束の間の和やかさ

 そしてまた数週間ほどがつつがなく過ぎた。少なくとも、表面上は。


 アイシャは、に比べれば政の場に顔を出した。そこで交わされるやり取りのすべてを理解したとはとても言えないけれど、アルジュンと過ごした時間は確実に増えたはずだ。

 夫は、「愛らしく無邪気な王妃」を口実にすれば、ほんらいは行動を取れることに気付いたようで、好んでしている。市井に降りたり、身分低い役人に声をかけたり。狩りなどの行楽を言い出せば王宮を離れることも容易いし、あらかじめ言い交わしていた相手と、人目を惹かずに会うこともできる。……毎回とは言わずとも、ダミニも伴わなければいけない場面があるのが、アイシャにはとてもとても気になっているのだけれど。


(……でも、よりは上手くやれている、のかしら? そうだと、思いたいわ……)


 自分に言い聞かせながら、アイシャは長椅子に横たわって目を閉じる義母トリシュナに語りかけた。


「──お義母かあ様。熱くはありませんか?」


 義母の髪を梳くアイシャの指先は、黒く染まっている。婚礼の時、彼女の手に吉祥の模様を描いた染料は、藍の葉を混ぜれば白髪染めにもなる。人前に出るのに白の混ざった髪ではみっともない、と──義母がよそおうことを考えてくれるようになったのは、確かな良い変化のはずだった。


(本当は、香油も香料も入れて差し上げたいのだけれど……)


 そうすれば、トリシュナの髪は艶と張りを取り戻し、威厳ある容姿を惹き立てるだろうに。

 義母が言うには、髪を染めるのはあくまでも身だしなみのためであって、着飾るということに対してはまだ厳として線を引いている節がある。大侯ラージャカイラシュが献上して来た絹は、まだ仕立てられることなく死蔵されたままだ。


「いいえ。気持ちが良いわ、アイシャ」

「それはよろしゅうございました」


 でも。それでも。義母と嫁との関係はよりもずっと良好だった。トリシュナが、アイシャに髪を任せてくれるほどに。そして、従順さと熱心さを買われてもなお、アイシャの無知は義母を呆れさせているので、殉死については今のところ有耶無耶にできている。


(……有耶無耶に、できているかしら? お義母様の御本心を聞くのは、まだ怖いわ……)


 口に出して改めて問えば、トリシュナは心変わりなどしていないと言うに決まっている。殉死など止めたほうが、などと言うのも、蛇のいる藪をわざわざ棒でつつくようなものだろう。

 だからアイシャにできるのは、謙虚に学びつつ義母に仕えることだけ。そうして、生きることが心地良いことだと思い直してもらうのだ。夫君を亡くしてもなお、楽しいこと喜ぶべきことはまだあるのだと──きっと、難しいことだとは、分かっているけれど。


「──終わりました、お義母様。洗い流すまでしばしお待ちくださいませ。あの、お菓子を召し上がりませんか?」


 生え際から毛先まで。トリシュナの髪に、湯で溶いた染料をまんべんなく擦り込んでから、アイシャは丁寧に綿布で覆った。染料が馴染むまでに、いったん時間を置かなければならない。


「いいえ、結構。私は水だけで良いの。貴女たちだけで楽しみなさい」

「……恐れ入ります」


 おずおずとした気遣いを跳ね返すトリシュナの声と心のかたくなさは分厚い石の壁を思わせた。決して開くことのなかった、あの墓室の扉のような。


(嫌だわ──いいえ、忘れてはいけない。あの暗さと冷たさ、恐ろしさ……)


 蘇った恐怖と寒気を、軽く首を振って払いのけて。アイシャは侍女に水を運ぶように命じた。トリシュナに供するためのものと、彼女自身が手を洗うためのものだ。多少の染みがついても構わない衣装を選んではいるけれど、王宮の床の、真白い石の細工に黒い汚れを落とすのはよろしくない。


 染料を溶いた器に、手指に残った余分な染料を慎重に落とそうとした時──アイシャの手が、横から優しく捕えられた。


「アイシャ。私が手を洗おう」


 アルジュンの指先までもが染料で黒く汚れるのを見て、アイシャは悲鳴のような声を上げた。


「そんな。王たる御方がそのようなこと──」

「やりたいから言っているのだ。さあ、王の命令だから」


 染料が飛び散るのを恐れて、アイシャが強引に手を振りほどくことができない。何より、アルジュンに甘く優しく微笑まれては、否、と言い張ることなどできなかった。たとえ、目を細めて彼女たちを見守る、義母の前だったとしても。


「もう……!」


 頬が熱くなるのを感じながら、アイシャは夫の手に自らのそれを委ねた。

 互いの指が絡められる。アルジュンは、丁寧な手つきでアイシャの指の間、爪の間まで清めていく。くすぐったさを堪えると心臓がどきどきとして、体温を上げる。冷たいはずの水が、どういうわけか湧き立つ湯であるかのような。


(何だか恥ずかしいわ……)


 王宮の奥、身内だけでの場でのことだ。王が戯れたとしても見咎める者などいない。トリシュナも、寛いだ姿勢で微笑んでいる。だから堂々としていれば良いはずなのだけれど──それがどうにも難しい。


 染料によって淡く墨色に染まった水が何度か取り換えられたころ、トリシュナがぽつりと呟いた。


「それほどに仲が良いのだもの。めでたい報せも間もなくでしょうね」


 めでたい報せとは何か、聞くまでもない。アイシャの懐妊も遠くないだろうという意味だ。


「それは、あの」


 いまだ両手をアルジュンに捕らえられたままで身動きもままならず、アイシャは不躾にも首だけを義母に向けた。気の利いた相槌を打とうにも、何をどう言えば良いのか分からない。


(私にとっても、待ち望んだことだったわ。十年の間、ずっと)


 色々なことが変わったなら、もしかしたら。

 は十年もの間、懐妊しなかったのだから、やり直したところでどうなることか。


 ふたつの思いに引き裂かれて。しかも、そのいずれも口にするわけにはいかなくて。アイシャが狼狽える間に、アルジュンはさりげなく母に応じた。


「その報せは、真っ先に母上にお届けしましょう。孫の顔も名も、父上にお知らせしていただきたいものです」


 そのような慶事があれば、確かに王太后の殉葬は先延ばしにしなければならないだろう。そして、懐妊には王子か王女の誕生が続くものであって。その祝宴もまた、死者のための儀礼に優先されるはず。


(お義母様。では……!?)


 もう少し生きていても良い、という意思表示なのか。孫の顔を見るのを楽しみにしてくれているのかどうか。


 アイシャの目が期待と希望に輝いたのを見て取ってか、トリシュナはたしなめる風情で眉を顰めた。


「それでは我が君をお待たせすることになってしまう。私が抜け駆けで知ってしまうのも不本意です。そう──だから、時機が難しいと思っただけよ。、ね」


 懐妊の報にをされる前に、亡き夫君のもとへ行かなくては──トリシュナの決意がいまだ固いのを突き付けられて、アルジュンは口をつぐんだ。

 清水にひたった夫の手指に力がこもったのを感じ取って、アイシャは慰めの想いを込めてぎゅっと握り返した。

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