世間話の影で

 ダミニの兄、シャマールの問いに答える前に、アイシャは傍らに置かれていた杯を手に取った。

 檸檬を絞って蜂蜜を加えた果汁には氷が浮いて、精緻な模様が施された銀の杯の表面に雫を凝らせている。指先を濡らした雫と喉を滑り落ちる飲み物の冷たい感触に、どうにか心を落ち着ける。


「──ダミニは、奥で衣装や宝石の整理をしてもらっています。この間に、たくさんいただいたものですから」


 絹を献上してきた大侯ラージャカイラシュをちらりと見ながら、アイシャが述べたことは嘘ではない。


 婚礼への祝いの品と称して、王と王妃への貢ぎ物が数多く王宮に集まっている。質量の把握のため、返礼のためにも目録を作り、それぞれの品に相応しい保管場所に落ち着けるのは間違いなく必要な仕事だった。

 ただ、それをダミニに命じたことについて、アイシャがまったく迷わなかったわけではなかった。


(今ごろ、ダミニは王妃のように振る舞っているのかしら?)


 金銀の細工が触れ合って奏でる柔らかな音色。大粒の宝石や連ねられた真珠の目が眩むような輝き。蕩けるような艶を帯びた絹の滑らかさ。

 いずれも、女なら夢中になって当然だ。整理にあたる侍女たちが、手に取って眺めたり見蕩れては溜息を零したりするのは、構わない。彼女たちのほとんどは分を弁えてくれていると信じているし、輝かしい品々を凝視するのも、どの組み合わせがアイシャに似合うかを考えるためだと知っているから。でも──ダミニについては、どうだろう。


 ダミニがほかの侍女たちに指図して、王妃のための品を我が物であるかのように扱う姿を想像するのははっきり言って不快だった。

 でも、夫やアイシャの食事の席に侍らせる気には相変わらずなれないし、仮にも王妃の親族をあからさまに冷遇するわけにもいかない。苦肉の策で相応の役目を捻り出した、というのが正直なところだった。


「なるほど。妹へのご信任、誠に光栄に存じます」

「従姉妹ですもの。それに、見る目がある人でないとお願いできないでしょう?」


 シャマールが笑顔で頷いた通り、ダミニが貢ぎ物の数を誤魔化したり宝石の一粒や二粒を自分の衣装の隙間に隠したり、だなんてことがあり得ないのは承知している。豪華絢爛な宝物に目が眩むばかりではなく、価値を正しく判断できるであろうことも疑ってはいない。

 けれどそれは、必ずしもダミニへの信頼を表してはいないのも、また事実。


 だってダミニは、王を害し、王妃を葬らせ、次の王をも操ろうする女なのだ。

 スーリヤの国そのものに比べれば、どんな宝石も小石に等しい。で満足するはずがない──だから、ダミニがおかしなことをするはずはないのだ。


(今のところは、でしかないけれど、ね)


 アイシャは、笑顔を強張らせないよう、声を震えさせないよう、内心の必死を押し隠してさりげなく尋ねた。


「……ダミニをこちらへ呼びましょうか、シャマール従兄にい様? 久しぶりなのではございませんか……?」

「それには及びません。あれにも務めがあるのでしょうから。健やかであると伺えただけで安心しております」


 身構えたアイシャに対して、シャマールの答えは拍子抜けするほどあっさりとしたものだった。


(この場で、強いて会いたいと願うはずもない。仮にそうしたとして、兄妹で悪事を企めるはずもない。分かってはいたけれど……)


 王妃の親族が何気なく切り出した世間話、でしかないはずだ。そう、自分に言い聞かせようとしても、アイシャの腹の底で黒い疑惑が居心地悪くとぐろを巻いていた。


(ダミニを兄と会わせないほうが良い。手紙のやり取りも。きっと、ダミニはそうやって毒薬を持ち込んだのだろうから。でも──この先ずっと、というわけには行かない)


 ダミニだけでなく、その兄のシャマールへの警戒も怠ってはならない。でも、どうやって? アイシャが諸侯の動向を気に懸けるのはいかにも不審だろう。


(ううん、不審に思われないようにすれば良い、の? 政に口を挟んでもおかしくないくらいに勉強すれば……ダミニを、見張りながら?)


 険しく遥かな先行きを思って、アイシャは目の前が暗くなる思いを味わった。溜息を呑み込むため、彼女が再び銀杯を口に運ぶ間を持たせるように、アルジュンが口を開く。


「ラームガル侯の妹君というのは、私も知っている。母上を説得してくれた、聡明で我慢強い女人のようだな」

「そのようなことがあったのですか」

「うむ。寡婦は人前には出ぬものと、閉じこもっておられたから──アイシャも難しい役目を与えたものだと思ったのだが、従姉妹同士だけに人となりをよく知っていたから、なのかな?」


 アルジュンに水を向けられて、アイシャは慌てて頷いた。やや乱暴に杯を置いたことで、溶けかけた氷が銀と触れ合い、鈴のような音を奏でた。


「え、ええ。あの……私にはお義母かあ様のご指導が必要でしたから。どうしても、と。ダミニ──あの、私の従姉、ラームガル侯の妹君にお願いしたのです」


 早口に説明すると、ダミニを直接は知らないふたりの諸侯、チトラクートの太守ナワーブニシャントとエルールの大侯ラージャカイラシュは、ほう、と感嘆の息を漏らした。


「ラームガル侯はしっかりした妹君がいらっしゃるご様子だ」

「王妃様もお心強いことでしょう」


 にこやかに語りかけられて、けれどアイシャは素直に頷くことはできなかった。首を動かす動作はぎくしゃくとしていたし、声も、波立つ内心を反映してわずかながら掠れていたことだろう。


「ええ。とても……よく、仕えてくれています。お姉様のようにも思っていますの」


 自らの心に短刀を突き立てるような、血を吐くような思いでアイシャはどうにか絞り出した。


(アルジュン様もこの方々も、何も知らないから。シャマール従兄様を立てるのも、当然のことよ……!)


 王の陣営に立ってくれる貴重な諸侯なのだから、その身内を褒めるのは当然のこと。居合わせた者同士、良い評判を聞けばそれなりのことを述べるのが礼儀だというものだろう。


 まるで、アイシャがダミニに無理を命じたかのような話になったのは──ほんの少し、気にならないでもないけれど。でも、アルジュンがそれだけ親しみを持って語ってくれるのは喜ぶべきことだし、何より、義母のトリシュナの対応をダミニに任せたことについては、確かに含みもあったのだからしかたない。しかたない、はずなのだけれど。


「妹君のご結婚は? 王妃様にあやかりたいことでしょう」

「ええ。王宮にいる間に良い縁があれば、と思っていますね」

「では、私が名乗り出ようかな」


 軽口めいた申し出をしたのは、ニシャントだった。太守ナワーブの称号を帯びる彼も、広い領地を持つ裕福な貴族。ダミニの相手としては、不足ないはずなのに──


「もったいないことです。妹はまだまだ未軸者でして。王妃様のお傍で礼儀作法を学ばせなければ」


 まったく興味を示した気配もなく受け流したシャマールは、やけに熱い──意味ありげな目でアルジュンを見ているようにも思えた。


(……から、だったの? ダミニをアルジュン様の側室にすることを、狙っている……?)


 殿方たちが和やかに歓談するいっぽうで、アイシャの胸に立ったさざ波は、いっこうに収まってくれなかった。

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