第十一話① 晒された弱点(前編)
十二月も中旬になった。
クリスマスが近付いている。
雪は連日降り続け、外は白く染まっていた。もっとも、泥などが混じり、あまり綺麗な白ではないが。
秀人の生家は、郊外にあった。車の通りもそれほど多くなく、雪を汚すものが少なかった。雪化粧をした木々は、粉砂糖をかけたチョコレートのようだった。
昔見た景色を思い浮かべると、秀人の口角が自然と上がった。
――華が出産して落ち着いたら、あの景色を見せてあげたいな。
この国を潰して、海外に移住する前に。
秀人は最近、ずっと考えていた。どうすれば、華にストレスを与えずに英語を教えられるか。英語に馴染ませることができるか。
方針が、ようやく決まった。
華に、英語の絵本を見せよう。綺麗な絵が描かれていて、片隅に、物語の内容が英語で書かれている本。英語のボイスデータが付いているやつがいい。
綺麗な絵が描かれている本だから、華も興味を持ってくれるだろう。英語の音声を耳に入れるだけだから、ストレスにもならない。
綺麗な絵で描かれた、物語。きっと華は、内容を知りたくなるはずだ。英語の音声を聞かせながら、内容を解説してあげよう。
華がそれだけで英語を理解できるとは、もちろん思っていない。音声の内容と意味を、丸暗記できたとしても。絵本に書いてあることだけで、言語の全てを理解することなどできない。
けれど、効果はあるはずだ。少しだけでも英語を知ることができる。英語に慣れ親しむことができる。
あとは、赤ん坊を育てながら、ゆっくりゆっくり教えていけばいい。この国を沈没させる時期はかなり遅れるだろうが、計画が頓挫することはない。
華は妊娠七ヶ月。
最近の彼女は、体調が安定しなかった。お腹が張ったり、動悸や息切れを起こしていた。だが、今日は調子が良さそうだ。朝食をしっかり食べることができた。顔色もいい。疲れないように、今はソファーで休んでいるが。
時刻は午前十時。
華の調子が良いうちに、絵本を買いに行ってこよう。
朝食で使った食器を洗い終えると、秀人はソファーまで足を運んだ。
「華」
「ん? 何? 秀人」
「動画もいいけど、絵本とか見たくない? 可愛い絵の絵本」
華はパッと表情を明るくした。
「見たい! 華ね、学校に行ってたときね、図書室で絵本見てたの。難しい本は読めなかったから、絵本が好きだったの!」
「じゃあ、俺が今から買ってくるね。だから、ちゃんと大人しくしててね」
「うん、大丈夫。華、お母さんだから。ちゃんとこの子が休めるようにしてるよ」
言いながら、華はお腹を撫でた。
「今七ヶ月だから、あと三ヶ月だね。華ね、早くこの子に会いたいな。秀人が絵本買ってきてくれたら、この子にも読んであげるんだ」
「……うん。そうだね」
今から買ってくるのは、英語の本だ。華が赤ん坊に読んであげるのは難しいだろう。たった三ヶ月では、そこまで英語を理解できない。もしかしたら、必死に丸暗記するかも知れないが。
秀人は身支度を整え、コートを羽織ると、再び華のところに足を運んだ。
「じゃあ、行ってくるよ。ちゃんと大人しくしてるんだよ。あと、具合が悪くなったりしたら、すぐに電話して」
「大丈夫。華、今日は調子いいんだ」
「うん」
「ね、秀人」
「何?」
「行ってきますのちゅーして」
華が、秀人の方に唇を突き出した。
行ってきますのちゅーなんて、いつ覚えたのか。動画で得た知識だろうか。秀人は苦笑しながら、華の唇に軽くキスをした。
「じゃあ、行ってきます」
「行ってらっしゃい」
家を出て、秀人は車に乗り込んだ。ここから車で三~四十分のところに、大型の本屋がある。あそこなら、絵本もたくさんあるはずだ。洋書のコーナーもある本屋。きっと、華が好きそうな絵本もあるだろう。
雪道で車を走らせる。車内には、音楽が流れている。生前の姉が好きだったバンド。今流れているのは、彼女が一番好きだった曲だ。かきつばた中学校の屋上で、秀人が口ずさんだ曲。
――俺が父親になるなんて知ったら、姉さん達はどんな顔をするかな。
ふいに思い浮んだ疑問に、秀人は苦笑した。三十年近く前に惨殺された家族。もうこの世にはいないのに、どうしても思い浮かべてしまう。きっと、自分が父親となり、新しい家族ができるからだろう。
「……?」
ふと、秀人は違和感を覚えた。
――あれ? なんでだ?
それは、ただの違和感ではなかった。明らかな異変。
――いや、でも。たぶん、運転中だからだろうね。
事故など起こせないから、運転に集中しているせいだ。
違和感の理由を、秀人は簡単に結論付けた。
三十分少々車を走らせると、本屋に着いた。
駐車場に車を停め、下車し、秀人は本屋に入った。まずは絵本のコーナーに足を運ぶ。数冊の本を手に取ってみたが、どれも日本語だった。手にした本を元の場所に戻し、洋書のコーナーに足を運んだ。
洋書のコーナーにも、絵本はあった。ボイスドラマ付きの本もある。
手に取って、何冊か中身を見てみた。おとぎ話のような物語。実際にあったことを絵本にしたもの。少し大人向けの、純愛物語。英雄がお姫様を助けるファンタジー。
ボイスドラマ付きの絵本に、全て目を通して。秀人はその中から、華が気に入りそうな絵本を選んだ。三冊。
一冊は、獣の姿をした男を美しい女性が愛する物語。一冊は、行方不明になった猫が二年もかけて飼い主のところに帰り着く物語。最後の一冊は、少し大人向け。決して結ばれない運命にある男女が、それでも愛を貫く物語。
三冊とも、絵が綺麗で可愛らしい。英語が分からなくても、この絵だけで楽しめる。絵から物語の内容が想像できる。内容を想像したら、実際はどんな物語なのか知りたくなるだろう。華が物語の内容を聞いてきたら、英語の音声を聞かせよう。隣りで通訳してあげよう。
華はきっと、物語の内容に喜び、あるいは感動するだろう。
絵本を買う本来の目的は、華に英語を覚えさせることだ。それなのに秀人は、彼女の喜ぶ姿が楽しみになっていた。妊娠して、体調の悪い日もある。どうしようもないくらい辛い日もあるはずだ。それでも華は、決して弱音を吐かない。不機嫌を撒き散らすこともしない。
そんな華だからこそ、少しでも楽しませたい。喜ばせたい。
――そうだ。
ふいに思いついた。華に絵本を描いてあげよう、と。
秀人は今まで、知識の吸収とクロマチンの訓練に明け暮れていた。全て、この国を潰すために。絵の練習など、したことがない。最後に絵を書いたのは、家族が殺される前だ。
イラスト用のタブレットを購入して、今日から絵の練習をしてみよう。秀人は、手先の器用さにも自信がある。すぐに可愛らしい絵が描けるようになるはずだ。華が喜ぶような絵。
華が喜びそうな絵に、華が喜びそうな物語を添えよう。英語と日本語の両方で、読み聞かせよう。
手に取った三冊の本を購入し、車に戻った。発車する。
秀人は、帰り道の途中にある家電量販店に寄った。絵を描くためのタブレットを購入した。
買い物を終えた時点で、時刻は午後十二時十五分になっていた。
絵本を選んでタブレットまで購入したせいか、思ったよりも時間がかかった。
そろそろ昼食の時間だ。早く帰って用意をしないと。華がお腹を空かせているかも知れない。もしかしたら、無理して自分で作ろうとしているかも知れない。
警察に捕まらない程度にスピードを出し、車を走らせた。
十二時半少し過ぎに、家に着いた。
車を車庫に入れる。買った物を小脇に抱えて、車から降りた。
車庫から出て、家の外観を確かめる。
「……?」
華が妊娠してから、一日たりとも留守にしなくなった自宅。見慣れた場所。確かな違和感が、そこにあった。
玄関のドアまで続く通路が、薄く雪に覆われている。その雪の上に、足跡があった。秀人の足跡ではない。秀人よりも明らかに大きな足跡。それが二種類。さらに、秀人よりも小さな足跡が一種類。
小さな足跡は、華の足と同じ大きさだった。
秀人の頭の中に、人生で最悪の記憶が蘇った。家族が惨殺された日の記憶。洗濯槽の中で、母と姉の悲鳴を聞いた。下衆共の下劣な笑い声を聞いた。もっとも苦しく、もっとも辛く、激しい憎しみに満ちた記憶。
秀人はクロマチンを発動した。内部型クロマチン。身体強化。
華の小さな足跡は、つま先が外に向いている。つまり、華が家から出たことを意味している。家に戻る足跡はない。華は今、家にいない。
大きな足跡は、家に向かう方向と家から出る方向の両方があった。
――華が、誰かに家から連れ出されたのか?
考え過ぎかも知れない。新聞の勧誘か何かが二人連れで来て、華に断られて帰った。その後に、彼女がコンビニにでも出掛けた。そんな可能性の方が高いだろう。
秀人は深呼吸をして、自分を落ち着かせた。どんなに不安でも、どんなに嫌な記憶が蘇っても、冷静さを失ってはいけない。一旦、家の中の様子を確認しよう。
鍵を開けて、家の中に入った。リビングのドアを開けて、周囲を確認した。
猫が五匹、秀人に駆け寄ってきた。足に擦り寄ってくる。
リビングに荒された形跡はない。争った形跡もない。
「華―?」
華を呼んでみたが、返事はなかった。
購入した物をソファーの上に置いて、秀人は、ポケットからスマートフォンを取り出した。通話履歴の中の、華の名前をタップした。彼女に電話を架ける。
三コール目で、彼女が電話に出た。
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