モチモチとした食感でありながら、容易に噛み切れ、噛めば甘みがある。


(う、美味い)


 これ単体でも凄まじいが……ヴァレッタの視線はスープへ。麺に少し絡んでいたスープの味。アレも凄かった。

 白い泡が浮かんだような部分と、その下の茶色い濁りの部分。境の辺りをスプーンで掬い取り、その上に麺を乗せ、恐る恐る口に運んだ。


「!?!?!?」


 再びヴァレッタの目が大きく見開かれる。


(なんだコレ!? なんなんだコレ!?)


 白い泡の部分は牛の乳で作ったクリーム(高級食材ゆえ、ヴァレッタも滅多に食べられないが)のように滑らかな舌触りの中に、ほのかな甘みをたたえ。茶色い濁りの部分は塩辛さと、肉の汁が染みたような旨味。そこに更に魚の香りも僅かにあるだろうか。

 そんな複雑な、味の多段構造のようなスープにくぐらせた、モチモチ最高食感の麺。スープを飲みながら噛むと、甘み、塩味、肉と魚のエキスと、芳醇な麦の味わい。何重奏なのか、自身の貧弱な舌では十全に感じ取れないことが、ヴァレッタは口惜しい。


(美味い! 信じられないぐらい美味い!)


 一心不乱のヴァレッタに、店主が満足そうに微笑んでいる。


「どうだい? お客さん。おカネ、払う価値の」

「払う! 払うさ! 賭けはアンタの勝ちだ!」


 ヴァレッタは食べる前には、大したことなかったらお言葉に甘えて無料にしてもらおうかなんて、頭の隅で考えていたが……今となってはそんな数分前の自分のアホな頭を、融解窯に打ちつけてやりたい気分だった。


「こんなに美味い物……人間が食べて良いのか?」


 腐っても白の国、宗教国家。第1の都市、聖都に比べれば戒律も緩いし、信仰の篤さも全く及ばないが。それでも彼女の口からそんな言葉が出てくる。逆説的に言えば、そんな不信心者ですら、これは神に供する食べ物だと、そう思えてならない域だったのだ。


「はは。大袈裟な人だな」


「大袈裟なもんか! アタシが今まで食べてきた料理の中で間違いなく一番! いや、らーめんは雲の上まで突き抜けてるよ!」


 興奮冷めやらぬという感じで、まくし立てるヴァレッタ。店主は苦笑を濃くする。


「というか。お客さん。ラーメンはここからだよ」


「え?」


「ほら。具材……沢山あるだろ。全部スープや麺に絡めて食べてみなよ。病みつきになるくらい美味いぞ」


 ハッと息を飲んだヴァレッタ。そうだ、忘れていた、と。この輪切りの青い野菜と茶色く細長い茎。そして厚切りにされた肉もきっと、スープと同じように何らかの濃い味付けがされているから、こんなに茶色いのだろうという事は容易に想像がついて……


 ゴクッとヴァレッタの喉が鳴った。


「いや、ダメだ。これ以上美味くなるだって? 冗談じゃない。アンタの言う通り、中毒になってしまうよ、そんなの」


「そうかい? なら下げるか?」


「いや、ダメだ!! 食わないなんて一言も言ってないじゃないか! どうしてそんな意地悪を言うんだ……」


 面倒くさい駄々っ子を見るような目をした店主。


「なら覚悟決めて、食うしかないな」


「持ち帰ることは出来ないのか?」


「その麺がスープを吸って、ブヨブヨに太ってしまうんだ。そうなると味も食感も台無しだ」


「そんな……」


「まあ時間制限のある食べ物と思ってくれて相違ない」


 なんと残酷な宣言だろう。この至高の料理を分けて楽しむことも出来ないなんて。いや、逆に考えれば一度に全部味わうからこそ、その贅沢も含めて至高なのかも知れない。そんな的を射ているのかどうかもよく分からない論理まで、彼女の脳内では生まれていた。


「分かった。食うさ。味が落ちるなんて言われたら、食うしかないだろう」


 半ばヤケクソ気味に言って、スープをスプーンで掬い、そこにまずは青い輪切り野菜を乗せる。口に含み、僅かに歯を立てた。その瞬間、瑞々しい野菜の旨味がスープの中で主張を始める。僅かな苦味、辛味。濃厚なスープの味の中でアクセントとして上手く機能し、シャキッとした食感でも舌を楽しませる。


「~~~!!」


 座ったまま地団太を踏みそうになるヴァレッタに、しかし息つく暇はない。なにせ時間制限があるのだ。麺とも絡め、モチモチとシャキシャキのダブル食感で再度悶絶。

 続いて何かの茎。箸で摘まむと、「メンマだな」と店主から注釈が入る。そのメンマとやらもスープに浸してから食べる。


(これは……このメンマ自体にはあまり味は無いけど、コリコリの食感と染み込んだスープの調和が……うん、これも良い。すごく良い)


 今度は麺と絡めたいが……ヴァレッタはもう一つのメンマをスープに沈める。更に味が染みた頃にまた会おう、と。

 そこで。器の端にいる黒い板に視線がいく。湯気を浴びて、ヘニャリとくたびれ、まるで礼をするように内側に垂れてきている。


(いや。他の具材もこれだけ美味いんだから、コイツもいけるんじゃないか?)


 かつて食べた不味い海苔が一瞬だけ脳裏をよぎるが……ヴァレッタは意を決し、それを震える箸先で摘まんだ。もしダメでも、最悪このスープに浸せば生臭さや雑味も何とかなるだろう、と。

 浸し、恐る恐る前歯で半口分ほど噛んだ。すると……スープの渦の中に、香ばしい焼き味が際立った。


(こ、これは……!)


 予想外だった。偉大なスープにマズさを帳消しにしてもらうなどではなく、先ほどのネギと同じく重奏の中で海苔自体がキチンと役割を果たし、自己主張しているではないか。

 更には、浸かっている間、吸い込んで溜めていたスープの旨味を口内で放出し、海苔自体が持つ磯の香りと焼き味の重奏が追撃してくる。


「美味い……海苔がこんなに美味いなんて」


「ああ。俺たちの世界の海苔は、養殖管理されてるからな。バクテリアとか……なるべく雑味が付着しないように育てられてる。洗浄や加工も機械が正確に……いや、忘れてくれ」


 正直、ヴァレッタには分からない単語もいくらか混じっているが。

 要するに天然で採ったものを無計画に干して作ったのとでは品質からして雲泥の差ということか、とヴァレッタは得心する。


「これならライスに乗せて一緒に食ったりしても美味そうだ」


「はは。そういう食い方もあるよ、こっちでは」


「やっぱりか! 良いなあ、アンタの世界」


 言葉を返しながらも、ヴァレッタの視線はついにメインディッシュ、豚肉の厚切りと思しき物へ。もう期待だとか、そんな域ではない。確信である。

 なんの躊躇もなく、それを箸で摘まみ、スプーンの中に満たされたスープの中に浸け、口に運んで前歯で噛んだ。脂身は舌触りこそプリプリだが、噛めば溶けるよう。赤身の部分は少し硬さもあるが、噛みきると中から甘じょっぱい漬け込みダレの味わいが広がり、これまたスープと完璧に調和する。


「んー! んー!」


 ついにヴァレッタは語彙を喪失した。もちろん美味いのは確信していたが、想像を遥かに超えてきた。こんなに柔らかい豚肉も、こんなに味わい深いタレも、もちろんスープとの絡み合い高め合う複雑な旨味も。生まれて初めてだった。今まで食べていた豚肉は藁束か何かだろうか。


「あー。あー」


 興奮疲れもある。全てが驚きの味、食感であり、もはや脳天を殴られすぎた状態だ。


「ねえ店主さん」


 ようやく意味のある言葉を紡いだかと思えば。


「この店は、従業員は募集してないのかい?」


「え?」


「ちょうどクソみたいな仕事を辞めてやろうかと思ってたところなんだ。どうだろう。真面目に働くよ?」


 ヴァレッタは割と本気だったが。


「いやいや。気持ちだけ受け取っとくよ。御覧の通り、小さな屋台でね」


「はあ。ダメかい、やっぱり」


「バカ言ってないで、さっさと食わねえと麺が伸びちまうぞ」


「ああ、そうだった! 時間制限があるんだった!」


 慌てて、かっ食らうヴァレッタ。何度も何度も麺や具材を噛み締めては目を閉じ、神に感謝しながらも、恐ろしいスピードで完食した。二杯目もおかわりし、スープも一滴残らず飲み干して、ようやく人心地。


「…………美味かった。芸術だ、これは。具材、麺、スープ、全てが完璧に相乗し、調和している。本当に最高だ……人生が変わったよ」


「そいつは良かった」


 ヴァレッタは腰につけた巾着袋を取り、台の上で引っくり返した。中身がザッと音を立て、飛び出してくる。


「有り金だ。足りると良いんだが」


 足りなければ、やはり皿洗いで数日雇ってもらおうか。あわよくば賄いも、などとヴァレッタは考えたが。


「ああ。銀貨三枚だ。こんなに受け取れない」


「銀貨三枚だって? おちょくってるのかい? アタシがいくらガラス一筋の世間知らずでも、こんな美味いモンを二杯も食っておいて、そんな値で済むワケがないことくらい分かるぞ」


「いや、正真正銘、銀貨三枚。日本円で、およそ3000円だな」


 にほんえん、という単語はよく分からないが、どうやら本気で言っているらしいということは、ヴァレッタにも伝わった。


「…………本当に、それっぽっちで良いのかい?」


「ああ。これでも一杯1500円。異世界の危険手当なんかを考慮して少し割高で取ってるんだ」


「す、すさまじいね。アンタの世界ではこれより更に安く食えるってことか」


 ますます、彼の世界が羨ましくなるが。

 いつまでも長居しているワケにもいかない。ヴァレッタは席を立つ。


「ご馳走さん。また必ず……必ず来るよ」


「はいよ。あ、いや。ウチは一期一会で……っと、お客さん?」


 店主の言葉も聞き終わらないまま、ヴァレッタはウキウキした気持ちで屋台を後にした。

 少し進んでから振り返る。まだ店構えはあり、しかし客は誰一人、寄り付かない。やはり自分以外には見えていないのか。ヴァレッタは素直に惜しいと思う。道ゆく全員に見えたなら、商売繁盛どころか、巨大な店舗を構えて従業員を二桁は雇えるような、そんな大成功が待っているだろうに、と。そしてそれは客側にも言えた。らーめんが見えないなんて、食べられないなんて。大袈裟でもなく、人生の損失だ、と。


「まあ、アタシしか知らない隠れ家ってのも悪い気はしないけどね」


 通い詰めよう、と固く誓うヴァレッタ。

 今にもスキップでも始めんばかりの足取りで、家路を急ぐ。屋台に来る前のクサクサした気持ちは、キレイさっぱり霧散していた。






 翌日、ヴァレッタ・グレインには明らかな変化があった。何を言われても基本ニコニコしており、不都合や理不尽には軽い憤りを見せるものの、すぐに忘れたかのように上機嫌な笑顔に戻るのだ。鳥頭のジョーイにも、半日過ぎるのにまだ二回しか怒鳴っていない。


「分からない、知らないのは悪いことじゃない。これから知っていけば良いだけさ」


 そんな優しい言葉まで飛び出したのだから、さあ大変。


 工房長の人が変わった? いやいや、急に人は変わらない。一時的なものだろう。なら、ついに遅まきの春が訪れたか、はたまた犬でも飼い始めたか。いやいや美味い飯屋でも見つけたんだろう。

 そんな職人たちのヒソヒソ話も聞こえていたが、ヴァレッタは一顧だにしない。どころか、


「らーめん♪ らーめん♪ あと三時間で、らーあーめーん♪」


 変な調子で謎の歌を歌い始める始末で。その変貌ぶりは、彼らの心胆を寒からしめたのだった。


 ……ちなみに、その日も翌日も、仕事あがりに街中を探し回った挙句、例の屋台を見つけられなかったヴァレッタが、三日後、人生最凶の不機嫌へと反転したのは……まあ余談であろう。

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