朗報

 バーラン侯の私邸を調査する人員を、アルジュンは慎重に選んだということだった。


 つまりは、証拠が見つかったとして隠滅したりしないような者たち。そして、証拠を捏造したりもしないような者たちの両方を組み合わせて送り込んだ、ということだ。中には不満や言い分がある者もいたかもしれないけれど、王の権威があれば押し切れる。少なくとも、アルジュンは正統な王であって、聡明かつ公明正大な人柄であることを疑う者は誰もいないのだから。


 ──スーリヤの現王は寛容かつ寛大とも知られていて、その彼にしてはずいぶん果断な対応をしたものだ、と疑う者はいるかもしれないけれど。


 孔雀の尾羽で飾った扇でアイシャをあおぎながら、ダミニが嫣然と笑う。


「王がこれほど思い切ったことをなさるなんて。これも、アイシャ様の進言があったからこそ、なのでしょうね。さすがのご寵愛ぶりと存じます」


 王宮の外では、政変の予感に不安や緊張が漂っているのだろうか。けれど、王宮の奥のアイシャの住まいには無縁のことだ。常と変わらず花が咲き乱れ鳥が歌い、泉のせせらぎが涼しげな音を奏でている。

 毒殺未遂事件が落とす影を、住まう者仕える者、皆して払拭しようとするかのように、冷やされた飲み物は甘く、菓子も食事も芳しい香りを漂わせている。


「そうね……」


 扇には、白檀びゃくだんの香りが焚きしめられている。品のある甘い香りをまとった風も、ダミニの声が伴うと楽しむ気にはなれない。とはいえ、ダミニの機嫌を損ねてはならない。


「貴女に言われたこと踏まえて考えたことをお伝えしたの。ダミニには御礼を言わなければならないわね」

「そのような──恐れ入ります」


 弾む声で応えて、丁重に頭を垂れたダミニは、気付いてはいないようだった。


 アイシャが、ダミニの勧めた通りにアルジュンに進言したとは言ってこと。毒殺未遂事件を口実に、バーラン侯を糾弾すれば良い、と──それでは、ありもしない毒を告発したダミニの功績を認めることになってしまう。


(貴女の思い通りにはさせない。アルジュン様の妻は私だけよ……!)


 もちろん、ダミニをアルジュンの側室に、だなんて話もしていない。そんなこと、耳に入れるだけでもはらわたが煮えくり返る思いがするのに、自ら口にできるはずはない。それもまた、ダミニはまだ気付いていないはずだ。


 ダミニには、貴女はそういうことをする必要がないから、とだけ言ってある。そういうこと、というのはアイシャの給仕や着替えの手伝い、要は侍女としての務めだった。

 アイシャとしては、衣食にダミニが関わると不安だから、でしかないのだけれど──近々、王の側室になるからだ、と理解するのは勝手というものだ。ほかの侍女は眉を顰めているようだけれど、増長が目に余るなら報告するように、とは言い聞かせた。


(今のところ、王妃わたしの名を振りかざしたり、ほかの人たちに横暴な振る舞いをしたりはしていないようね。波風を立てても利はないと分かっているのでしょう)


 も、ダミニはそうだったのだ。最後の最後、あの墓室に至るまで、あからさまに疑いを招いたり顰蹙を買ったりするような真似はしなかった。

 それはたぶん、アイシャが無知で無垢だったからだけではない。本懐を遂げるその時までは本性を隠すことができる、それだけの狡猾さと忍耐強さを、ダミニは持っているのだろう。


「ダミニ。お菓子はどう? 遠慮しなくて良いのよ」

「まあ、もったいない仰せですわ、アイシャ様」


 毒を恐れなくて済むのだから、アイシャからダミニに菓子を勧めるのを躊躇う必要はなかった。このていどのことだから、本当に遠慮しないのも気にはならない。これで、王妃と同格になれたと思ってくれるなら安いものだ。


 ダミニの唇が乳脂バターに濡れる様は艶っぽく、いっぽうでちらりと覗く舌は肉食の獣めいた獰猛さが窺える気がして、アイシャの胸をざわつかせる。


(……のダミニはほど我慢していないのかしら。この紅玉ルビーの件では、強欲さを抑えきれていなかった。今はまだ、未熟なのかも? それは、良いことなのかしら。それとも、悪いこと……?)


 この平穏も、ほんの一時の仮初かりそめのものでしかないだろう。

 バーラン侯の調査結果が出れば、事態は動く。アイシャの偽り──裏切りとは認めたくない、絶対に──を知った時、ダミニはどう動くだろう。


(怒られても脅されても平気よ。怯えたりしないわ……!)


 それよりも、また出し抜かれないよう、欺かれないように心しなければ。

 菓子を味わう余裕もなく、アイシャが密かに拳を握りしめた時だった。慌ただしい衣擦れの音が聞こえた、かと思うと、やや低い女の声が彼女の名を呼んだ。


「アイシャ、ここにいたの」

「お義母様──お声がけいただければ、参上いたしましたのに」


 立ち居振る舞いに、金銀や宝飾が触れ合う音を伴わない──すなわち、未亡人の身に相応しく粗衣に身を包んだ王太后トリシュナが、息を弾ませて現れたのだ。


 嫁と姑の立場からすれば、ほんらいはアイシャのほうから出向くべきだったのに。敬意と従順を示すべく急いで跪いたアイシャを、けれどトリシュナは性急に手を取って立たせた。


「そのような手間も惜しいほどだったの。貴女にすぐに聞かせなければ、と思って」

「お義母様。では……?」


 いつもは知性を湛えているトリシュナの目が、今は高揚に輝いている。息を切らせる侍女たちを置き去りにするほどの急な来訪の理由は、悪い報せではないようだ。


(バーラン侯の悪事の証拠が……!?)


 アイシャの目にも、理解と、そして喜びが煌めいただろう。それを見て取ったのか、トリシュナは笑顔をほころばせると大きく頷いた。


「ええ。バーラン侯の邸宅から大量の武器が見つかったの。大侯ラージャの体面を考えても多すぎる量の金も、ね。握り潰されることを恐れる必要すらない、大きすぎる証拠だったとのことよ……!」


 トリシュナの、やや痩せた手指が、アイシャのそれを強く握りしめた。痛みを感じるほどの力のこもり方、昂ぶる血の流れが熱いと感じるほどの興奮が伝わってくる。そして、それも当然の吉報だった。


「それでは──これで、バーラン侯も……?」


 処罰できる。アルジュンを脅かすかもしれない厄介な大貴族を、堂々と排除できる。


 あえて口にするのは、少し怖くてできなかったけれど。でも、言外の言葉を聞き取ってくれたのだろう、トリシュナは再び頷いた。──と、誇らかな笑みがふと翳って、アイシャを強く抱き締める。


「貴女のお陰よ、アイシャ。恐ろしい企みが見過ごされずに済んで良かった……! 貴女がアルジュンの背を押してくれたから。もしもの時は、王妃として責を負うとまで言ったそうね? それほどの覚悟を持ってくれるようになったなんて……!」


 トリシュナは、バーラン侯の蜂起を許してしまった場合のことに思い至ったのだろう。息子アルジュンに刃が迫っていたらどうしよう、と気付いて改めて震えたのだ。一度夫を失ったことがあるアイシャだから、その気持ちはよく分かる。


「本当に良かったですわ。私……アルジュン様を脅かすかも知れない者や企みを、有耶無耶にしてはいけないと思ったものですから」


 トリシュナの不安を宥めようと、アイシャは義母の細い身体をそっと抱き返した。──そこに、ダミニの小さな喘ぎが耳をこする。


「アイシャ様……!?」


 怒りと不満と不信のこもった呼びかけを、アイシャは無視した。彼女の毒の告発が、その功績が、にされたことに気付いたのだろう。


(今、いったいどんな顔をしているの、ダミニ?)


 出し抜かれて欺かれたことに気付いたその顔を、見たいと思わないわけではなかったけれど──勝ち誇ることがアイシャの目的ではないから、耐える。


 重要なのは、思い通りにするのは、アイシャのほうだ、ということ。そのためには一時の感情で余計なことをしてはならない。今は、トリシュナに怪しまれないよう、夫のために心を砕いた王妃を演じなければ。


 アイシャはとうに決めたのだ。愛する人を守るためなら、何だってする、と。

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