夜にわだかまる疑念
今宵、アルジュンは王妃のもとを訪ねないと伝えてきていた。
バーラン侯の反逆──未遂ではない、たとえ挙兵前でも、企んだだけでも反逆は反逆だった──が発覚して、その処理に追われているからだけではないだろう。少なくとも、夜を徹して議論が行われるということではない、トリシュナからは聞いている。
(あの方は、まだ私を子供だと思っていらっしゃる)
夫が彼女を遠ざけた理由は想像がつくから、アイシャはあえてアルジュンの居場所へと足を向けた。ほんらい寝室として造られた部屋ではない、庭園を臨む小部屋だと侍女が教えてくれた。彼はそこで、夜の鳥の歌声に耳を傾け、月光に煌めく水の流れを眺めているらしい。
その一角に近付くと、アルジュンは灯りも点けていなかった。ただ、夜の
闇の中で物思いに耽っているのか、と心配になってアイシャは足を速める。と、衣擦れの音によってか彼女が纏う香によってか、アルジュンは妻の訪れに気付いたようだった。
「アイシャ? なぜ、ここに……?」
戸惑い
「お酒を召し上がっていると聞きました。ですので、お相伴にあずかろうと思いましたの」
庭のほうからは、花の香りを含んだ風が微かにそよいでいる。それが届ける酒精の香りと、銀の杯の鈍い煌めきによって見当をつけて、アイシャは酒杯を手に取った。
「それは──貴女には強すぎるだろう。止めておきなさい」
驚きから立ち直ったらしいアルジュンが、慌てた様子でアイシャの手を掴む。それによって杯が揺れて、彼の言葉通りに強い酒精の香りが、より濃く闇に漂った。
「……お酒などではなく、私を頼っていただきたかったのですわ」
彼女の口には合わない酒なのは分かっていたから、アイシャは大人しく杯を置いた。代わりに、背後に付き従っていた侍女に目線で合図して、冷やした清水で満たした水差しと新しい杯をふたつ、置かせる。
あらかじめ言い含めてあった侍女が退出すると、夜の穏やかな静寂が降りた。夜風に吹かれた葉擦れの音や、水のせせらぎの音はするけれど、アイシャとアルジュンのふたりのほかは、人の気配はない。夫婦だけで話をするにはまたとない時間と場所だった。
「貴女を頼りにしていないわけではない。……怒っているのか?」
「いいえ。ただ、少し寂しかっただけですわ」
アルジュンは、酒に溺れる人では決してない。強い酒精も舐めるていどだったのだろう、尋ねる声に酔いの気配は聞こえなかった。
(私の気持ちは、お分かりでしょう……?)
妻を理解してくれている、という点でも、アイシャは夫を信じている。だから、冷水によって杯の腹に生じた露で指先を濡らしながら、アルジュンの弁解をじっと待つ。
アルジュンは、アイシャを言い包めて寝かしつける言葉を探したりもしたのだろうか。けれど、じっと座って動かない構えの彼女を前に諦めたのか、小さく息を吐いて苦笑した。
「……ようやく安心できたところだったのだ。これでバーラン侯が無実ということになれば、貴女が大侯の怨みを買ってしまうから。お陰で乱を未然に防げたし──これ以上は、と思ったのだ」
今日、アルジュンはバーラン侯の処刑を命じたのだと聞いた。処刑そのものを知らされなかった
「お気遣いはたいへん嬉しく思います。でも、まだまだ始まったばかりではありませんの?」
バーラン侯を断罪する切っ掛けを進言した功績は大きいのだろう。けれど、アイシャが夫に欲する信頼にはまだ足りない。
アルジュンはまだ、無垢で無邪気な妻を守るつもりでいる。王として冷酷な判断を降した瞬間にアイシャを関わらせないことで、彼女が怨みや恐れや警戒を抱かれることがないよう、配慮してくれている。
アイシャのほうこそ夫を守るつもりでいるというのに、ずいぶんと過保護にしてくださるものだ。
「バーラン侯の一族が大人しく罪を認めることはないと思います。そもそも、反乱に
「母上は、我が妻をよほど厳しく教えたようだな……? そこまで、考えてくれているとは」
アルジュンが、探るような手つきでアイシャの頬をそっと掌で包み込んだ。
暗いから手探りになるというだけではなく、本当に彼の妃なのかと怪しみ疑う気配が伝わって、胸が痛い。夫の口振りは、トリシュナは余計なことをしてくれた、と言いたげだからなおのこと。
(お義母様は関係ないのです。私自身が、考えたことで……!)
これから起きることを知っている、なんて言えないから、言い訳は心の中で訴えるだけだ。トリシュナも、戦いは王に任せておけば良いという考えであって、アイシャを巻き込もうとはしていない。
何より、彼女の進言は
(でも。貴方を守るためだから……!)
アルジュンの手に自らのそれを重ねて、アイシャは必死に言い募る。
「王が憎しみを買うなら、王妃はその半分を引き受けるものでしょう。私はそのようにしたいです。何も、恐ろしいことではありません」
アイシャはすでに、何よりも恐ろしいことを知っているのだから。
たとえ似合わないと思われても、アルジュンには強すぎると見えるであろう敵意や戦意を疑われても。敵が動き出す前に徹底的に叩くのは必要なことだ。
「アルジュン様に……あの、もしものことがあったら、私も生きていけませんもの。守ってくださるのは本当に、とても、心から嬉しいことなのですけれど──でも、守っていただけているとは思えません……!」
アルジュンの死と共に、アイシャも
殉葬のために墓室に閉じ込められるというだけでなく、暗闇の中で息絶えるというだけでなく。そうなったら、またも悲劇を止められなかったなら、それ以上生きていることに意味はないのだから。
「だから、私を頼ってください。貴方の力になりたいのです。私も、不安で、怖いから申し上げています。……私を、恐れないでください」
アイシャが長々と並べたことに対して、アルジュンは相槌さえ打たなかった。
暗闇の中で彼の表情はよく見えないけれど、眉を寄せたり唇を曲げたりしていないだろうか。差し出がましい進言を疎ましく思われたならまだマシで、突然、強硬な訴えを始めた妻の正気を疑っていたらどうしよう。
(アルジュン様に、嫌われてしまったら……!?)
足もとが崩れ落ちるような恐怖が押し寄せて、アイシャの声は掠れ。震えた。その震えは身体にも伝わって、水の入った杯を倒してしまう。あ、と思った時──銀器が床に落ちた音が響いたのとほぼ同時に、アイシャはアルジュンの腕の中に収まっていた。
「アイシャ。貴方の想いは分かっている。信じているから。──教えてくれ。私を恐れさせるような、何を言ってくれるのだ?」
アルジュンは、アイシャだけでなく彼自身にも言い聞かせているようだった。愛ゆえの言葉であって、恐れる必要はない。彼はちゃんと妻を愛しているのだ、と──つまり、口に出して確かめなければいけないていどには、彼の心も揺れている。
「……ありがとうございます、アルジュン様。今回のことは──好機にもなる、はずなのですわ……」
まるでダミニのようなことを言う自分自身がおかしくて、アイシャは少しだけ嗤った。これでは、彼女こそアルジュンを欺こうとしているかのよう。夫が怪しむのも当然のことだ。
(でも。ここを乗り越えれば安心できる。幸せになれるはずだから……!)
ここ、というのがいったいどこからどこまで、いつからいつまでなのか分からないまま、アイシャは口を開いた。
「バーラン鎮圧に差し向ける将について、ですが──」
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